説教者:ベンゼデク・スミス牧師
イザヤ55:1〜9
「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出てくるがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。
さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。
なぜ、あなたがたは、食料にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。
わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。
耳を傾け、わたしのところに出てこい。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。
わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実の約束である。
見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。
見よ。あなたが、あなたの知らない国民を呼び寄せると、あなたを知らない国民が、あなたのところに走ってくる。これは、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者のゆえである。主があなたがあなたを輝かせたからだ。」
主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。
悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。わたしたちの神に帰れ。豊に赦してくださるから。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。
ー主のことばー
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
第一コリント10:1〜13
兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、みな、同じ霊的な食べ物を食べ、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。
しかし、彼らの大部分は神の御心にかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。
また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。
また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。
また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練に合わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
ルカ13:1〜9
ちょうどそのとき、人々が何人かやってきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、とイエスに報告した。イエスは彼らに言われた。「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』
番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」
詩篇63:1〜8
神よ あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない 衰え果てた乾いた地で 私のたましいは あなたに乾き 私の身も あなたをあえぎ求めます。私は あなたの力と栄光を見るために こうして聖所で あなたを仰ぎ見ています。あなたの恵みは いのちにもまさるゆえ 私の唇は あなたを賛美します。
それゆえ私は 生きるかぎりあなたをほめたたえ あなたの御名により 両手を上げて祈ります。脂肪と髄をふるまわれたかのように 私のたましいは満ち足りています。喜びにあふれた唇で 私の口はあなたを賛美します。床の上で あなたを思い起こすとき 夜もすがら あなたのことを思い巡らすときに まことにあなたは私の助けでした。御翼の陰で 私は喜び歌います。私のたましいは あなたにすがり あなたの右の手は 私を支えてくださいます。
今日は四旬節の第三聖日です。あと四週間でイースターです。これを繰り返し言う理由は、目に見えなくて忘れやすいからです。四旬節は、一年の中で私たちが飢え渇きや自分の振り返り、悔い改め、自分をあらたにすることに注目すべき時なのです。それで今日の朗読箇所はそのことに関して語られています。私たちは何のために飢え渇いているのでしょうか。霊の養いのためでしょうか。それとも何かに満たされるためでしょうか。私たちは神様のために実を結んでいるでしょうか。それとも実らないで土地を無駄にしている木になっているでしょうか。
今日は神のさばきに関する三つのストーリーを読みました。
一つ目は荒野のイスラエル、二つ目はピラトに殺されたガリラヤ人、三つ目はシロアムの塔に潰された十八人。
じつは四つ目もあります。四つ目はAD70年にエルサレムで死んだユダヤ人です。
彼らはみな神の近くにいたのに惨めな死に方をしました。
⚫️荒野のイスラエル(第一コリント10:1-13)
