説教者:ベン・ゼデク牧師による説教
イザヤ42:1〜9
「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ。わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、そこを歩む者たちに霊を授けた神なる主はこう言われる。
「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄家から連れ出す。わたしは主、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない。初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」
使徒の働き10:34〜43
そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、
どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。
神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事柄をご存じです。
それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。
私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムで行われた、すべてのことの証人です。人々はこのイエスを木にかけて殺しましたが、
神はこの方を三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
民全体にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちに現れたのです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられた後、一緒に食べたり飲んだりしました。
そしてイエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方であることを、人々に宣べ伝え、証しするように、私たちに命じられました。
預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。」
マタイ3:13〜17
そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。
しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」
しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
今日は1月8日で、私たちがイエスの洗礼を覚える日です。
少しイエスの人生を振り返ってみましょう。
イエスの人生は3月から始まります。
・3月25日 御使いガブリエルがマリアに現れて、受胎告知をします。当時は3月25日が春分の日でした。現在では3月21日です。数百年経つうちにずれてしまいました。(冬至も以前は12月25日でしたが、今は12月21日ごろになっています。)
春分の日、つまり冬が終わる日、今から春が来るという日にイエスが来ると告げられたことを記念します。
・12月25日 イエスの時代は冬至の日でした。受胎告知から9ヶ月数えるとクリスマスになります。東洋では妊娠期間を10ヶ月と数えますが、西洋では9ヶ月です。
受胎告知もクリスマスも実際にこの日に起きたとは信じられていませんが、それを記念する日になっています。
・1月1日 イエスの誕生から8日目がイエスの割礼を記念する日です。
・1月6日 顕現節(エピファニー) です。東方の博士たちがイエスを訪ねてきた日で、イエスが世の救い主、特に異邦人の救い主であることを祝う日です。
・1月8日 イエスの洗礼を覚える日です。昔から祭日として祝われていました。
今日は1月8日なので、イエスの洗礼の意味を一緒に考えて、それから私たちの洗礼の意味を考えようと思います。
⚫️イエスの洗礼の意味
・新しい創造
水
初めの創造は創世記にあります。
【創世記1:2〜3】地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
このみことばと、バプテスマのヨハネが川の中に入ってイエスに洗礼を授けていることの連想は難しいかもしれません。でも、よく見ると同じことが起きています。
創造の初めは水しかありません。そして御霊が水の上を覆っています。
イエスは川の中に立っています。そしてイエスの上に御霊があります。これはわかりやすい要素です。
光
創造の時、神は「光、あれ。」と言いました。イエスの洗礼の時も天から神の声がします。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。(マタイ3:17)」
神の声は力があり、いのちを与え、世界を形作り、動かす声です。
「光、あれ」と「これはわたしの愛する子」これはつながっています。
【マタイ4:16a】闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。
イザヤ9章の引用です。イザヤは、イエスが働きを始めたときに、光が人々に来ると言います。
【イザヤ9:6】ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。
この闇の中に住んでいた民が見た大きな光はこの男の子のことなのです。世の光は御子ご自身でした。「光、あれ」の光は御子です。なぜそれがわかるかというと、創造の一日目はまだ太陽がなかったからです。その光は御子の光でした。じつは、歴史の終わりに、この天と地が過ぎ去って、新しい天と地になったときも同じ光が光っています。
【黙示録21:23】都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。
再びこの光が私たちを照らす時が来ます。イエスの放つ光はただの物理的な光ではありません。
【イザヤ42:6〜7】わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄家から連れ出す。
イエスは盲目の目を開く。つまりイエスの光は真理、希望、愛、いのちを与えてくれる光なのです。この光が私たちの中に入ると、私たちの中に宿り、私たちの中から出て行って、光っていきます。だから太陽の光は単なる象徴で、比喩にすぎません。本当の光はイエス・キリストです。イエスは世の光なので、「光、あれ」と「これは私の愛する子」はどちらもこの世に光を与えている場面なのです。
鳩
ノアの洪水の時を思い出します。洪水の時に全世界が水で覆われました。
そして徐々に水が引き始めたので、ノアは鳩を送り出しました。鳩は戻ってこなかったので、それによって住める状態の陸があることがわかりました。
鳩は陸におりて新しい地に住んでいるということです。イエスの洗礼でも、鳩がイエスという新しい地におりて来ました。私たちはイエス・キリストご自身であるこの新しい地に住みます。そしてイエスご自身の中に生き、動き、存在しています。それでイエスの洗礼は新しい創造であることを神が宣言しています。
