「アドベントの意味」エレミヤ33:14〜16

更新日:2021年12月11日

「アドベントの意味」

エレミヤ33:14〜16

「見よ、その時代が来るー主のことばー。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす。その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う。その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの都は『主は私たちの義』と名づけられる。」


ルカ21:25〜36

それから、太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」

それからイエスは、人々にたとえを話された。いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て、すでに夏が近いことが、おのずから分かります。同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは神の国が近いことを知りなさい。まことに、あなたがたに言います。すべてのことが起こるまで、この時代が過ぎ去ることは決してありません。天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。しかし、あなたがたは必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」


第一テサロニケ3:9〜13

あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことが出来るようにと、夜昼、熱心に祈っています。

どうか、私たちの父である神ご自身と、私たちの主イエスが、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。


詩篇25:1〜10

主よ あなたを わがたましいは仰ぎ求めます。わが神 あなたに 私は信頼いたします。どうか私が恥を見ないように 敵が私に勝ち誇らないようにしてください。まことに あなたを待ち望む者がだれも恥を見ず ゆえなく裏切る者が 恥を見ますように。

主よ あなたの道を私に知らせ あなたの進む道を私に教えてください。あなたの真理に私を導き 教えてください。あなたこそ 私の救いの神 私は あなたを一日中待ち望みます。

主よ 思い起こしてください。あなたのあわれみとめぐみを。それらは とこしえからのものです。私の若い頃の罪や背きを 思い起こさないでください。あなたの恵みによって 私を覚えていてください。主よ あなたのいつくしみのゆえに。

主は いつくしみ深く正しくあられます。それゆえ 罪人に道をお教えになります。主は貧しい者を正義に歩ませ 貧しい者にご自分の道を教えになります。主の道はみな恵みとまことです。主の契約とさとしを守る者には。


今日は新しい節の始まりです。西方教会、つまり改革教会、聖公会、ルーテル教会、カトリック教会では、この節を紫で飾ります。

今日からアドベントが始まります。アドベントは待降節、または降臨節とも言います。イエスが来ることを待ち望む節です。皆さんはそれを今日の朗読の箇所から感じ取ったかもしれません。

エレミヤ書では、主が来ることが救いだとわかります。


【エレミヤ33:15】その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う。

詩篇25篇にも、私たちがこの救いの日を待ち望むことが出てきます。


【詩篇25:5b】あなたこそ 私の救いの神 私は あなたを一日中待ち望みます。

そしてテサロニケでは、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに来る時のことを話しています。


【第一テサロニケ3:13b】私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。

ルカでもイエスが来ることを話しています。


【ルカ21:27】そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです

これらはすべて、神が来る、主が来る日について話しています。しかし主はすでに来ているのではありませんか。なぜ私たちはアドベントで待ち望んでいるのでしょうか。

じつは、私たちは四つの意味で主を待ち望んでいます。


1、イエスが最初に来た時を思い出して、記念している。どのように地球がイエスの救いを必要として待っていたて、イエスが来てどのように救ったのか。それを思い出します。しかし明らかにイエスの働きは終わっていません。


2、イエスが再び来ることを待ち望んでいます。最初に来た時にイエスが始めた働きを終わらせるために来ます。二回目には、完全な正義と救い、完全な癒しと平和をもたらします。そして私たちは復活して永遠にキリストの花嫁として一つになります。ここまでは全人類を含める意味です。


3、エレミヤとルカの箇所は、最初の二つのどちらにも触れていません。三つ目の意味を語っています。それは歴史における神のさばきです。私たちはそれも期待しています。エレミヤは、エルサレムの破壊と、破壊されたエルサレムをもう一度回復されること、そして神様が約束通りご自分の民をまたその地に戻してエルサレムを祝福することに関して話しています。

ルカでもイエスが次のエルサレムが破壊されることに関して話しています。このときエルサレムは破壊されるが、教会はイエスのことばを聞いてそれに従って救われます、その時にエルサレムと一緒に神殿と古い契約が壊されて、律法も隔ての壁も取り除きます。そして新しい契約において人類を一つにします。

主の日は神様が町や国々をさばく日なのです。ある意味で、神が現れた時に良い者が報われて悪い者が罰されます。

 

4、四番目が今日話したい意味です。私たちが個人としてイエスに会う日のことです。私たちは面と向かって神に会う日を待ち望んでいます。私たちは目をつぶったり、上を見上げたりして祈るたびに、神に面と向かって会っています。そしてそれ以上に、神の家に入って祈るときに神に出会っています。そこで祈りにおいて神は私たちをさばいたり赦したり、新しいいのちをもって強めたりします。

また、私たちの人生の中で、別の意味で神に出会ったり主の日に出会ったりすることもあります。例えば病気で苦しんでいるとき。或いは人に裏切られたり見捨てられたりして孤独で苦しんでいるとき。ある意味でこれは模擬試験のようなものです。

私たちはなぜ学校で試験を受けるのでしょうか。それは本当の試験の準備なのです。試験がなければ何のために、どこを勉強すればいいかわからないし、授業中に寝ているでしょう。

その意味で、礼拝は中間試験のようなものです。主がいつ来るか前もってわかっていますが、最終試験ではありません。神の御前で自分を吟味して、どこがいいか、どこが悪いか、自分をさばくのです。