彼らは、礼典を通して神3一つになり、お互いにも一つでした。どんな礼典かというと、雲の中と海の中を通る礼典です。雲は御霊、海はもちろん水なので、御霊と水によるバプテスマのことです。彼らはモーセにつくバプテスマを受けました。さらに彼らはみなマナを食べました。マナはいわゆる天使のパンです。
【詩篇78:25】それで人々は御使いのパンを食べた。
奏楽者が良い曲を探しているなら、フランクの「Panis Angelicus(天使の糧)」がおすすめです。
荒野のイスラエルはキリストである岩から水を飲みました。パンと、キリストから出る水なので、これは明らかに聖餐式を表しています。これによって彼らは洗礼と聖餐式を受けました。しかし神様は彼らのことを喜んでいませんでした。荒野の中で彼らをさばいて死なせました。彼らは約束の地に入ることができませんでした。どうしてでしょうか。それは偶像礼拝をしていたからです。そして神様に文句を言ってモーセを殺そうとしたからです。つまり、その礼典は彼らを救うには足りなかったのです。彼らは清い生き方をしませんでした。その礼典を正しく受けなかったのです。そして誘惑に負けて最終的に滅ぼされました。
パウロは今日の朗読の箇所で、正しく聖餐式を受けるにはどうしたら良いかを話しています。コリント10章のところですが、最終的に、私たちが聖餐式の時に読んでいる第一コリント11章にたどり着きます。コリントのクリスチャンは聖餐式を正しく受けてなかったのでさばかれました。クリスチャンにとって、教会に来てみことばを聞いて聖餐式を受けることは欠かせないことです。これをしなければ徐々に枯れていきます。最初に感じなくても、そのうちに乾いた木のように枯れます。しかしそれだけでは足りません。
毎週教会に来て、説教の間じっとすわって聖餐式を受けてもさばかれることはあります。なぜなら、霊的な祝福は自動的に与えられるものではないからです。機械を充電するならコンセントに差し込めばいいのですが、霊的な養いはパンを口に入れたからと言って、そのまま霊的な力を得るわけではないのです。つまり口だけ、からだだけでそのパンの養いを受け入れるのではなく、自分の霊で受け入れる必要があるし、霊的な鍛錬も必要です。
パウロがこのように御言葉を書いたのは、この実例が私たちへの戒めとなり、教訓とするためです。ここから学ぶためなのです。
⚫️ピラトが殺したガリラヤ人(ルカ13:1~9)
イエスの周りにいる人々が、イエスに大変なニュースを伝えに来ました。神殿で礼拝がささげられている時に、ピラトが軍人を送り込んで、人々がいけにえを献げている最中に殺したというのです。イエスの周りにいるのはガリラヤ人です。彼らもイエスの最後の過越の祭りを祝うために今エルサレムに向かっていたのでした。ルカ9章の終わりから、イエスはエルサレムに向かっていました。
彼らは当然ですが恐れています。彼らはガリラヤからエルサレムに向かっていますが、同じように自分たちも殺されるのではないかと心配になりました。神殿の中で、しかもいけにえを献げている最中だったのに、神様は彼らを守らなかったのです。だから彼らは、もしかしてこれは神様の特別なさばきなのかなと思っているかもしれません。このような死に方をするなんて、やはり何か特別な罪を犯しているのではないか。そうであるなら、自分たちは大丈夫だと思っているのか、大丈夫だと思いたいのかもしれません。しかしイエスは彼らにそのような逃げ道は与えませんでした。
イエスは彼らに言われた。「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカ13:2~3)
あなたたちも悔い改めないならエルサレムでローマ人に同じように殺されます。
またエルサレムの神殿に近いシロアムというところで塔が倒れ、十八人の人が亡くなりました。また神に近い者たちが救われなかったのです。特別な罪人だから神に殺されたのでしょうか。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカ13:4~5)
ユダヤ人たちが悔い改めない限り、同じようにエルサレムで周りの建物が倒れてあなたたちも死ぬ。これは預言です。いつ成就されたかというと、AD70年です。イエスを信じなかったユダヤ人は、ローマ軍が塔や建物を壊したときにその下敷きになって死にました。エルサレムにいたほとんどすべての人が殺されました。そしてその中にクリスチャンは一人もいなかったのです。イエスを信じた者たちは、ローマ人が来る前に、一人残らず避難していました。
続けてイエスはいちじくの木の話をします。三年間も実を探しに来ているのにこのいちじくの木は実を結びませんでした。なぜ三年なのでしょうか。イエスの宣教の働きが三年だったことを思い出します。しかしそれ以外に長い間という意味もあって、長い間イスラエルは実を結ばなかったのです。そこで主人はぶどう園の番人にこの木を切り倒してしまいなさいと命じました。ところが番人はモーセのようにとりなしてお願いしました。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』(ルカ13:8)
モーセも、イスラエルが金の子牛を礼拝した時、神の前に四十日四十夜ひれ伏して、神がイスラエルを憐れむように祈ってお願いしたのです。実際ユダヤ人は御子を殺して御父を怒らせます。しかし神様は四十年間待ってくださいました。イエスが十字架で殺されてからエルサレムが破壊されるまで約四十年でした。そしてとうとうさばきが来ました。さばきが来た時には、徹底したさばきでした。イスラエルという国は地図から消え去ります。そして神とイスラエルの契約も終わりました。イスラエルが悔い改めなかったからです。実を結ぶとは、特に正しい行いをすることだと理解してください。