なぜ新しい創造が必要なのかと言うと、この地は種に過ぎないからです。種は地に落ちて死にます。私たちはみんな生きていながら死に向かっています。このままではだめなのです。イエスが永遠の命をもたらすお方であることを、洗礼によって表しています。もちろんイエスの再創造はイエスが復活するまで完成されません。私たちもイエスにあって再創造されます。私たちが洗礼を受けたとき、生まれ変わってすべてが変わりました。水によって、私たちの罪も、アダムの罪も洗い流されます。そしてイエスの陸の中で永遠に住みます。このプロセスは、私たちの場合は終わっていません。私たちも洗礼を受けた者として復活を待っています。だから生きている間も洗礼を思い出すときが必要なのです。今日のようにイエスの洗礼を祝う時もそうですし、他の人の洗礼を見る時もそうです。私たちの教会では、私たちは洗礼の証人となって、洗礼を受ける人が忠実に生きるために助けると約束します。人の洗礼に証人として参加することは私たちにとって大切なことです。先週はそれができて感謝でした。
洗礼を受けた私たちは、復活を待ち望むことができます。
・イエスの洗礼のもう一つの大切な意味
イエスは洗礼の時に、油を注がれたメシアとなりました。油は御霊の象徴です。なのでイエスは御霊を受けたのです。人が油を注がれるという時も御霊のことを表しています。イエスは、油を注がれた者として、王、祭司、預言者となって、全世界に救いをもたらすメシアになりました。
戴冠式を見たことがありますか。イギリスでは多分今年行われるはずです。
戴冠式とは、冠が頭の上に乗せられる瞬間をイメージするかもしれませんが、その前に油を注ぎます。古代のイスラエルの王も、キリスト教圏の王も女王も同じです。まず油を注いで誓いを立てます。昔のイスラエルの王には、祭司や預言者が油を注ぎます。今は大司教が行なっています。
例えばソロモンが王となった時、祭司ツァドクや預言者ナタンが油を注ぎました。自分たちも油を注がれた者として御霊を与えていました。でも今回は、ヨハネは水の洗礼しか与えていません。そのヨハネが水の洗礼を与えたとき、御父ご自身が御霊を与えてくださいました。つまり、イエスは御父から直接選ばれたメシアなのです。神様がイエスを選んでイエスとともにいる。だからイエスの権威、イエスの力は疑いようのない、だれも抵抗できないものなのです。
【使徒の働き10:38b】神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。
イエスは力を受けてすぐに人を癒して善を行い、サタンとのたたかいを始めました。
【イザヤ42:1〜4】見よ。わたしが支えるわたしのしもべ。わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。
イエスは優しくへりくだった王で、必ず正義をもたらします。
【使徒の働き10:42〜43】そしてイエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方であることを、人々に宣べ伝え、証しするように、私たちに命じられました。預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。
イエスは正しいさばき主であると同時に、その名を信じる者に罪の赦しを与えるお方でもあります。洗礼を受けているなら、私たちも王、祭司、預言者なのでしょうか。
その通りです。
私たちも王としてこの世で神の正義と憐れみが行われるように働かなければなりません。
また、祭司として全世界が神のきよさで満たされるように働かなければなりません。まず自分から始まって、教会の中で、そして世界の中で働かなければなりません。
そして預言者として、人々に真実を語らなければなりません。イエスがキリストであり神の子であることを証ししなければなりません。イエスは王として、良い羊飼いとして、羊のためにご自分のいのちをささげます。私たちも王となるなら、ふさわしい器となるために成長しなければなりません。この世の権力者のように、羊の毛を刈る者や、羊を食い尽くすものではなく、知恵を増して、力を増して、いずれ私たちも羊のためにいのちをささげる者にならなければなりません。
⚫️私たちの洗礼
私たちはどのようにこの王の道、自己犠牲、苦しみの多い道を歩む力を持つことができるのでしょうか。どうすればいばらの冠をかぶることができるのでしょうか。
イエスが洗礼を受けた直後にこのようになりました。
【マタイ4:1〜3】それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
イエスは洗礼を受けて、神の子であると宣言されたばかりでした。本当に神の子であるなら、苦しむ必要はないと思うかもしれませんが、私たちも洗礼を受けたら、必ずこのような誘惑を受けます。アダムが王になってすぐに誘惑が来たように、私たちにも王として成長するための試練が必ず来ます。私たちもイエスのように神の愛する子なのです。だから悪魔はまず私たちの信仰を切り離そうとします。私たちが神様の愛を疑うように働きかけます。場合によっては私たちを苦しめて神の愛を感じさせないようにします。又は逆に私たちに豊かな生活を与えて、神の愛は必要ないと思わせます。悪魔は私たちをキリストの愛から引き離すために、苦難、苦悩、迫害、裸、剣など、あらゆる手段を使おうとします。
洗礼は始まりにすぎません。信仰は種です。例えると小さな箱です。私たちはいろいろな経験をして、違う状況に置かれて、少しづつ大きくなって、見える範囲が広くなります。
その時に信仰の箱が小さいままだと、箱に入りきれないのです。それで自分を抑えて成長しないように自分を小さくするか、箱が割れてそこから出て行きます。つまり始まりの時の信仰がどんどん成長して、神に対する理解やキリスト教の理解や世界の理解が大きく深くなっていかないと、私たちの信仰も成長しないのです。今持っている視点では足りなくなるのです。
それで混乱したり、裏切られたような気がするかもしれません。神様は何をしているのか、神様はどういうつもりでこのようなことをするのか。本当に私のことを大切に思っているのか、私が神の愛する子なら、お腹がすいた時に食べ物が与えられるのか。神殿の高いところから飛び降りても神様は救ってくださるのか。
そう思った時に、このことばに戻らなければなりません。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
イエスの人生は本当に辛いことばかりでしたが、一度もこれを疑わず、神を試しませんでした。最後に十字架にかかって、周りの人がイエスを嘲笑って「お前が神の子なら十字架から降りてこい」と言った時も、イエスは降りませんでした。あなたも神の愛する子です。
この知識と信仰を保てば、すべての困難を乗り越えることができます。自分が十字架にかかったとしても、そこから降りない力が与えられます。そして悪魔に打ち勝つ力が与えられます。
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