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「キリストの十字架を誇る」コロサイ2:16〜23

説教者:ラルフ・スミス牧師


コロサイ2:16〜23

こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。

もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、『つかむな、味わうな、さわるな』といった定めに縛られるのですか。これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

コロサイ書を学ぶのは久しぶりなので、少し復習してパウロのことを思い出していただきたいと思う。

パウロがこの手紙を書いたのはAD60年頃、パウロがクリスチャンになってから30年がたっている。それまで三回宣教旅行をして、逮捕されて、ローマで裁判を待っている。パウロが逮捕されてローマに連れて来られたのはこれで二回目である。このときのパウロはローマのアパートに軟禁されて、コロサイのほかにエペソ、ピリピ、ピレモンへの手紙も書いている。

パウロと一緒にいる人のリストが4章にあるが、パウロと一緒に十人いて、パウロ自身とローマ兵も合わせると合計十二人になる。

ローマのアパートについて調べてみたが、十二人がいっしょに住むことはできないだろうと思う。いくつかの部屋に分かれて住んでいるのか、パウロのお金持ちの友だちの家にみんなで泊まっているのか、パウロはそのことに触れていない。

パウロはローマ兵と24時間鎖でつながれている。

【エペソ6:20】私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

手洗いも食事も寝る時も全てローマ兵と一緒。ローマ兵は8時間ごとに替わるが、パウロは24時間つながれたままである。そのような中でパウロは大胆に福音を伝えている。ローマ兵士の優れたグループの中にもクリスチャンがいた。

【ピリピ4:22】すべての聖徒たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています。

パウロは一日に何回もローマ兵に福音を伝えていたことが他の手紙を見ればわかる。鎖に24時間つながれているのは楽しいことではないが、その中でパウロはコロサイ、ピリピ、エペソ、ピレモンへの手紙を書いて福音をたくさん伝えている。パウロの軟禁状態のことを思い出してこの箇所をいっしょに考えたいと思う。


パウロが書いたすべての手紙の中で、コロサイの教会は一番小さくて、それほど大切でもなかった。使徒の働きや黙示録を見ると、エペソの話がたくさん出てくる。エペソはその辺りでは一番大きくて大切な町だった。一方でコロサイはエペソからそれほど離れていないが小さな町で、エパフラスがエペソでパウロの福音を聞いて救われて、コロサイに戻り、エパフラスの証によって始めた教会ではないかと思う。この小さな教会にユダヤ人が影響与えようとしている。コロサイ教会はほとんどが異邦人であっただろうし、聖書をよく知っているのはユダヤ人の方で、聖書も旧約聖書がメインだった。マタイがAD30年頃に福音書を書いたが、すべての教会に広まっているとは限らない。マルコはAD40年頃に書かれて、ルカはAD50年頃に書かれて、同じように広まっていたが手でコピーして送るので、旧約聖書を持っているが新約聖書は部分的にしか持っていない教会が多かったと思う。コロサイのような小さな教会は、礼拝に集まる時に読むのは旧約聖書なので、当然ユダヤ人と同じ神を信じているような思いにもなる。また、神殿がまだあるので、パウロはエルサレムに行けば神殿で礼拝をささげるので、古い契約と新しい契約がともに存在しているような状態であった。異邦人にとって、パウロの教えがわかりにくかったとしても不思議ではない。

それでユダヤ人は異邦人に「あなたはわかっていない。あれをしなければいけない。これもしなければいけない。」と言われると異邦人は影響されたり混乱してしまう。

ガラテヤの教会は非常に極端にユダヤ人に影響を受けた教会である。パウロのガラテヤ人への手紙はページが燃えているかと思うほど怒りを感じる。コロサイの教会の場合はそこまでではなく、ユダヤ人から影響を受けてキリストから離れる危険があるので、冷静に警告している。

しかし二つの手紙はどちらもユダヤ人から影響を受けてキリストから離れる危険性があるという基本的なところは似ている。


コロサイの教会に影響を与えようとしている間違った悪い教師の問題は二つある。一つは旧約の影だった教えを異邦人の教会に教えて、旧約の安息日や食事などの教えや祭りなどを守らなければだめだと教えることである。それらは影で本体はキリストであるとパウロは教える。

