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「きよめの待降節」ローマ13:11〜14

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


ローマ13:11〜14

さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。

夜は深まり、昼は近づいてきました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。


今日から待降節です。待降節はクリスマスまでの準備の期間で、神の民がイエスの誕生を長い間待っていたことを思い出すときです。同時に、教会はイエスが来ることをこれからも待ちます。つまりイエスを迎える準備のことも考えます。

イエスは歴史の真ん中で一度来て、歴史の終わりにまた来ます。待降節はこのイエスの受肉と再臨を覚える時期です。

イザヤ書はイエスの受肉前に書かれて、イエスが来るときの平和について語っています。実際にイエスが来て、平和のことばを教えて、平和の行動を与えてくださいました。どのように敵を愛するのか、その模範としてイエスはご自分を十字架にかけた人々を赦しました。そして昇天し、王座にすわって、そこから世界が変化し、新しい時代が始まりました。神の国の時代が始まりました。なのでイエスが2回目に来るときはみんなに認められている王としてして来ます。そして1回目に来た時に始めた平和を完成させます。

【マタイ24:36】ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

このマタイの時代の「その日、その時」ということばを、多くの人たちは歴史の終わりについてイエスが話しているように読んでいますが、じつはAD70年のエルサレムと神殿の破壊を指しています。エルサレムはもはや聖地ではなくなります。イエスはエルサレムを見捨てて新しいエルサレムを作るのです。このイエスのことばは歴史の終わりについてではないと言いましたが、歴史がどのように終わるのか、そのパターンを教えてくれていると思います。2回目にイエスが来たら、イエスはさばき主としてさばきを行います。しかしその前に警告があります。神様はノアの洪水の100年前から警告していました。そして突然さばきが来たのです。そのようにイエスが来る前に警告がきます。

神様はイエスが来る前に預言者を送って警告してくださいました。そしてAD70年に決定的なさばきが来ました。だから私たちは目を覚ましていなければなりません。このようなさばきの原則がみられます。

イエスはAD70年の神殿のさばきに関する話をしていましたが、歴史の途中のさばきはどうなのか、歴史の終わりのさばきはどうなのか、今自分はどのように生きるべきなのか、人生が終わって神に会うために今をどのように準備するのか、そのようにイエスのことばを適用することもできます。


今日はローマ書を見ていきます。


⚫️さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。(13:11)

パウロは2回目にイエスが来るときのこと、つまり歴史の終わりのさばきについて言っているのではありません。

待降節が始まって、もうすぐ冬至ですが、パウロの時代は冬至がクリスマスでした。冬至は一年で夜が一番長い日で、この日から新しい世界が生まれることをパウロは話しているのです。パウロの生きている時代は夜中を過ぎています。冬至は過ぎています。これから朝がやって来るという段階、つまりAD(主の年)の世界なのです。闇の中に住む人たちに義の太陽が昇って来ている状態なのです。

旧約のイスラエルは太陽が沈んでから新しい1日が始まりました。現代も真夜中の12時から1日を数えます。パターンは同じで、光の前に闇が来るのです。夕があり、朝があった。そのパターンです。ある意味で天地創造の1日目が、世界の歴史のパターンを表しています。つまりBC(キリスト誕生以前)からAD(主の年)になります。パウロは、「私たちはADに入った」と言っているのです。イエスはこれをわかって意識していました。バプテスマを受けてサタンに誘惑されて、すぐにこの成就を始めました。

【マタイ4:14~16】これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。

「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダン川の向こう、異邦人のガリラヤ。

闇の中に住んでいた民は 大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に 光が昇る。」

これはADの時代に関する預言だったのです。それでイエスはガリラヤで働きを始めました。

【マタイ4:17】この時からイエスは宣教を開始して、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

パウロが言っているのはこのことです。天の御国が来た。新しい日が始まった。冬至は過ぎた。クリスマスは過去になる。



⚫️夜は深まり、昼は近づいてきました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。(13:12)

イエスが新しい王、さばき主として来たなら、これからも来ることを覚えます。これからイエスが来るなら私たちはどのように生きればいいのでしょうか。

眠りから覚めるべき時刻がもう来ています。起きなさい。目を覚ましなさい。

朝起きたら昼の服を着ます。それが光の武具です。なぜなら昼間に働きと戦いがあるからです。その準備を始めなければなりません。闇の中に生きている人のようであってはいけません。夜の人たちはメシアを知らない異邦人です。罪人が夜にするリストが次に出てきます。



⚫️遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。(13:13)

遊興と泥酔がセット、淫乱と好色がセット、争いとねたみがセットで、似たような意味の組み合わせになっています。

遊興と泥酔とは、夜の良くないパーティーや酒から出る罪のパーティーなどです。

淫乱や好色は性的な罪です。

争いやねたみは心の中の罪でもあります。先の4つの罪は客観的に見えることが多いのですが、争いやねたみは心の中の罪として表に出て来ることがあります。この罪はいつでも犯してしまう罪ですが、特に、夜、床の上で静まっていろいろ思い起こしていくときに、心の中で増していくような罪深い思いでもあると思います。


パウロは異邦人に囲まれていたので、夜の時代は異邦人たちが犯すような罪の時代だと考えていました。しかし私たちも似たような時代に生きています。お酒を飲みすぎる時代に生きています。プライド月間(Pride Month)ではLGBTQ+の権利につい啓発をうながすパレードやイベントが開催されて、1カ月間もそれを祝います。

