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「あなたにとって祈ることとは何ですか。」創世記18:20~32・コロサイ2:6~15・ルカ11:1~13

更新日:2023年2月18日

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


創世記18:20~32

主は言われた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい。」

その人たちは、そこからソドムの方へ進んで行った。アブラハムは、まだ主の前に立っていた。アブラハムは近づいて言った。「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。もしかすると、その町の中に正しい者が五十人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにならないのですか。

正しい者を悪い者とともに殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになる、というようなことを、あなたがなさることは絶対にありません。そんなことは絶対にあり得ないことです。全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。」

主は言われた。「もしソドムで、わたしが正しい者を五十人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう。」

アブラハムは答えた。「ご覧ください。私はちりや灰にすぎませんが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町のすべてを滅ぼされるのでしょうか。」主は言われた。「いや、滅ぼしはしない。もし、そこに四十五人を見つけたら。」

彼は再び訪ねて行った。「もしかすると、そこに見つかるのは四十人かもしれません。」すると言われた。「そうはしない。その四十人のゆえに。」

また彼は言った。「わが主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしかすると、そこに見つかるのは三十人かもしれません。」すると言われた。「そうはしない。もし、そこに三十人を見つけたら。」

彼は言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、そこに見つかるのは二十人かもしれません。」すると言われた。「滅ぼしはしない。その二十人のゆえに。」

また彼は言った。「わが主よ。どうかお怒りにならないで、もう一度だけ私に言わせてください。もしかすると、そこに見つかるのは十人かもしれません。」すると言われた。「滅ぼしはしない。そ十人のゆえに。」



コロサイ2:6~15

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者ら中からよみがえらせた神の力を信じたからです。背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。



ルカ11:1~13

さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ。御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。

私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。

私たちを試みにあわせないでください。』」

また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ。パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。「面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』

あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、さそりを与えるような父親がいるでしょうか。

ですから、あなたがたは、悪い者であっても、自分の子どもたちには良いもの与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」


あなたにとって、祈ることは簡単ですか、それとも難しいですか。

私はいろいろな人に、祈り方がわからない、祈れない、という相談を受けたことがあります。祈りには確かに難しさがあります。間違った祈り方を一つ例にあげると、神様が自分の思い通りに働くように強制しようとする祈りです。つまり「御心がなるように」と祈るのではなく、「私の思うように神がなるように」、「神様、こうしてください、これはやめてください。私がそう望むので。」という祈りで、これは間違っています。

弟子たちは祈り方を学ばなければならないことを理解していました。正しい祈りとは何かを知りたかったのです。それでイエスに祈りを教えてくださいと頼みました。今日読んだ聖書箇所の中で、祈りについてたくさんのことを学べますが、今日特に注目したいのは、私たちが神を変えるのではなく、祈りを通して神がどのように私たちを変えるのか、ということです。


最初の創世記の箇所は、アブラハムが神と交渉をする場面です。神がソドムとゴモラをさばくことをアブラハムに伝えます。アブラハムは賢い交渉を通して、神が自分の提示した条件に同意するようにさせた…わけではありません。

神がソドムとゴモラをさばくと決めているなら、黙ってやればいいのに、なぜわざわざアブラハムに伝えるのでしょうか。その理由は、アブラハムがその町のために祈るためでした。神はそのきっかけを作っているのです。

アブラハムは全世界の祝福のために備えられた人でした。アブラハムはキリストの雛形です。キリストが全世界のために祈ったように、教会がキリストにならって世のために祈るように、アブラハムもその仲介者の働きをしています。だから神様は祈りを通してアブラハムを変えているのです。

【創世記18:25】正しい者を悪い者とともに殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになる、というようなことを、あなたがなさることは絶対にありません。そんなことは絶対にあり得ないことです。全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。」

アブラハムは神のご性質に訴えて「あなたはこのような神ではありませんか」と言っています。神はアブラハムも私たちも罪人に対するあわれみの心を持つように導いています。そして神の義しさや恵み深い正義を求めるように導いています。祈りを通してアブラハムも私たちも変えているのです。


【詩篇138:1】心を尽くして 私はあなたに感謝をささげます。御使いたちの前で あなたをほめ歌います。私は あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し 恵みとまことのゆえに 御名に感謝します。

私たちが祈ってもこのようなことばは思い浮かばないかもしれません。ここでの「御使い」ということばはヘブル語で「エロヒーム」でもともとは「偉大なもの」とか「神々」と翻訳されることばです。「神々」と訳すと違和感を覚える人がいるので、意訳ですが「御使い」と訳すのは解釈として正しいと思います。

