説教者:ベンゼデク・スミス牧師
ローマ10:8~9
「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
これは毎週の礼拝で聞いているみことばです。パウロは申命記50章から引用しました。今日の旧約聖書の朗読の箇所です。
【申命記30:14】まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。
モーセは何について話していたのでしょうか。その前後関係を見てみたいと思います。
申命記30章はイスラエルの四十年の荒野の旅の終わりの場面です。これからヨルダン川を渡って約束の地に入ろうとしているところです。モーセは百二十歳で、もうすぐ死にます。民と一緒に約束の地に入ることはできないと神様に言われていました。それでモーセはイスラエルの民に最後の言葉を語ります。それは神の命令に従うことに対する祝福のリストと逆らうことに対するのろいのリストです。そしてモーセは、イスラエルが神の命令に従わず、こののろいがすべて実現すると預言しました。
結局イスラエルは神を捨てて偶像礼拝をし、敵に侵略されて、約束の地から追い出されたのです。アダムとエバがエデンの園から追い出されたように、イスラエルもその神殿から追い出されました。そしてもはや祭司として神の民に仕えることができなくなりました。しかし外国の地にいるときにイスラエルが神を思い出して、神に戻ったので、神は遠くからイスラエルを集めて彼らをこの地に連れ帰り、そこで祝福してまた人数がどんどん増すようにされました。
申命記30章の預言が成就したのは、イスラエルがバビロンに捕囚された時です。イスラエルの神殿が破壊されて、バビロンに連れて行かれて、七十年間奴隷となりました。その後、エズラとネヘミヤの時代に戻ってきて、神殿を建て直します。ある意味で、その時に成就されますが、じつはそれでもユダヤ人はバラバラなのです。スペインからインドまで、色々なユダヤ人のコミュニティがありました。聖地であるエルサレムも外国の支配の下にありました。最初はペルシャ帝国。次にギリシャ帝国。そしてパウロの時代にはローマ帝国に支配されました。五百年間も自由がないのです。だからパウロの時代のユダヤ人はモーセの預言を待ち望んでいました。つまりソロモンの栄光の時が戻って来ることを、まだ待っているのです。まだメシアは来ていない。まだイスラエルが一つとなって申命記の祝福を完全に受けていないと思っていました。
【申命記30:6〜9】あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そしてあなたが生きるようにされる。あなたの神、主はあなたの敵に、あなたを迫害した、あなたを憎む者たちに、これらすべてののろいを下される。あなたは再び主の御声に聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を行うようになる。あなたの神、主はあなたのすべての手のわざ、あなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに与えて、あなたを栄えさせてくださる。まことに主は、あなたの父祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。
イスラエルの人々にとって、これはピラトやヘロデの時代のイスラエルとは思えませんでした。
ではこれはいつ、どのように成就されたのでしょうか。これがパウロの説明のところです。
【ローマ10:1〜4】兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼ら(イスラエル)の救いです。私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。
パウロはユダヤ人の救いを求めていましたが、ユダヤ人のほとんどはイエスを拒否してモーセの律法にしがみついていました。モーセの律法が指しているのはイエスであることを理解していませんでした。
【ローマ10:5〜10】モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
いのちを与える神のみことばは、私たちから遠く離れてはいません。すでに天から降りてきて、私たちのうちに宿りました。すでに黄泉(よみ)からよみがえって私たちにいのちを与えてくださいました。つまりモーセの預言はすでに受肉した神イエス・キリストにあって成就しているのです。イエスの死と復活によって成就されているのです。
【ローマ10:11〜13】聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。
多くのユダヤ人はイエスを受け入れませんでした。しかし今ではモーセの契約にある祝福は、イエスは主であると告白する全ての人に与えられています。ユダヤ人でも、ギリシア人でも、日本人でも、新しいイスラエルとして祝福が与えられるのです。パウロはヨエル2章を引用しています。