じつは、人生の中で抜き打ちテストもあります。これが来ると、自分がどれだけ準備してきたかが自分にもわかってしまいます。

そして最後に残っているのが期末試験、つまり死です。これまで自分がやってきたすべてのことが量られます。自分は次の段階に入るのにふさわしいかどうか、永遠のいのちへの入試のようなものです。どのように人生を生きたのか、心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして神を愛したか、自分と同じように隣人を愛したか。神の愛を学んで、その愛が自分から湧き出たのか。最後に、「よくやった。良い忠実なしもべだ。…主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:21)」と言われるのか。それとも「悪い、怠け者のしもべだ。(マタイ25:26)」と言われるのか。

私たちは、この期末試験のためにどのように準備すればよいのでしょうか。神様に会う日のためにどのように準備できるのでしょうか。

まず目を覚ましていなさい。自分の周りの受験生から学びましょう。

試験が近いときには、机で寝たり、ゲームをしたり、友達と食べたり飲んだりしていません。彼らは人為的な試練のために一生懸命勉強しています。

イエスのことばによると、主の日はすべての人に来ます。


【ルカ21:35】その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。

イエスはここでは直接的にはエルサレムがローマ帝国に攻撃されることについて話していますが、歴史のさばきだけではなくて、主の日には個人の試験のような要素があるのです。


【ルカ21:34、36】あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。…しかし、あなたがたは必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。

しかし私たちは死を恐れる必要はありません。

それを四つの意味で考えてみます。

・一つ目は、イエスが私たちのコーチなので、私たちをしっかりと準備させてくださるからです。


【第一テサロニケ3:12】私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。

だれがやっているかというと、主がこれをやってくれています。


 【第一テサロニケ3:13】そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。

パウロの祈りでは、イエスが私たちを準備して下さるようにと祈っています。イエスは良い先生であり、一人一人に必要な準備を与えてくださいます。イエスは私たちが何を必要とするかをわかってくれています。そして必要な時に必要な方法で私たちを導いてくださいます。

・二つ目は、イエスが私たちとともにいるからです。神の前で面と向かってさばきを受ける時、私たちは一人で御前に立つわけではありません。私たちは手に推薦状を持っています。その推薦状はキリストによって書かれていて、キリストのハンコも押してあります。御父がイエスにそれを書くように指示しているからです。その中には、「わたしの名のゆえにこの者を受け入れてください」と書かれています。だからその手紙を手放さない限り、私たちは心配する必要はありません。

・三つ目は、まだ時間があるということです。どの試験でも、その日が近づくたびにもっと時間がほしかったと思います。もっと勉強していればよかったと思います。あと一週間あれば、あと一日あればと後悔するかもしれませんが、今この時点でみなさんがここにいるということは、まだ時間があるということです。どれだけあるかは分かりませんが、生きているうちに、良い死を迎えるために、良いいのちを生きることができます。

・四つ目は、死が私たちの救いだからです。試験が近づく時、合格も近づいているのです。早く卒業して次の段階に進みたいという思いはみんな持っています。友達が好きだから卒業したくないとか、今の自分の人生にしがみつきたいと思う人も、あるいはいるかもしれませんが、私たちが死を待ち望むのは試験を待つのと同じです。早く先に進みたいけど同時にもっと準備する時間をください。

私たちが救いの神に会う前にもっと時間がほしいと思うのは、神が燃える火だからです。しかしその火は私たちが近づくと私たちを清めてくださいます。

早く会いたいのも同じ理由です。神がきよいので聖徒のために何を与えてくださっているか見てみたいです。


これまで主の日を試験として話してきましたが、別の比喩も使ってみたいと思います。

アドベントは待つという意味です。同時にお腹が空くことでもあります。私たちが良いものを得るために待つのはふさわしいことです。一度おなかを空かせた方がふさわしいと思います。実際に今、私たちはお腹が空いています。アドベントは私たちが飢え渇きがあることに気づく時です。何に対しての飢え渇きなのかも気づく時です。私たちが本当に必要としているのはイエスご自身です。そしてその真理が私たちの人生を変えます。

先週私たちの兄弟、青木茂さんは、主に会いに行きました。彼はとても食欲旺盛な人でした。食べるのも飲むのも大好きでした。そしてそれ以上に彼はキリストに対して飢え渇いていました。毎週忠実に聖書を読み、家族とともに教会に来ていました。できるときには朝早く起きて、他の人を教会に連れてきていました。長い間お父さんを教会に連れて来るために二時間以上運転していました。別の時に職場の友人を教会に連れてきていました。それは日曜日の礼拝を大切にしていたからです。礼拝が霊的な養いだとわかっていたからでした。そしてそれを人に与えるために努力を惜しみませんでした。話すことができないほど弱っていた時も車椅子で教会に来ていました。ここに神がいることを知っていたからです。ここに御言葉があること、聖餐式があること、聖徒たちの集いがあることがわかっていたからです。青木さんは働くことが大好きで、お金を稼いで人をもてなすのが彼の喜びでした。家族を養い、人をもてなしていました。青木家に行けばおいしい食事と笑いが溢れていました。青木さんは本当に目を覚まして生きていました。そして今は栄光に迎え入れられました。


大きな主の日は歴史の真ん中に来ました。そのとき人は神と面と向かいます。神が世をさばくために来て、そのさばきをイエス・キリストが受けました。それは青木さんも私も皆さんも救われるためでした。イエスは、救いの希望によって私たちが期末試験に合格できるために来てくれたのです。

だから私たちは眠いっている者のように生きるのをやめて、夢の中を歩まないで、大事なものに目を留めましょう。

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。しかし、あなたがたは必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。ルカ21:34~36

イエスは、私たちが目を覚まして祈るように教えてくれています。

それでは祈りましょう。

あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。第一テサロニケ3:12~13




説教ブログは教会員により作成されております。ご質問やご意見などございましたら、お問い合わせよりご連絡お願いいたします。

閲覧数:0回