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「キリストの復活と証人たち」ヨハネ20:1〜18

説教者:ラルフ・スミス牧師


変な宗教の特徴の一つは、不信仰が足りないということである。

つまり、変な宗教を信じている人は、信じてはいけないと教えられたものは信じない。

しかし私たちは、何を信じるか、何を疑うかについて気をつけるべきだし、考えるべきだと思う。

マタイからヨハネまでの四福音書に書かれている復活のストーリーは部分的で、最初から最後まで教えていないので、それぞれの書物を比べて、出来事の順番や全体の流れを考えなければならない。

そして四福音書は弟子たちの不信仰を強調する。不信仰で良かったというわけではないが、弟子たちの不信仰がなければ、私たちの信仰の基盤は弱くなってしまう。



・ガリラヤにいた五百人の弟子たち

イエス様が復活してガリラヤで弟子たちの前に現れたとき、マタイの福音書によればイエス様を礼拝する人もいたが疑う人もいた。

【マタイ28:16~17】さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。

いつの話かはっきりしないが、イエス様が復活してガリラヤで五百人以上の兄弟たちに現れたと第一コリント15章に書かれているので、多分その時のことだと思う。

【第一コリント15:3~6】私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。

その五百人がずっとイエス様と一緒にいたわけではないので、復活したイエス様を見て話を聞いても、疑う人はいた。



・女性たちの証言を聞いた弟子たち

マルコとルカは、復活したイエス様が最初に女性たちに現れたことを教えてくれる。女性たちはイエス様の復活を見たので、それを伝えようと走って弟子たちのところに行ったのに、弟子たちは信じなかった。

【ルカ24:11】この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。



・エマオに向かう弟子たち

この二人がエマオに行ったのは、救い主であるはずだったイエス様が、ローマ帝国によって十字架にかけられて殺されてしまったからだ。メシアは自分たちをローマから救うはずだったのに、イエス様は自分を救うこともできなかった。それで二人はがっかりしてエマオに帰ろうとしていたのだ。

イエス様が十字架上で死んで三日後によみがえらなければならないと最初に話したのは、ペテロがイエス様をメシアだと告白した後だった。多分最後の年の夏ごろだと思う。

【マタイ16:15~16】イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。…

イエス様はこれまで弟子たちと二年以上ともに歩んで教えてくださったので、イエス様がメシアであることが深くわかるようになった。人々はイエス様のことを「バプテスマのヨハネ」「エリヤ」「エレミヤ」「預言者」などと言うが、ペテロが答えて、「あなたは生ける神の子キリストです。」と答えた。このことを明らかにしたのは天の父である。

イエス様はこの時に、ご自分がエルサレムで苦しみを受けて殺されて、三日目によみがえらなければならないことを、初めて弟子たちに示した。

【ルカ16:22~23】すると、ペテロはイエス様をわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ。とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」

しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ペテロはイエス様に厳しく叱られ、サタンと言われてしまった。このあとでも何回かイエスが十字架で死ななければならないことと、死んでから三日目によみがえることを説明したのだが、弟子たちにはピンとこなかった。しかし二度とそんなことはあるはずはないとイエス様を叱ったり、意味を尋ねる者はいなかった。弟子たちにはそのような勇気がなかった。

実際にイエス様は十字架にかかって死んで葬られた。

エマオに行く二人の弟子たちはイエス様が近づいてきて話しかけてくださっても、それがイエス様だとわからなかった。

【ルカ24:19~24】イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。

私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。それで仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

1世紀のユダヤには、イエス様の他にも、自分こそがメシアであると言って軍を集めてローマ帝国とたたかった人がいた。そして負けて十字架で死んだ。そのような人がたくさんいて、十字架で死んだ人はメシアではないということを、人々は何回も繰り返し見てきた。弟子たちは、イエス様が十字架にかけられたのを見て、この人もまたメシアではなかった、と思っていた。エマオの二人もそのように思った。

するとイエス様は二人を叱った。

【ルカ24:25~27】そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

イエス様はその二人に、なぜメシアは苦しんで死んでよみがえらなければならないのかを話して、一緒にすわってパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡した。すると彼らの目が開かれて、イエス様だとわかった。

そしてすぐにエルサレムに戻って、他の弟子たちにイエス様の復活のことを伝えた。



・ペテロ

イエス様がペテロにご自分を現し、ペテロが他の弟子たちに話したので、彼らは少しは信じ始めたようだ。

【ルカ24:33~34、36~37】二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。

これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。

エルサレムに弟子たちが集まっていた。トマスはいなかったので本当は十人であるが、十一人というのは決まった言い方なのでそのように書かれている。弟子たちは復活したイエス様を見た時、幽霊だと思って怖くなって喜ばなかったので、イエス様はご自分がよみがえったことを彼らに説明しなければならなかった。イエス様は心に疑いを抱く弟子たちに、手や足を見せて、彼らの前で魚を召し上がった。イエス様は本当のからだを持っている。本当によみがえった。