【ヨエル2:32】しかし、主の御名を呼び求める者は みな救われる。主が言ったように、シオンの山、エルサレムには 逃れの者がいるからだ。生き残った者たちのうちに、主が呼び出す者がいる。
主の御名はヤハウェ。イエスは旧約聖書のヤハウェです。それを告白することが私たちの救いなのです。神は天地の創造主で、イスラエルの贖い主、これが良い知らせ、福音です。キリストにあって、アブラハムにある祝福も、モーセにある祝福も全て私たちのものです。それを理解してもう一度ローマ書を見ます。
【ローマ10:12】ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
だからユダヤ人の多くがイエスを受け入れなくても、このみことばの妨げにはなりません。主の御名を呼び求める者はみな救われるのです。
それが、みことばはあなたの近くにある、というみことばの背景です。
これは今の私たちにとってどういう意味を持つのでしょうか。じつは今の時代、神が私たちに近いことや、神のみことばが私たちに与えられていることを否定する人は多くいます。彼らは、神は人に語る神であること、神の命令は私たちが従うことができるものであることを否定します。
遠藤周作の『沈黙』は有名で人気がある本で、何度か映画化されています。鎖国時代に日本に来た二人のカトリックの神父の話です。二人は政府から隠れていました。ところが信徒たちが信仰を堅く守って踏み絵を踏まなかったので、捕まって拷問されて殺されていき、実際に神父たちもそれを目撃します。そのうち神父たちも捕まって、一人は殉教します。しかしもう一人の主人公の神父は殺されませんでした。彼は拷問されず、彼の信徒が代わりに拷問を受けます。この神父が踏み絵を踏まない限り、彼の信徒たちが拷問を受けるのです。この深い苦しみの中で神に祈っても、神は沈黙を守っていました。神の声が聞こえず、救われず、神は何もしない、という状態が長く続くのです。
結局、この神父は、信徒たちを殉教から救うために最終的に踏み絵を踏みます。これは一番辛くて誤解される行為です。彼は英雄にはなれません。背信したと誤解されて、ユダの恥を受けます。この本は、その一番辛い重荷を、彼は引き受けた、という見せ方をします。実際に踏み絵を踏む時、彼はイエスの声を聞きました。イエスは「あなたの苦しみを私は理解している。あなたと一緒に苦しんでいる。だから踏みなさい。」とイエスは言います。そして彼は踏み絵を踏んで背信して、政府の協力者になりました。神は神父や信徒の苦しみの中でずっと黙っている。本の中でイエスは「私の命令は従うことが大変すぎてあなたは従うことはできない。忠実でいることは残酷すぎる。だから踏みなさい。命令を破りなさい。」と言います。
この後、神父は日本人の名前をもらい、日本人の妻を得て、信者を探すために政府に協力しました。行為の上では完全にキリストを裏切りました。そしてやがて死んだときには仏教式で葬儀が行われました。
しかし、本の中で、神父が心の中でイエスを信じ続けていたように見せています。最近出た映画の中では、彼は死ぬ時に十字架を握っていました。つまり彼は心の中でイエスを信じていたという解釈でした。このストーリーはとても人気です。未信者の間でも好かれています。なぜなら、神の声が聞こえず、確実なものがない中でクリスチャンの苦しみと葛藤が最後まで続くことに、未信者は共感することができるからです。それで不信仰と無力なキリスト教を受け入れることができます。隠れていて、口で告白しない信仰はインパクトがないので、そのようなキリスト教なら許されます。このような人間性は素晴らしいとほめられます。
しかしこれは私たちの神ではありません。私たちの信仰でもありません。私たちの神はみことばをイエス・キリストを通して語っています。イエスは主であり、ヤハウェであり、カエサルであり、天皇です。この告白は私たちの心の中にあります。つまり本当に信じています。同時に口にあります。つまり公(おおやけ)です。隠れた、黙っている信仰は私たちを救うことができません。
私たちが救われるのは、中にあるものと外にあるものが一致しているときです。イエスが主であることを心で信じて告白すること、これが私たちにとって確実なものです。
神の命令も私たちが従うことができる命令です。その意味で、私たちは自分の罪に夢中になりすぎてはいけません。確かに、ある意味で神の命令に完全に従うことはできません。私たちは罪のない人生を送ることはできません。しかし、良い人生を送ることはできます。良い人生を送るときに、私たちの心の中を覗くと、何をしても罪が入っていることを感じます。良いことをしている時でも、ここが自己中心で、ここが傲慢で、ここが怠惰で、ここが妬みで、ここが欲で、心の中の行動の全てに罪があります。しかしそれでも私たちは良い人生を送ることはできます。そうすれば私たちは神様の祝福を受けることができます。すぐに、すべての面で受けるわけではありませんし、一人一人がみな同じように受けるわけではありませんが、神は自分に従うものを祝福し、従わないものをのろうことは変わりません。
