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「パウロとともに働く教会」ピリピ1:3〜6

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ1:3〜6

私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。

先週私たちはピリピ人への手紙の挨拶の部分をみて、パウロがこの教会に対してどのような心をもっているかについて考えさせられた。

今日は、パウロがなぜこの手紙を書いたのか、簡単に一緒に考えたいと思う。

パウロがこの手紙を書いた理由は3つある。

1、ピリピの教会に献金についての感謝を伝えるため。

2、悪い教師に警告して、ピリピの教会が彼らから悪い影響を受けないように守るため。

3、迫害の苦しみの中で、ピリピの教会が一致して堅く立つように励ますため。

この3つのことには深い関係がある。今日の箇所の「感謝しています」ということばでこの3つを指しているとも言える。

手紙の最後にもまたパウロの感謝が出て来る。



⚫️私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。(1:3)

じつは、ピリピ1:3〜7は一つの文章である。

エペソ1:3〜14もギリシャ語で一つの文章であることを以前学んだ。このエペソの文章はパウロの時代にギリシャ語で書かれたすべての文学の中で一番長いものだった。

ピリピの1:3〜7はそこまで長くないが、日本語で一つの文書にするのは無理なので、いくつかに分かれている。それはエペソの箇所も同じである。


この1:3をギリシャ語からスミス語に翻訳してみる。

この文章は「私は、私の神に感謝しています。」というところから始まる。

例えば詩篇の中でダビデが神に感謝をささげるときこのように言う。私たちの神は唯一絶対の神で、他に神がいるわけではないが、ダビデもパウロも「私の神」表現を使って自分と神様との生きている親しい関係を表している。その関係がこの表現の土台である。


あなたがたのことを思うたびに」という翻訳は間違っていると思う。

「あなたがたが私をいつも覚えているので(神様に感謝しています)。」という翻訳の方が良い。パウロがこの教会を覚えて神に感謝しているのではなくて、この教会がパウロのことを覚えているので、パウロは神様に感謝している。

結論としてこの翻訳は確信できる。エピという前置詞があってそのあとに与格(動詞の間接目的を票示することば)があれば理由を表している。つまりパウロはどういう理由で何のゆえに感謝するのかを書いている。ピリピの人たちがパウロのことを覚えているので感謝しているのである。ピリピの教会がどのようにパウロのことを覚えているのかというと、4章にはっきり書かれているが、他の教会よりも献金をしていることでパウロを覚えているのがわかる。パウロに献金しているというよりも、福音の働きのために神様に熱心に献金している教会だった。神様に心から熱心に献金している教会として、ピリピ、テサロニケ、ベレアの教会は聖書の中で有名である。これらの教会は第一、第二コリント人への手紙の中で「マケドニアの教会」と呼ばれたりする。

この人たちの伝道によって他の教会が設立されたかもしれないし、マケドニアに他の教会があったかもしれないがそのことは聖書には何も書かれていない。でもマケドニアの教会は献金に熱心で、献金の本当の意味を理解していた。

【第二コリント8:1〜5】さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。

使徒の働きを読んでもマケドニアの教会が貧しいとはわからないが、想像はできる。使徒の働き16章でパウロの伝道にクリスチャンではない人が反対して暴動を起こして、そのためにパウロとシラスが逮捕されてピリピから出なければならなかった。クリスチャンではない人の反対はピリピの中でひどかった。パウロはピリピからテサロニケに行って福音を伝えたが、テサロニケのユダヤ人がパウロに反対したのでまたそこから逃げなければならなかった。ベレアに行ったらテサロニケのユダヤ人が追いかけてきて反対したので、最終的にパウロはアテネに行った。マケドニアの教会(ピリピ、テサロニケ、べレア)は強いユダヤ人の反対を受けて、異邦人の反対も受けて苦しんでいた。そのように苦しく貧しい中で、マケドニアの教会は、自分たちに献金する機会を与えてくださいと熱心にお願いした。パウロたちはマケドニアの教会の献金をコリントの教会で証しする。コリントの教会も熱心に献金するように励ますためである。