【マタイ5:17】わたしが律法や預言を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

律法の全ての成就は主イエス・キリストにある。だから私たちも旧約聖書を読んで学んで、食物や安息日の教えやイスラエルの祭りから考えなければならないが、これらの教えを守らなければならないということではない。それは古い契約であって、私たちには新しい契約が与えられているのだ。

もう一つは、「あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊(幼稚な教え)によるものであり、キリストによるものではありません。(コロサイ2:8)」とパウロが言うところである。これは単に旧約聖書の影であった教えを指していることだけではなく、ユダヤ人が付け加えてしまったところを指している。

それで、『つかむな、味わうな、さわるな』という定めは、「使ったら消滅するものについての定めで人間の戒めや教えによるもの」である。パウロはここで具体的に「御使い礼拝」のような表現を使っていて、何を話しているかは分かりにくいし、ギリシャ語もわかりにくい。しかし広い意味で、根本的な意味はわかりやすい。そしてパウロがここで話していることは、イエス様ご自身が話していることにつながる。パウロと一緒にいる十人のリストの中にいる目立つ二人は、マルコとルカである。

パウロがコロサイ書を書いたとき、この二人が一緒にいるのである。パウロとマルコとルカが一緒に食事をする時、いったい何を話すだろうか。パウロは三福音書に書いてあることをよく知っている。ヨハネはまだ書かれていないと思うが、パウロはヨハネに会ったことがあるし一緒に時間を過ごすこともあった。皆さんはヨハネと一緒に食事をするなら、どんな話をするだろうか。恐らくイエス様のことについて聞くだろう。

ルカも福音書を書く時たくさん調べたと書いてあるが、もちろん福音書に書かれていないこともたくさん知っている。そのこともパウロに話しているだろう。パウロがこの箇所を書く時、間違いなくイエス様はマルコ7章のことを考えてこの箇所を書いたと思う。

【マルコ7:1~4】さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすりことはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。

横道だが、からだをきよめるとか寝台をきよめるという話がある。この「きよめる」というのは「バプテスマ」ということばである。旧約聖書のすべての洗いきよめを指すことばとして使うこともできる。パリサイ人たちは聖書に書かれていないたくさんのことを堅く守っているとマルコは説明している。

【マルコ7:5】パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」

イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。

『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」

イエス様はこの後で具体的な例を示す。しかしここでの対比はよくわかると思う。神のことばなのか人間の言い伝えなのか、ということだ。安息日とそれ以外の日を区別して、安息日を守って聖なる日とせよ、という命令は影の話である。教えとして学ぶことはできるが、私たちは直接守ったりしない。イエス様は安息日を守っている。まだ十字架の前だし復活の前だし、新しい契約が与えられていない時点であるから。

イエス様はパリサイ人や律法学者たちのような社会で一番偉い人たちに、イザヤはあなたたちについて預言したのだ、偽善者たち、と言う。

偽善者たちに大胆に恐ろしいことばで語り、叱る。あなたたちは自分たちの言い伝えを堅く守ってみことばを破り、みことばを捨てる。そのようにイエス様はパリサイ人や律法学者を叱る。

似ているような問題は、この30年後にコロサイにも起きた。ユダヤ人たちが言い伝えを堅く守って、それをコロサイの教会に教えて守らせようとする。そのことについて断罪や批判があってはいけないとパウロは言うが、パリサイ人は異邦人にこのようにしようとしている。


興味深いのは、イザヤ書を引用していることだ。イザヤが預言しているのは未来のことではない。イザヤ自身の時代の人たちを叱っている。イザヤはヒゼキヤ王の時代の預言者である。ヒゼキヤはダビデやヨシヤと同じように敬虔な王であった。イザヤは、ヒゼキヤ王の時代のユダに対し、あなたがたは口先で神を敬うが心は離れている、と警告する。あなたたちの礼拝はむなしい。ヒゼキヤの父アハズは非常に悪い王だったが、ヒゼキヤは神殿を洗いきよめて礼拝を正しく行うようになって、過ぎ越しの祭りを真剣に行って、礼拝に非常に気を付ける素晴らしい王だった。ヒゼキヤがそのように礼拝を改革する時代に、イザヤ、ホセア、アモス、ミカが預言者だった。たくさんみことばを教える素晴らしい預言者いた。