「神は神々(エロヒーム)より偉大な神」という表現が聖書にあります。なぜエロヒームということばを使っているかというと、天使のあり方を表していると思います。天使はあまりにも力があって栄光に満ちているので、人間が天使の前に出たときに本能的に拝みたくなるのです。天使が「やめなさい」と言わなければならないほどです。サタンのような滅びた天使は自分を拝むように人間を誘惑します。それが偶像礼拝です。

じつは、すべての祈りは天使の前で行われていますが、現代の私たちにとってそれは忘れがちなことです。なぜなら、祈るときに目をつぶってほぼ空っぽの部屋で祈るのが、私たちの典型的な祈りでだからです。暗闇の空洞の中にいて、見えない神の存在を感じるように祈ります。これは一つの祈り方で、間違ってはいないのですが、これが本来の祈りの基準でも標準でもありません。これが本来の祈り方だと思うのはモダニズムでイデアリズムなのです。つまり、自分の頭の中の概念的な神に集中している状態なのです。しかし、聖書の中で、イエスや弟子たちが目をつぶって祈る場面はありません。(実際は目をつぶって祈っていただろうと想像できる場面はあります。)

では聖書ではどのような祈り方をしているのでしょう。ちょうど今日の詩篇のように、神殿に向かってひれ伏して祈ることがあります。なぜ神殿かというと、地上にある神の王座だからです。

あるいは、イエスが目を天に向けて祈ることがありますが、それはこの天が天の父の王座を表すものだからです。

もう一つの祈り方は、目を下におろして神に目を上げないで、へりくだって悔い改めの祈りをします。

では目をつぶって祈っても良いのでしょうか。はい、もちろんです。問題はありません。特に、周りに自分の気をそらすものが多くて、見えない神に集中して祈ることができない場合は目をつぶって祈って良いと思います。しかし場合によっては見えるものが祈りを助けることもあります。書いたものを読んで祈る時、見ている何かのために祈っている時(例えば東京タワーに上って展望台から東京のために祈る時など)、病院で病人のために祈る時、祈りの名前のリストや写真を見ながら祈る時などです。

キリストの臨在を表すものに向かって祈る時もあります。イエスは象徴的に東から来ると言っているので、東の壁に向かって祈る人もいます。礼拝式次第は牧師と会衆が会話しているものなので、牧師の方に向いて祈りのことばを使います。あるいは聖餐式のパンと杯の方を向いたり、十字架に向かったり、聖書の方を向いたり、イエスが私たちと共にいることを表しているものに向かって祈っています。目をつぶっていても開いていても何か真空状態に神と自分だけがいる状態を想像しないでください。実際のエルサレムの神殿には、栄光ある力ある天使であるケルビムを表す絵や彫刻があり、常に礼拝者でいっぱいでした。天使と聖徒の集まりの中に神がいるということを表していました。これが地上で何百年も続いていました。しかしその神殿は破壊されてもはや存在していません。今はまことの神殿であるイエス・キリストのからだは天にある王座に座しています。そして天使と聖徒たちの随行団に囲まれています。それで私たちは御霊のうちにイエスの御前にひれ伏すのです。この部屋で祈る時は、御霊を通してまことのイエスの神殿の前でひれ伏しているのです。


今日のルカの箇所は、イエスが弟子たちに主の祈りを教えてくれるところです。主の祈りはイエスご自身がささげる祈りです。

父よ。

イエスの父は私たちの父でもありますので、イエスの立場から祈るような招きになっています。これは決して寂しい祈りではありません。自分と神の二人だけが空洞にいるような祈りではなく、私たちは神を父と呼ぶすべての人とともに祈っているのです。私たちの兄弟イエスと教会とともに祈っています。

御名が聖なるものとされますように。

イエスは神の聖さを大事にしていました。ご自分をきよく保ったし、イエスの働きの初めも終わりも神殿をきよめることでした。十字架の働きはこの世を罪からきよめることでした。神のきよさがこの世に戻って、人類が神のきよい器となるような働きでした。私たちが再び神の神殿となって、神とともに住むことができるようにするためでした。

私たちはどのように祈るべきでしょうか。一つは、私たちが自分をきよい器として守り、神が私たちを通して働くことができるように。もう一つは、お互いがその状態でいられるように、お互いのきよさを守ることです。そのために私たちは一つの愛のコミュニティとして生活しなければならないのです。遠くにいる主にある兄弟には何もしてあげることができません。だから教会のコミュニティーは生きて助け合うコミュニティであることが大切です。

