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「パウロが教える革命」コロサイ3:17~4:1

説教者:ラルフ・スミス牧師


コロサイ3:17~4:1

ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。

妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。

夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。

子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。

父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。

奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして受け取ることになります。不公平な扱いはありません。

主人たちよ。あなたがたは、自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。

今日の箇所は、非常に驚く特別な箇所である。私たちは何度も読んで慣れてしまっているので、それに気がつかないかもしれないが、パウロは革命的なことを書いている。それを考えるために、私たちは二千年前のコロサイの教会の異邦人の状態に戻って、この箇所を瞑想しなければならない。

その前に、私たちの時代に誤解されている箇所について、ひとこと言おうと思う。

・【コロサイ3:18】妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。

男性の方が女性より優れているということではない。これは家庭内の秩序の話である。

・【コロサイ3:22】奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。(3:22)

パウロは、奴隷制度が良いと言っているのではなく、どのように生きるべきかを教えている。


今日の箇所で、パウロは革命的なことを教えていると言ったが、マルクス主義のように一気に世界を変えるような暴力的な革命の教えではない。マルクス主義のような暴力的な革命は絶対に成功しない。パウロの教える革命は、静かに、正しい行いをする革命である。

ローマ帝国には奴隷が多くいた。その数はある学者によれば人口の20%と言う。イタリアの中では40%もいたようだ。奴隷が多いので、パウロは奴隷について取り扱わなければならなかった。奴隷はどうやって生きるべきかを教えなければならなかった。

ローマ帝国の奴隷制度は、19世紀のアメリカやヨーロッパの奴隷制度と全然ちがう。ローマ帝国の奴隷は、戦争で負けた国から連れてこられた白人か、あるいはあちこちから買ってきた白人であった。彼らに人間としての権利は一切なく、主人は奴隷を自分の財産として扱っていたので、殺したければ殺してもよい。奴隷は人間ではなく動物以下であった。

しかし、そのような中でクリスチャンになった奴隷も多かった。だから、クリスチャンになった奴隷がどのように生きるのかを考えたときに、実に革命的な教えを与えた。


ローマ以外の大きな奴隷の市場(しじょう)はエペソにあった。エペソは小アジアの中心的な町で、コロサイから簡単に歩ける距離にあった。コロサイの教会にもエペソの教会にも、奴隷の問題は大きかった。パウロがコロサイ人への手紙を書いたとき、同時にエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、ピレモンへの手紙を書いた。ピレモンへの手紙は、逃げた奴隷をどうするかについて書かれていた。

夫と妻、子どもと親、奴隷と主人についての教えは驚くべきものである。ただ単に三つのグループについての話なのではない。17節の段落が前提である。

【コロサイ3:17】ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。

私たちが主にあってどのように歩むべきか。言葉、行いなどほとんどが家庭の話である。パウロの時代は、商売をやっている人は、多くの場合、家の一部を店にする小売店だったので、今の私たちより家庭が中心になっていたかもしれないが、しかしそうでなくても、私たちのほとんどの言葉と行いは家庭が関係することだと思う。

そして夫や妻の教えはなぜ男性と女性の話ではないかと言うと、例えば夫婦がいて、その下に奴隷が3~4人いるとすると、男の奴隷は主人の妻の下にいることになる。男性が女性に従わなければならない。だから、従う話は、男性だからとかと女性だからという話ではない。パウロの時代の人たちは、この手紙を読んで男女の話だとは思っていない。

妻たちに、夫に従いなさいとパウロが教えると、現代では嫌な感じを受ける人がいるかもしれない。エペソでは、妻が夫に従うことを教える前に、お互いに従い合いなさいと教えている。従い合うことは、クリスチャンとして正しい人間関係を持つことになる。聖書の中で従うというのは美しい言葉であるし、へりくだった心をもって素直に喜んで神様に従う姿はイエス様の姿である。本当の意味で神を信じ、正しく歩む信仰をイエス様は私たちに表してくださった。ピリピリ人への手紙の中でパウロはこのように言っている。