しかしトマスはそのとき一緒にいなかった。



・トマス

【ヨハネ20:24~29】十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。

この八日後にイエス様は弟子たちの前に現れた。今度はトマスも一緒にいた。そしてイエス様はトマスに、手や脇腹に指を入れてみるように言った。

【ヨハネ20:27b~28】「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ」




弟子たちが最初から女性たちの証言を「そうか、よみがえったか、良かった!」と信じるストーリーが福音書にあったらおかしすぎる。復活はそう簡単に信じられるものではない。弟子たちも復活したイエス様を1回だけ見て信じたというわけではない。イエス様が弟子たちに四十日間繰り返し現れて、一緒に食べたり飲んだり、みことばを教えたりして、なぜメシアは死ななければならなかったのか、そしてなぜよみがえらなければならなかったのかを十分に説明してくださったので、弟子たちはやっと深く理解出来るようになって、証言できるようになった。もしイエス様が現れたのが一日だけだったら、弟子たちは夢とか変な現象だと思って、イエス様の復活を簡単に信じることはできなかっただろう。

イエス様が繰り返し一緒に食べたり飲んだりしてくださらなければ、弟子たちは証人として成り立たなかった。弟子たちがイエス様の復活を理解して、それが旧約聖書の預言の成就であることを深く理解したので、イエス様は弟子たちから離れて天に昇って行かれた。マタイからヨハネまでの四福音書と使徒の働き、パウロの第一コリントの手紙を読んで、そのことを考えさせられる。

私たちの信仰の基盤は、熱心になりすぎて興奮しすぎた弟子たちが、よく考えもしないで証言したことに基づいているのではない。

私たちは、変な宗教とはちがい、疑うべきことを疑う(本当は旧約聖書にも復活は預言されていたのだが)。イエス様が証明しなければ弟子たちが証人になることはできなかった。



・パウロ(サウロ)

復活したイエス様は、女性の弟子たちと十二弟子たち、五百人以上の兄弟たちにご自分を現したが、ポンテオ・ピラトにはご自分を現さなかったし、イエス様を信じていない、イエス様を憎むような人にはご自分を現さなかった。最初からイエス様の弟子たちにだけご自分を現した。マタイからヨハネまでの福音書ではそうだった。

しかしじつは、イエス様を心から憎んで、弟子たちを殺そうとするほどイエス様に逆らって、イエス様を悪い偽預言者として悪人扱いするある一人の人に、イエス様はご自分を現している。その人の名は当時はサウロだった。

サウロはステパノ殺すことに賛成していた。ダマスコに行ってクリスチャンを見つけ出し、縛り上げてエルサレムに連れて来るための大祭司の手紙を持っていた。そしてダマスコに向かう旅の途中で、復活したイエス様が全く完全に不信仰だったサウロに現れた。

敵だったサウロは、本当にイエス様がよみがえったことを理解して、イエス様を信じるようになって、弟子たちの中で一番熱心で一番働きの多い弟子になった。

サウロの憎しみと弟子たちの不信仰は、変に聞こえるかもしれないが、私たちの信仰の大切な基盤である。だから、イエス様の復活のストーリーは、ただ単に「信じなさい」いうものではなくて、このような弟子たちの証言があったので、私たちが復活を信じることができた。イエス様が復活しなければ、私たちの信仰に意味はない。イエス様が復活したので、私たちはイエス様を救い主として信じることができる。イエス様が復活したので、死と罪に対して打ち勝って、信じる者に永遠のいのちを与えることができるのだ。イエス様が死んでストーリーが終わってしまったら、イエス様は救い主にはならない。イエス様は私たちに永遠のいのちを与えることもできない。福音はイエス様の復活の上に立っている。

【ヨハネ6:44a】わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。

まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。

わたしはいのちのパンです。

あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来た生けるパンで、それを食べると死ぬことがありません。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

これを聞いたイスラエルは、イエス様のことばにつまづいて、怒った。

このあとで、さらにイエス様が、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」と言ったので、もっと怒ってしまった。イスラエルにとってこれは耐えられない話だった。イエス様は当然、本当の意味でご自分の肉や血を飲むことを話しているのではない。比喩である。

毎週の聖餐式において、いのちのパンであるイエス様が私たちのところに来てくださる。聖餐式でいのちのパンを食べて、杯を飲み、復活したイエス様をほめたたえて、信じて礼拝を捧げる。



イエス様は日曜日の朝に復活した。昔の教会の一年間のカレンダーではイースターが一番強調されていたが、復活を記念するのはイースターだけではない。毎週の日曜礼拝もイエス様の復活の記念である。今はクリスマスの方が強調されている感じで、クリスマスがなければイースターはない。しかしイースターがなければクリスマスもないのである。イエス様がよみがえらなかったら、新約聖書はないし教会もない。



全世界の3分の1の人間がイエス様を信じることを告白している。これからも続けて増えていく。神の恵みがイエス様の復活から続いている。私たちも復活したイエス様の証人としてこの日本に置かれている。弟子たちのように熱心に、よみがえりの信仰を、イエス様を知らない人たちに伝えるように神様の御霊が私たちに与えられている。周りの人に熱心に福音を伝える者として用いられるように、という心をもって聖餐を頂きたいと思う。




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