じつはサタンは神の一番良い贈り物を通して私たちを攻撃するのが大好きです。良いものを曲げるのが大好きです。男女の関係は私たちに命を与えるために神がくださった素晴らしい賜物ですが、サタンはそれを死を与えるために利用します。赤ちゃんを求めないこと、つまり避妊、中絶、同性愛などはその腐敗の結果です。このようなことは長く続く良い結婚生活に比べて満足度が下がります。そして病気、精神的な虚しさが増えます。私たちの社会は、このような罪を犯している人をヒーローにしてしまっています。町によってはクリスマスよりも同性愛者のパレードの方が大イベントだったりします。トランスジェンダーのスポーツ選手やミスコンの出場者はメディアで取り上げられて栄光を受けて逆にヒーローとされています。だから私たちは目を覚ましていないといけません。周りの人にも目を覚ますように伝えなければいけません。

クリスチャンでも闇のうちを歩む誘惑はたくさんあるのです。教会の中でもクリスチャンホームでもポルノは大きな問題になっています。



ある意味で性的な罪は悪いというレッテルを張りやすいのですが、ねたみや争いはどうでしょうか。私たちはむしろ恥じることなくお互いの前で争い、ねたみます。これを罪だと認識していなかったり悪いと思っていなかったりします。

例えばねたみとは何なのでしょうか。ねたみは7つの大罪の1つです。あらゆるところで身に付きます。ひとことで言うと、人より良くなりたいということです。人に自分より良いものがあると耐えられないのです。人が成功したときに悲しみ、人が失敗したときに喜ぶ罪なのです。私たちはこれをしょっちゅうやっています。小さい子は兄弟が親にほめられると頭にくる。10代の男の子はだれよりも背が高くなりたい。女性もだれがスタイルが良いとか服が素敵かを無意識に見てお互いを比べます。大人になると、収入、ステイタス、成功、幸せ、大学の差を考えます。

高校3年生までみんな同じクラスで一緒で平等で同じ道を歩んできたように見えるけど、どこの大学に入るかで急に差がついてしまいます。良いところに合格しても言えないので秘密にしている子もいます。なぜなら同じクラスの友達は喜んでくれないから。焦らせてプレッシャーをかけて場合によってはがっかりさせることになる。これもねたみの心の表れです。最近、社会の中でものすごく平等が叫ばれています。場合によって平等を求めるのは素晴らしいことですが、場合によってその裏にねたみの心があったりします。だれも自分より幸せになってはいけないという思いが潜んでいることがあります。

このような心は、決して平和なエルサレムを築きません。ではどうすればいいのでしょうか。自分が神様から与えられたすべてのものに感謝することです。そして人が祝福された時もいっしょに喜び感謝することです。

【ローマ12:14~15】あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。

相手にねたみの心があって喧嘩を売ってきたらどうしますか。それでも私たちは祝福で返します。その人のために祈る。だれかに良いことが起きてそれを大喜びで自慢されると耐えられないこともあるのではないでしょうか。良いことが起きたことは感謝だが、それを自慢する相手に耐えられないのです。相手の方が上で自分を下げようとしているように感じてしまうのです。相手にそのような心があったとしても、まず相手を喜ぶことから始めなければならないのです。それを呪ってはいけません。そのようにして私たちは教会からねたみの根を取り除くことができるのです。



このようにしてイエスが来るための準備をします。私たちはエルサレムで、この家は神の家です。私たちのからだは神殿です。そして私たちは1つの教会としてキリストのからだであり、平和の町なので、私たちはきよくなければならないのです。

性的な罪を捨てて、自分をきよくしなければいけません。愛と調和を求めて、争いやねたみを捨てなければなりません。

イエスはなぜエルサレムを見捨てたのでしょうか。なぜ神殿を破壊したのでしょうか。イエスが来た時にこの町が汚れていて、イエスの住まいとしてふさわしくなかったからです。イエスを十字架にかけるほどのねたみに満ちていました。


待降節でイエスが来ることを喜んで待っていますが、イエスが来た時に、果たして私たちのうちに住んでくださるでしょうか。そのために私たちは自分たちをきよめなければなりません。きよい神が汚れた民の間に住むことはありません。

この待降節の4週間を使って、個人としても教会としてもきよさを求めなければいけません。世界がきよめられることも求めなければいけません。世界をきよめるのは大きなことですし、教会をきよめるのも大きなことですが、まず自分の心、自分のからだ、自分たちのコミュニティから始めましょう。だから私たちは教会に行かなければなりません。

「さあ、主の家に行こう」というのがその結論なのです。


私たちは日曜日にキリストの平和を練習しています。まず教会に来た時に愛する兄弟がいます。愛さなければいけない兄弟、隣人に囲まれています。まず顔を見て挨拶をして、いっしょに食べていっしょに飲みます。

聖餐式は小さなさばきです。私たちは天に昇っていきます。イエスの御前でイエスの小さなさばきを受けます。教育の専門用語でいうと、聖餐式は総括的評価の前の形成的評価です。そしてそのあと1つの使命を受けて世に出て行きます。世のために一緒に働く使命が与えられます。これからの4週間を私たちは計画的に自分をきよめるために使って、イエスが来た時に私たちの間に住んでくださるようにしましょう。




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