素晴らしい王もいた。それなのに、イザヤはイスラエルを叱る。


イエス様はイザヤのことばを借りて、自分の時代のパリサイ人たちを偽善であると叱る。それがイザヤが取り扱っている罪である。イエス様は七百年前のイザヤのことばを借りて、ご自分の時代の人々に適用する。パウロも三十年後に同じようにこの預言を適用してコロサイの教会に警告する。つまり、口先だけの礼拝、心からではない偽善的な礼拝は罪人の心から自然に出て来てしまう罪の一つである。いろいろなルールや人間の言い伝えを堅く守って誇る問題は昔からあった。黙示録の2~3章の七つの教会の中で、二つの教会以外は全て問題のある教会だった。その中にエペソも含まれていた。エペソの問題は、神の愛から離れていることだった。神に対する愛から離れて、罪人の心から偶像礼拝をし、自慢、自己満足、傲慢などの罪は、私たちの心から出てくるのである。


最近、ローマカトリックの人とコロサイの話をすることがあった。イエス様を中心にするのはどんなに大切なことかを話し合ったが、それでもマリヤも立派だと言う。

ぺンテコステ派の友人と話したとき、イエス様中心は大切だけど、あなたはまだ異言を語らないのか、と言う。

セブンスデイアドベンティストの知り合いは、食べ物や飲み物についてや、土曜日を安息日として守らなければ救われないと言う。イエス様を中心にすることについて話すことは難しい。すべてこれらの横道に行ってしまう。

改革派の知り合いにも、改革派の神学以外、神様について話すことができない人がいた。


しかしパウロは、キリストご自身が中心で、どんなに良いものでも悪いものでも偶像礼拝になり得る心を罪人は持っていると言う。

パウロもイエス様も礼拝の話をしている。

私たちの毎週の礼拝は、罪の心に対するたたかいとして与えられる礼拝だと思ってほしい。

私たちは神に招かれなければ神の家に入る権利がないという思いでよい。イザヤ書の中で、神は私たちを喜ぶという箇所があるので、恐れなくてよい。神様は喜んで私たちを招く。入ってきたら当然罪を告白するところから始まる。何を告白して何を言うのかを認識して、気をつけて告白するなら、私たちは自分の心にある罪に対してたたかって神を礼拝することになる。それはむなしい礼拝にはならない。自己満足、誇ることになるような礼拝はむなしい礼拝になる。私たちが気をつけて罪を告白するなら、罪の赦しの宣言がある。神様は喜んで私たちの罪を赦して下さる。

毎週の礼拝の中で、人間の言い伝えではなくて、みことばを読む。主イエス・キリストのみことばを中心にする。ただ形だけではなく、みことばを読んで心から喜んで神に感謝する。

信仰告白をする。信仰告白をするとき、昔の教会と一緒に告白している。三位一体の神様を信じる信仰を毎週告白してその告白を心から神様にささげる。

そしてみことばを一緒に学ぶ時間もある。みことばを心から求める。

しかし礼拝のすべては聖餐式の心の準備のためだと思ってよいと思う。つまり、礼拝の頂は聖餐式で、キリストご自身なのである。この方を求めて私たちは礼拝に来る。イエス様の血による新しい契約の杯をいただく。それで私たちの礼拝は、自分の心の罪に対する礼拝で、イエス様の十字架を誇るための礼拝である。パウロもこのように言う。

【ガラテヤ6:14】しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。

私たちの礼拝はそのように誇る心を育てるための礼拝だと思う。

主イエス・キリストを意味する聖餐をいただいた後で、祝福されて私たちはこの世に出るが、それは主イエス・キリストを中心にする生き方をして、福音を熱心に伝えるように励まされる。自分の心に対してたたかうための礼拝という意味も含まれると思う。主イエス・キリストを仰ぎ見て、キリストを礼拝にして、キリストを中心にすると、心の中に罪の場所がなくなる。私たちは感謝して聖餐をいただくが、それは今週も感謝の心をもって歩むように、私たちを励ますものになる。




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