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「あなたの敵を愛しなさい。」ルカ6:27〜38・創世記45:3〜11、15・詩篇37:1〜11、39〜40

更新日:2023年2月18日

「あなたの敵を愛しなさい。」

ルカ6:27〜38

しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。あなたの上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。

求める者には、だれにでも与えなさい。あなたのものを奪い取る者から、取り戻してはいけません。

人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。

自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、あなたがたにどんなに恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。

返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。

しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずなものにも悪人に悪人にもあわれみ深いからです。あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。

さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前よく量って懐に入れてもらいます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。


創世記45:3〜11、15

ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも借り入れることもないからです。神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。どうか、急いで父上のところに上って行き、言ってください。『息子のヨセフがこう言いました。「神は私をエジプト全土の主とされました。ためらうことなく私のところに下って来てください。ゴシェンの地に住んで、私の近くにいて下さい。父上も、子と孫、羊と牛、また父上に属するすべてのものも。飢饉はあと五年続きますから、父上も家族も、また父上に属するすべてのものも、困ることのないように、私が父上をそこで養いましょう」と。』

彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。



詩篇37:1〜11、39〜40

悪を行う者に腹を立てるな。不正を行う者にねたみを起こすない。

彼らは草のようにたちまちしおれ 青草のように枯れるのだから。

主に信頼し 善を行え。地に住み 誠実を養え。

主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

主は あなたの義を光のように あなたの正しさを 真昼のように輝かされる。

主の前に静まり 耐え忍んで主を待て。その道が栄えている者や 悪意を遂げようとする者に腹を立てるな。

怒ることをやめ 憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

悪を行う者は断ち切られ 主を待ち望む者 彼らが地を受け継ぐからだ。

もうしばらくで 悪しき者はいなくなる。その居所を調べても そこにはいない。しかし 柔和な人は地を受け継ぎ 豊かな繁栄を自らの喜びとする。

正しい人の救いは 主から来る。苦難のときの 彼らの砦から。

主は彼らを助け 解き放たれる。悪しき者どもから解き放ち 彼らを救われる。彼らが主に身を避けているからだ。


今日は実行するのが最も難しくて、論争を引き起こす教えについて話します。

「敵を愛すること」についてです。

この教えはキリスト教をユニークにするものです。無神論者や異教徒たちは、この命令を見ると二通りのリアクションをします。

①「この命令は素晴らしいし理想ではあるが、非現実的だ。」

②「この命令はナイーブで愚かで、こんなことをすれば自分を破壊して終わるだけだ。」


この命令はキリスト教以外からは出て来ません。そして人間がこれを受け入れられないのは天からの愛だからです。そして人間にとって非自然的なもので、神にしか属していない愛だからです。

敵を愛することは、人間の愛と神の愛の違いを見せるものです。

人間の自然な愛は、男性が女性を、母が子を、友が友を愛する愛、互いに忠実になる愛などです。

それだけではありません。私たちのうちにあるのは、私たちを憎む者、私たちを汚れさせようとする者、私たちをいためつけようとする者に対して自然と怒りを感じて復讐したくなります。私たちはそれを正義と呼ぶかもしれません。それが抑えられないのが人間の自然な反応なのです。

だから、自分を傷つけようとする者や自分を憎んでいる者を愛して、自分を呪う者を祝福することができれば、それは人から出たものではありません。だからイエス様がこの命令を言うのは、イエスもイエスの命令も神から出たことの証明です。なぜなら実行することが一番難しい命令だからです。

自分の愛が神から出たものかどうか試してみたければどうぞ。自分の敵を愛してみてください。天に神がいなければ、或いは天にいる神が愛なる神でなければ、確かに敵を愛する事は非現実的で愚かなことです。だれもできません。たとえだれかがやったとしても自分を破壊することになります。


しかし、この見方には問題があります。人は自分の敵を愛したことがあります。これは歴史的な事実です。だから愛することが可能です。しかも敵を愛した者たちは敵に対して勝利しました。今日読んだ箇所はまさにその歴史的なところなのです。


ヨセフはヤコブの十二人の息子のうちの十一番目でしたので、お兄さんが十人いました。そしてその十一人のうち、ヨセフが一番良い息子で、一番父親に愛されていました。それで彼の十人の兄たちは彼を憎んで殺そうとしました。最終的に殺さずにエジプトに奴隷として売りました。