献金の意味は旧約時代と何も変わっていない。旧約時代のイスラエルは農業が中心で、収穫の十分の一をレビ族に献金するように言われていた。レビ族は献金されたものの中から十分の一を祭司に献金する。簡単にいえばそのようなシステムだった。十一献金をささげるとき「十分の一は神のもので残りは私たちのもの」と誤解されることがあるがそうではない。自分の働きを通して与えられた実はすべて神のものである。そしてその十分の一は自分を代表する部分である。十分の一を献げることを通して自分を神に献げる。パウロが献金の意味を話すとき、新約聖書の新しい意味を説明しているのではない。旧約の時代から献金は自分のすべてを神様に献げるという意味である。それでパウロはピリピの教会に「献金のゆえにあなたに感謝します」という言い方はしない。「あなたたちが神に対してこのような心をもっていることを、私の神に感謝すします。」と言う。神ご自身の御霊の働きで、ピリピの教会が神に対する信仰をもって熱心に献金する姿を見て神様に感謝している。

できるだけ少なく献金しようとしていない。貧しくて自分たちの分も足りない中で献金したいと思っている。献金をして自分を神に献げている。だからパウロはこの教会の信仰の働きを見て心から神に感謝している。このような貧しい教会がパウロを覚えて福音の働きに参加している。



⚫️あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、(1:4)

パウロはこのような素晴らしい信仰をもつピリピの教会のゆえに喜んで、神様に感謝している。これは神様の働きである。



⚫️あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。(1:5)

「最初の日」というのは、パウロがピリピの町を訪ねた時のことである。女性たちが川のところで祈っていた。パウロは、テサロニケやそのほかの町に行くとまずユダヤ人の会堂に行くのだが、ピリピにはユダヤ人があまりいなくて会堂はなかったようだ。その川のところで福音を伝えたら、リディアという女性がパウロとテモテとシラスとルカを招いた。ピリピの町の人々は最初から寛大でパウロたちを支えて福音の働きにあずかっている。最初の日から今日までは10年位。

4章でピリピの教会は何回もパウロに贈り物をしている。するエパフロデトが献金を届けて、しばらくパウロと一緒に働いて、ピリピの町に戻ってパウロのことを伝えることになる。

「福音を伝えることにともに携わってきた」という言い方は献金も含まれるが献金だけにとどまる言い方ではなく、伝道することも含まれる。ピリピの教会はピリピの中で熱心に伝道している。伝道の機会を熱心に祈り求めている教会なので、パウロと一緒に福音を伝える働きをしていることを感謝している。この人たちは熱心に献金して、熱心に伝道の働きをしている。反対されながら、試練にあいながら、熱心に伝道している。この教会は本物の教会。伝道しない教会は死んでいる。本物の信仰をもっている教会は伝道せずにはいられない。感謝に溢れて自然に伝道して、神様に感謝を表す献金を献げて自分を神様にささげる。ピリピはそのような信仰持っている教会だった。



⚫️あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(1:6)

パウロはピリピの教会に、パウロを覚えて献金していることとパウロとともに福音を伝える働きをしていることを感謝しているが、この6節では、神様がはじめられたこの働きを神様ご自身が完成させてくださることに感謝している。神様の働きをこの教会においてみることができる。パウロ自身が伝道したが、自分が始めた働きだとは言わない。神の御霊の働きでリディアが信じた。この教会の始まりは信仰をもっている女性であった。そして次に看守とその家族が救われた。リディアも看守も伝道して、ピリピの教会は地域教会になって、監督たちも、執事たちもいた。そして他の教会に模範を示す教会になった。

コリント人への手紙第二で、パウロがこの教会の模範について話す機会があって、マケドニアの教会のようになりなさいと話している。マケドニアの教会、つまりピリピの教会は模範を示している。

私たちにも地域教会がどうあるべきかを教えてくれる。

私たちの教会は、献金することにおいて熱心に自分を神に献げることをしているかどうか考えさせられる。ジョン・ウェスレーは立派なクリスチャンとして尊敬できるが、教師として尊敬していない。ウェスレーは、できるだけ儲けてできるだけ蓄えてできるだけ献金しなさいと教えている。私たちの教会はできるだけ献金するような教会になっていないだろうか。つまり、できるだけ自分を神様にささげる教会になっていないだろうか。

毎週の礼拝の終わりに、私たちは自分を神にささげる祈りを唱えている。それは非常に大切な祈りである。私たちはピリピの教会のように心から自分を神にささげる者として一緒に礼拝したいと思う。パウロが私たちの働きを見て、この教会は私とともに福音を伝えていると神に感謝しているだろうか。熱心に福音を伝える機会を求めて、個人一人一人も、地域教会としても励まされる。

41年前に私たちの教会を始めたのは神様である。いろいろな人を通して神様が働いて、私たちとともにいてくださった。

その働きを、神様が最後まで導いて下さるように祈り求める。




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