イエスはこの時、これから起こる歴史的な事実について話していましたが、当然私たちにとっても意味があります。私たちも周りの人たちに災いや大変なことが起こる時、彼らを非難するべきではありません。まず自分をさばいて、自分で自分を吟味して、悔い改めるべきです。そして自分が実を結べるかどうか考える時です。
ユダヤ人は、自分たちが神に選ばれた民だと思って、そのステータスに誇りをもっていました。神殿が完成した時、すぐにローマに反乱を起こし、神殿を見上げて、ここには建物もいけにえもあるではないかと言って、神が自分たちとともにいてくださると確信していました。
でも、私たちは、そのような無知、そのような傲慢を捨てなければいけません。
【詩篇51:17】神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。
私たちの教会が神を無視する場となれば、この椅子に座りながらでも無視できます。あるいは、空っぽな祈りと仕草で神からの祝福を買収しようとすれば、神様は私たちの教会を見捨てます。私たちは神様にとってカインのようなものとなります。ふさわしくないいけにえを献げているからです。
この四旬節の間は、この世の物から目を離す時です。私たちは、私たちを満たすもの以外から断食する時です。例えば、肉だったり、アルコールだったり、ゲームだったり、SNSだったり、そのようなものから離れる時です。それは私たちがこの世のものではなく神からのものに対する飢え渇きを感じることができるためです。私たちがまことに満たされるためにそうします。昔から多くのクリスチャンが日曜日の朝断食します。つまり日曜日に最初に口にするものはパンとぶどう酒にするためです。このような断食をしていると、早く礼拝に行きたくなります。
⚫️すべての飢え渇いている者への招き(イザヤ55:1~9)
金を使わずに良いものを買いなさい。水やパンなど必要なものを買ってぶどう酒や乳などのおいしいものを買いなさい。牛の脂肪で元気づきなさい。これらのものは金では買えないもっと素晴らしいものである。なぜならあなたがたのたましいにいのちを与えるものだからである。
聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。(イザヤ55:3)
私たちの世界は、私たちが偶像礼拝をするように訓練します。目に見える成功を求めるように、小さい頃から育てられているからです。そのプレッシャーがずっと与えられています。自慢できる職業であるか、高収入か、大きな家に住んでいるか、仕事中毒になり、性欲を満たし、アルコール中毒にならない程度に酒を飲めばあなたは満たされるのです。この世はそのような約束をします。しかしこれは偽りです。私たちに必要なのは、お金や、カロリーや、ドーパミンではありません。このようなものは私たちに喜びや人生の意味を与えることができません。私たちに必要なのは、私たちのうちに宿って、私たちを通して働く御霊なのです。御霊が私たちのうちにあれば、私たちは必ず実を結びます。これがそのまま今日私たちが読んだ詩篇に出てきます。
神よ あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない 衰え果てた乾いた地で 私のたましいは あなたに乾き 私の身も あなたをあえぎ求めます。私は あなたの力と栄光を見るために こうして聖所で あなたを仰ぎ見ています。(詩篇63:1~2)
神田のような偉大な建物は、ある意味で神の力と栄光を表すことができます。素晴らしい大聖堂に入ればそれを感じます。弟子たちも興奮して神殿のことをイエスに話す気持ちもわかります。心が天に引き上げられて、祈りたくなります。
しかし神の力と栄光を本当に目に見える形にしたのは、イエス・キリストご自身です。イエスキリストが本当の神田です。ダビデの子、諸国の民の君主です。イエスが私たちをその右の手で支え、イスラエルにその力を表したように、バプテスマを通して奇跡的に私たちを救います。イスラエルの民に、空の学と岩からの水を与えたように、私たちにも聖餐式を通して奇跡的に失ってくださいます。あなたは神の園に植えられている器です。そしてイエスはその周りを耕しています。実が実のを待っています。神様が忍耐強いお方です長く待ちますが、1がいつまでも待つわけではありません。立っていると思うものは倒れないように気をつけなさい。自分にこの問いを投げかけてください。私は本当にみくにのために実を結んでいるのだろうか。私はなすべきことをすべてしているだろうか。そのために召されたのにそれをやっているだろうか。どんなことをなおざりにしているのか。どのように罪を犯しているのか。このことに関して考えて、自分の夫や妻に話し、あるいは親や友達に話してみてください。そして何よりも神様と話してください。神の家、教会で、神様に向かって、神様を求めてください。神を求めてください。毎晩寝る前に床の上で神を求めてください。神のきよいわざ、神から来るいのちの言葉を思い起こし、神様と交わりをもってください。そうすれば飢え渇きが満たされ、たましいといのちが与えられます。そして実を結びます
主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。
悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。わたしたちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55:6~7)
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