エジプトに行ったヨセフは忠実に神に仕えて、やがてエジプトでパロの次に権威を持つ支配者になりました。当時のエジプトはその地域で王国として一番でした。


それから何年もたってからカナンの地に飢饉が起こりました。カナンの地というのは、ヤコブと兄弟たちが住んでいる場所のことです。十人の兄弟たちは食料を求めてエジプトにやってきました。そこでヨセフは彼らを見て「あなたがたはスパイだ、エジプトの敵だ。」と言って兄弟たちを脅迫し、彼らを試します。彼らを試した結果、じつに彼ら変わっていました。ヨセフの父を守るため、そしてヨセフの下に生まれた十二番目の弟を守るために自分の命までもささげる決心をしていました。ヨセフは長い時間をかけて彼らを導き、彼らが心から自分の罪を認めて一緒に悔い改めて、その悔い改めを証明する行いをするように導きました。ヨセフは彼らを赦して、安心させてあげました。自分を殺そうとした兄弟たちを助けたのです。

この箇所を読むたびに涙が出るのですが、ここでヨセフは神の愛を示しています。何年間も奴隷だったし、牢屋にも入れられたし、だれかに長い間傷つけられて苦しんでいれば憎しみが積み重なるはずです。どうすれば復讐できるかを想像するはずです。そしてそのチャンスが目の前にあれば復讐を遂げます。しかしヨセフはそれをしなかったのです。あれだけ苦しんだのに、ヨセフは復讐しようと思っていませんでした。だから機会が与えられても彼は明らかに兄弟を愛し続けていて、彼らが悔い改める前からヨセフははっきり赦しています。神の愛がヨセフのうちに燃えていたからです。神はヨセフを神の愛の器として用いることができました。

その結果、神の民が守られて、イスラエルの家が救われて守られ、それによってメシアであるイエスが生まれて世が救われました。このように、神に用いられたいなら、その愛が必要です。


ヨセフが兄弟を見た時に憎んでいませんでしたが、なぜそれができたのでしょうか。

それまでのヨセフの人生の途中でどんなことが起きたのか、そのすべてを把握することはできませんが、彼は神の思いを悟っていたのです。神は兄弟の自分への憎しみを通して世を救おうとしていたのだ、だから目の前にいる兄弟たちを見たとき、ある意味で兄弟たちは透明で、その向こうに神が見えて、彼らの行いではなくて神の行いが見えたから、だからそれに対して何の憎しみも持つことができませんでした。

じつは最後のさばきの日に私たちもこれを体験します。歴史がどのように終わるのか、すべての悪と災いを通して子の祝福まで私たちを導いてくださった、という体験をしたときに、私たちの中には憎しみ何も残りません。赦しと愛しか残りません。

ヨセフはイエスの生まれるずっと前の人で、イエスの模範を見ていませんが、イエスのように生きていました。

もちろんイエスもこれを言葉だけではなく、行いを通して私たちに教えています。ヨセフは象徴的に死にましたが、イエスは実際に自分を殺した敵のために自分のいのちをささげました。そしてその行いを通して世界を変えました。だからイエスの十字架のあと、何世紀もたった今、人類は徐々に学んでいます。平和は戦争にまさっています。敵を目の前にしても暴力や復讐を拒否しなければいけないのです。これはイエスの前にはなかった価値観です。

しかしこれが世の中に広まるために、たくさんの犠牲、たくさんの血が流されました。

二千年間も平和的な宣教師や信者が殉教し、イエスの模範に従って、左の頬を向けて敵を愛してきました。イエス様の十一人の弟子のうち、十人は殉教し、一人が流刑にされて亡くなりました。もしかして、イエスがこの教えを話したとき、その場にステパノもいたかもしれません。ステパノもイエスの生き方、死に方、復活を見て、その模範に従いました。ステパノは歴史上最初のクリスチャンの殉教者でした。

ステパノは多くの人の前で、イエスの十字架と復活と罪のための赦しを語りました。

【使徒の働き7:54〜60】人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いでステパノに向かって歯ぎしりしていた。しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と言った。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊を受けください。」そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。おさlmwjp^^

これはイエスの死と重なります。ステパノも自分を殺そうとする人たちのために赦しを祈っています。だから彼の祈りは応えられて、天で彼の霊を受け入れました。彼のからだは種のように地面に落ちて、そこから朽ちないものとしてよみがえらされます。


無神論者も異教徒たちも間違っています。敵を愛することは決して愚かでナイーブで自己破壊的なものではありません。勝利につながります。しかしものすごく難しいことは確かです。まず自分の敵がだれなのかを知らなければなりません。人は傷つけられて怒りを覚えます。小さい子どもにとっての敵は兄弟かもしれませんし、大人になってからは自分とやり方が真反対の職場の上司かもしれません。あなたの影響力を消そうとして悪口を言うあの人かもしれないし、教会で昔仲が良かったのに裏切って悪口を言っているあの人かもしれません。