【ピリピ2:6~8】キリストは、神の似姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

「しもべ」ということばが使われているが、これは新約聖書の中で「奴隷」と翻訳されていることばである。イエス様は奴隷のような者になって、ご自分を空しくして、心を低くして十字架の死にまで従ってくださった。喜んでへりくだって、神を信じて従うことは、主イエス・キリストご自身の姿であった。妻たちに、自分の夫に従うように教えることは、厳しすぎるとか、女性を見下しているということではない。むしろ女性たちも主イエスのように行いなさい。「ふさわしく」という言葉がそのことを表している。

パウロの妻たちへの教えは、家庭の秩序を表している。イエス様が御父に従ったように、妻も自分の夫に従うということは、存在論的な話ではない。つまり人間としてだれが優れているのか、という話ではない。御父、御子は存在として同じで100%神である。それと同じように、男性も女性も神の似姿である。その意味で違いは一切ない。家庭の中の秩序として、妻は夫に従う。

しかしパウロの教えはそこで終わらない。パウロは夫たちに、妻を愛しなさいと言う。エペソの手紙の中でそのことをもっと説明している。主イエス・キリストが教会のためにご自分のいのちを捨ててくださったように、夫も自分の妻を愛するように、という教えである。つまり、妻を愛するのは気持ちの話というよりも、キリストが教会を愛してくださったように、自分を否定して妻を自分よりも大切にしなければならないということだ。それで、妻が夫に仕え、夫も妻に仕えるということでもある。

ミルトンの『失楽園』を知っている人も多いと思う。ミルトンは1608年に生まれて、1674年に死んだ。シェイクスピアがまだ劇を書いている時に生まれて、ミルトンが8歳位の時にシェイクスピアが死んだ。同じ年に徳川家康も死んだ。『失楽園』はアダムとエバの罪の話がメインであるが、サタンが堕落したことも書かれている。アメリカではこの本は有名で、この本の中の「天国で仕えるより地獄で君臨する方がいい」というサタンの言葉がよく引用されている。強い言葉であるし深い皮肉がある。なぜなら地獄でサタンが支配して君臨することはなく、むしろ孤立しているからだ。天国で神に仕えたくない、という神に逆らう思いは、今のアメリカ人の心を表す皮肉である。この言葉をアメリカ人が引用するときは、サタンに同意する意味で使っている。

しかし、イエス様はサタンとは全く反対で、私たちを愛して、私たちのことをご自分より大切だと思って、しもべとして奴隷としてこの世に生まれて、神の命令を喜んで守って、私たちのために十字架上で死んでくださった。私たちはイエス様のような者になりたいし、パウロは私たちがイエス様に従って歩むように励ましている。


ことばであれ、行いであれ、何をするにもイエスの名において行うのは、毎日の生活を礼拝として神様にささげているのと同じである。毎日の生活はきよいものである。子どもたちが自分の親に従うのは大きな話に感じないかもしれないが、神様がそれを喜んでくださる。奴隷が毎日一生懸命働いてもだれもほめてくれない。だから奴隷が仕事をさぼるのが問題だった。パウロは奴隷たちに、主に仕えるように自分の主人に仕えなさいと言う。人間以下の扱いを受ける者に対して、毎日の生活が神に喜ばれる礼拝であると教えるのは革命的であった。

子どもも奴隷も夫も妻も、神に仕え、神に報いを与えられる者として生活する。難しいことを要求されていない。普通に正しく歩むことによって、祝福が与えられる。このような革命的な教えはローマ帝国の中にない。異邦人の宗教の中にもない。ユダヤ教にもない。

この教えを受けた昔のクリスチャンは殺された。クリスチャンは偶像礼拝をせず、秩序を保つためにローマ帝国の神々の前にひれ伏すこともしなかった。そのことへのローマ帝国による報いは死。

毎日の生活の中で、家庭において愛をもって歩むクリスチャンたちは、苦しんで、殺されて、結局ローマ帝国が負けた。最終的にローマの皇帝はイエス様は主であると告白した。

パウロが教えている革命は、毎日の生活で素直に神を信じて歩むことである。それによってローマ帝国は完全に変えられた。私たちは毎日の生活の中で、喜んで神の命令を守る者として歩んで、神の御前に集まって主を賛美し、告白することによって、静かで人前で目立たない革命をしている。パウロはそのように私たちに教えてくれている。それで福音が全世界に広がり、私たちは神の栄光を見る。




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