この社会を見るとそれがわかります。例えば今の社会は、第七戒の「姦淫してはならない」という命令を完全に拒否しています。忠実な結婚ではなく、性における自由を求めています。だから避妊、同性婚、中絶、トランスジェンダーの問題が起こるのです。これらはすべて実を結ばないことで、人々は死を選んでいるのです。それが少子化の原因の一つになります。多くの子どもは破綻した家庭で育って、御父の愛を知らずに育っています。その結果、精神病も広まっています。それが私たちに起きないように、神の家に集まって、神を礼拝して、御父の愛を受けて癒されなければなりません。男性であれば、神に従って生きる男として、男性リトリートにも来てください。そこで一緒に祈って癒されて、お互いを励ましてください。
神を選ぶとは、いのちを選ぶということです。しかし私たちの社会は死を選んでいます。
【申命記30:19〜20】私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。まことにこの方こそあなたのいのちであり、あなたの日々は長く続く。あなたは、主があなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われたその土地の上に住むことになる。
会堂検討チームでたくさんの教会を見に行きました。その中で使われていない母子室もたくさんありました。それを見て、私たちの教会がどれほど祝福されているかを思いました。私たちの教会には家族がたくさんいて、新しいいのちも生まれて、未来に対する希望に満ちています。
私が感謝していることの一つは、信者が信者と結婚してクリスチャンホームを築くことを選んでいることです。これは信仰の証です。そしてノンクリスチャンと結婚するという妥協をしないで結婚しない人を見て感謝しています。結婚している人が神に子どもを求めていることも感謝しています。場合によって大きな犠牲を払うことになっても、子どもを求めることは大きな証です。そして養子を育てることも信仰の証です。
私たちの神は沈黙を守る神ではありません。黙っている神ではありません。御子を通して私たちに語っているので、私たちは迷っていません。混乱もしていません。天にいる父に愛されていることを私たちは知っています。私たちはいのちがどこから来るのかを知っていますし、死んだあとに何が待っているかも知っています。男性とは何なのか。女性とは何なのか。家庭とは何なのかを私たちは知っています。善と悪の境目がどこにあるかも、大抵の場合は知っています。これはとても大きな祝福です。
そして私たちは黙っていてはいけない。私たちもこの祝福を隣人に分け与えなければいけないのです。
この地は混乱と無知のうちにあります。多くの人たちは深く傷ついていて、病を抱えています。エリコに行く途中で強盗に襲われ、半殺しにされた人と同じです(ルカ10:30~35)。安倍さんを暗殺した人も、心の中は闇で満ちていたと思います。
日本は、私たちの祈りと私たちの信仰告白を必要としています。私たちは日本でキリストの光にならなければなりません。私たちは祭司であってレビ人です。半殺しにされた人を見て、そこを通り過ぎてはいけないのです。憐れみをもって隣人に声をかけなければいけません。そうすれば神は黙っていないで私たちを通して語ります。あなたの隣人はだれですか。自分を正当化して、私には隣人はいないと言ってはなりません。あなたには隣人がいます。その人の名前は何ですか。
最近、未信者と話す機会が与えられているという話を耳にします。ムービーナイトでも、おやじ勉強会でも、ディスコードでも、他の場所でもよく聞きます。それを聞いてとても喜んでいます。このように私たちは本当に良きサマリア人になることができるのです。
私たちは神の命令が何なのかわかっています。そしてそれは難しくありません。
時間通りに教会に集まりましょう。説教中寝ないでがんばりましょう。
毎日聖書を読んで祈りましょう。
結婚できるなら良い結婚をしましょう。そして可能なら子どもを求めましょう。
働きがある人は一生懸命働きましょう。
神を愛し、家族を愛し、隣人を愛しましょう。
闇の中にいる人のところに行って、彼らに手を差し伸べましょう。
イエスは主であると心の中で信じて、口で告白しましょう。
そうすれば私たちは救われます。
まことに、みことばは、私たちのすぐ近くにあり、私たちの口にあり、私たちの心にあって、私たちはこれを行うことができる。
私たちはこれを行って、私たちのために、この日本のために、祝福を求めましょう。
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