一方で、素晴らしい敵もいます。真理のために立ち上がった敵。ヨセフもイエスも憎まれました。ステパノのような敵もいます。自分の敵を知るために、自分は単純にだれに対して怒っているのか、それを自分に問いかけてください。考えてみて、名前を出してみてください。


次の問題は、天にいる父がこの人を愛しているように、私もこの人を愛することができるのか、ということです。どのように敵を愛することができるのでしょう。私を傷つける人をどのように赦すべきなのでしょうか。何の報いも求めずにどのように善を行うのでしょうか。神の愛は父の愛です。親が子どもを愛する時に、子育てはお金がかかります。だから親の愛は打算的ではありません。子育ては投資ではないのです。子どもの教育費を出してちゃんと勉強させれば、将来自分の老後を見てくれるかもしれない、という考え方は親の愛ではありません。良い親の愛とは子どもが小さい時に世話をするだけではなくて、自分が死んだ後でも何かを残してあげるという愛です。

【箴言13:22a】善良な人は子孫に遺産を残す。

【箴言22:1】名声は多くの富よりも望ましく、愛顧を受けることは銀や金にまさる。

遺産を考えたときに、ただ物質的なことを考えないでください。親は子どもに愛を与えること自体が喜びなのです。愛したら何かが返っているという計算はありません。それが神の満足です。その報いを私たちにも味わわせたいと思っています。

親は子どものすべてを愛しています。立派で良い子も放蕩息子も愛します。そして食べさせて、養って、恵みを与えます。天の父が地上のすべてのものに雨を降らせますが、子どもをこのように愛することはできません。子どもをだれかが殴ったら、その子は怒って殴り返そうとします。公平のためであって、赦しのためではありません。自分が怒っていて、その怒りを取り除くことができなければまだ子どもです。父親ではありません。だから子どもでいることをやめましょう。怒ることもやめましょう。

【詩篇37:8】怒ることをやめ 憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

この怒りを乗り越えることは神を信じていれば可能です。イエスが死者の中からよみがえって新しい霊のからだを持ったと信じることができれば可能です。自分もいつかその霊のからだを受けることを信じることができれば、神の救いを待ち望むことができます。

【詩篇37:3、9】主に信頼し 善を行え。地に住み 誠実を養え。悪を行う者は断ち切られ 主を待ち望む者 彼らが地を受け継ぐからだ。

私たちはみな神の子どもです。そして神は何も報いを求めず私たちを愛してくださいます。だから自分の愛が神のような愛かどうかを確かめたければ、報いがないような善を行ってみてください。一回だけではなく、習慣になるまで続けてください。

私たちは場合によっては人が見ていれば素晴らしい善を行うかもしれません。多額の寄付金を払えばそれによって名誉を得ることができるかもしれないし、影響力を手に入れることができるかもしれません。人通りが多いところで一生懸命働いていれば、人々に感謝されたり、尊敬されたりします。たくさんの人にもてなしをすれば、自分が王になった気分になれるかもしれません。

しかしイエスのように行っていることを確かめたければ、自分の前でラッパを吹かずに善を行ってみてください。だれにも言わず、だれも知らないし、だれにも気づかれないような奉仕を、家で、教会で、職場で行ってみてください。寄付は匿名で行ってください。人を自分の家に呼ぶなら、旅人、貧しい人、影響力のない人、感謝がない人、感謝をしない人たちを誘って、自分のもっている一番良いものを出してあげてください。それを人に言いふらさないで、写真に撮って投稿もしないでみてください。このようなことが難しいと思えば、まず第一歩として、教会に来た時に、出会ったすべての人の目を見て微笑んで挨拶してください。祝福する心を一人一人にもってください。

これはそんなに高い要求ではありません。本来は口づけまでしないといけないのですから。

教会で出会った人を微笑んで祝福することができるなら、神を信じていることを証明することができます。自分はイエスについて行こうとしてるが、神様は大いに報いてくださいます。

【ルカ6:38】与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前よく量って懐に入れてもらいます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。

とにかく神はたくさん報いてくださいます。最終的に自分は天にいる御国の子になります。神の子どもとされます。そして神は自分の霊をあなたに与えます。イエス様はいつまでもあなたとともにいて、あなたと一つになります。

今の自分の自然なからだは他の人間と一つになるために造られているからだです。

しかし霊のからだは神と一つになるために造られているからだです。本当に想像を超える祝福です。それを受けるために、私たちは何をしなければならないのでしょう。一つは、自分を憎んでいる者を愛することです。そして報いる力のない者たちに善を行うことです。




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