御国が来ますように。

御国を漠然としたものとして思わないでください。御国は王様が支配しておられる場所という意味で、王国です。イエスは自分をユダヤ人の王であると言い、カエサルに代わって王になろうとした罪で十字架にかけられました。それは偽りで、実際にイエスはピラトと次のように話しています。

【ヨハネ18:36~37】イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

イエスが建てようとしている国は、カエサルの国のようなこの世の王国ではありません。イエスが王の王として支配します。

【詩篇138:4】主よ 地のすべての王はあなたに感謝するでしょう。彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。

イエスはこの世のすべての人を、この王国に招いています。イスラエルの王として、世界の王になるために。だとしたら、私たちは、この世の苦しみから引っ張り出されて、逃げて、自分だけが天の御国に入って救い出されるように祈るべきではないし、そのように祈ってはいけないのです。私たちはイエスのようにこの世に送り出されたので、この世の救いのために祈り、戦わなければなりません。戦うときに、剣をもって戦うのではありません。天の御国なので、神の口のみことばを用いて、真理について証しすることを通してこの国を建てあげるのです。礼拝を通して、きよい生活を通して、十字架の道を歩んでイエスの王国を求めます。

私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。

イエスは実際に空腹を知っています。四十日間の断食をしたので、イエスこそ神が日毎のパンを与えることを知っています。イエスは私たちのようなからだを持ってこの世に来たので、その必要性をよくわかっています。だからそのために祈るように教えてくれましたが、毎日のパンは、宝くじが当たることを祈るような大きな祈りではありません。でも私たちがパンを求めるから、天の父は蛇ではなくパンを下さるのです。

【ルカ11:11~13】あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、さそりを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは、悪い者であっても、自分の子どもたちには良いもの与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

イエスは私たちを宴会に招きます。イエスは宴会が大好きでした。イエスの働きの初めはカナの婚礼で行った奇跡でした。また五つのパンと二匹の魚で五千人をお腹いっぱい食べさせました。

イエスは生きている間にたくさん食べました。そして、「わたしを覚えるために」と言ってパンとぶどう酒を与えてくださいました。御父は私たちの杯があふれるほどの祝福を与えてくださいます。この祈りはからだの必要と霊の必要を満たすための祈りです。そこはいつも平行しています。つまりこの祈りは究極的な聖餐式を求める祈りなのです。私たちが生けるパンを下さいと祈ると、御父はキリストを与えてくださいました。私たちはお腹が空くことがあるし、からだの必要が与えられないこともありますが、常に神様は私たちに御子を通して永遠のいのちを与えてくださいます。

私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。

イエスは私たち以上に罪のことを知っていました。罪のないイエスが、私たちの罪のために十字架で殺されました。人にされることの中で一番ひどいことはなんでしょうか。またその裏切りの痛みはまだ痛いですか。私たちがその苦しみを感じている限り、赦すのは難しいことです。癒されて痛みがなくなるまでは、なかなかその人を赦すことはできません。しかしイエスはまだ十字架にかかって苦しんでいる時に、赦しを祈ってくださいました。

【ルカ23:34a】「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

私たちも罪が赦されているので、痛みが残っていても相手の罪を赦さなければなりません。その人の祝福を祈らなければなりません。その祈りによって、あなたはイエスのように変えられるのです。

私たちを試みにあわせないでください。

この祈りは、パンのための祈りのようには、かなえられないような祈りにみえます。実際にイエスはたくさんの試みにあわせられました。イエスの働きは御霊が荒野に連れて行ったところから始まったのです。実際に四十日間も断食して悪魔の試みにあいました。イエスの働きはゲッセマネ、そして十字架で終わりました。このように祈っているのに、なぜイエスはこんなに試みにあうのでしょうか。確かにこの道は私たちが歩みたい道ではありません。しかし、私たちも試みをすべて避けることはできません。場合によっては私たちも「わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と祈ることもあるでしょう。

しかし神がイエスを十字架から救って、死から救って、すべての悪から救い出して、復活のいのちを与えてくださったように、神は私たちも救い出して、永遠のいのちを与えてくださることを信じています。さらにこの祈りは、兄弟も試みにあわないで救い出されるように、彼らを助けて、祈って、行動しなければなりません。

このように私たちが主の祈りを祈る時、神によって変えられて、みことばを通してよりイエスに近い者とされます。




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