説教者:ベンゼデク・スミス牧師
ヨハネ12:1〜8
さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。
イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」
詩篇126篇
主がシオンを復興してくださったとき 私たちは夢を見ている者のようであった。
そのとき 私たちの口は笑いで満たされ 私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
そのとき 諸国の人々は言った。
『主は彼らのために大いなることをなさった。』
主が私たちのために大いなることをなさったので 私たちは喜んだ。
主よ ネゲブの流れのように 私たちを元どおりにしてください。
涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る。
種入れを抱え 泣きながら出て行く者は 束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。
大勢で食事をしているとき、女性が非常に高価な香油を出してきて、イエスの足に塗りました。香油は当時の人の一年分の給料と同じ値段でした。皆さんも自分の年収を考えてみてください。その金額を328gの香油のためにすべて使いますか。今の感覚では何百万円もするようなものです。マリヤはそれを持ち出して、食事をしているイエスの足に注いで自分の髪でぬぐったのです。一体何が起きているのでしょうか。
もし皆さんがそれを目撃したらどんな反応を示しますか。私たちはこのストーリーから何を学べるのでしょうか。そしてこれをどう模範にするのでしょうか。
まず、一世紀の地中海の文化を知らなければいけません。
大人の女性はみんな髪が長くて、それを編んでスカーフやピンで留めています。
中東では、女性は外に出る時に何かで髪を隠します。髪を下ろしているのは小さい女の子だけです。
奴隷の女性は髪を飾ったりせず、短く切っていますが、地位のある大人の女性は必ず髪を上げて留めています。
例外もありました。地位のある大人の女性も髪を下ろす場合もあります。その一つが神殿に行くときです。女性は神殿に入る時は髪を下ろさなければなりませんでした。神々や女神の前で自分の地位を主張してはいけないのです。髪を下ろすのは自分を低くしている証しで、心の清さ、神々に対する尊敬、礼拝の心を表しています。
もう一つ例外があります。それは喪中の時や悲しんでいる時です。だいたい悲しんでいるときに普段の礼儀の反対をします。公に悲しんでいる時は髪の毛を下ろすし、しかも整えた状態で下ろすことはしません。髪をめちゃくちゃにします。
例えば、ローマが敵に囲まれて、侵略されそうになった時、女性たちは神殿の周りの地面の石や祭壇で自分の髪をこすって、神に救いを求めます。古代ローマの将軍コリオレイナスの話は有名でシェイクスピアの劇にもなっています。コリオレイナスは優秀な将軍で、ローマを何度も救ってきたのにローマは彼に感謝しなかったので、彼はローマに家族を残して敵の側につきます。そしてローマ支配下の都市を攻め取ったので、ローマは絶体絶命の状態に陥ります。その時、彼の母ヴォラムニアと彼の妻と他の女性たちとで敵の前に出て行ってローマを滅ぼさないでくれと嘆願しました。その時も髪をめちゃくちゃにして振り乱したのです。母の嘆願に心を動かされたコリオレイナスは独断で和平を結びます。それでローマは救われました。
聖書で似たようなことを見てみると、灰を頭からかぶるということがあります。普通は洗ってきれいにするのに、反対に汚します。日本だと土下座して自分の頭を相手の足のところまで下げますが、灰をかぶることにも同じような意味があります。だれかの足を自分の髪でぬぐうのも同じです。
女性がイエスの足を髪でふくのはこれが初めてではありません。ルカ7章にもあります。
【ルカ7:37〜38、44〜48】その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。…それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。
あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入ってきたときから、私の足に口づけしてやめませんでした。あなたは私の頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
この罪深い女性は、自分の罪に対する悲しみを表していました。そして赦しを求める祈りも表しているのです。
今日ヨハネ書で読んだマリヤは、この女性と意味が少し違います。マリアは何をしていたのでしょう。なぜ今日この箇所が選ばれたのでしょう。それは、今が四旬節だからです。しかも四旬節の中の最後の二週間だからです。この二週間を受難節と呼び、私たちもマリアと同じように主の受難を悲しみ、そのためにイエスを礼拝する時なのです。
マリアのしたことを理解するために、私たちは少し長いストーリーを学ばなければいけません。今日読んだのはヨハネ12章ですが、その前のヨハネ10章の最後のところではイエスはエルサレムにいます。そこでユダヤ人が石を投げてイエスを殺そうとしたので、イエスは逃れてヨルダン川の向こう側に逃げました。緊張感がものすごく高まっていることがわかります。イエスがエルサレムに現れたら殺される可能性があり、対立がクライマックスに向かっています。でも、まだ時が来ていないのでイエスはここでは逃げました。
そのような時にラザロが病気になります。マリアとマルタはラザロを癒してもらうためにイエスを呼びたいのですが、呼んでいいのかどうか悩んだはずです。ベタニアはエルサレムから3キロしか離れていないので、もしここにイエスが来たらイエスの命が危ない。それで呼ぶか、呼ばないか迷った末に、自分の兄弟が死にかけているので、結局使いを送ってイエスを呼びました。家族がギリギリまで待ったのは、ラザロが急病だったこともあるし、イエスを呼びたくないという葛藤もあったからだと思います。
使いがイエスのところに来た時、弟子たちはまさかイエスが行くわけがないと思っていました。そしてイエスも知らせを聞いてから二日間その場所にとどまっていたので、弟子たちもこんな時にエルサレムに行かない方がいいと納得していました。
ところがその後イエスはラザロのところに行こうと言います。
【ヨハネ11:7〜8】それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打にしようとしたのに、まだそこにおいでになるのですか。」
弟子たちはイエスを止めようとします。しかしイエスはベタニヤに戻る理由を言います。
【ヨハネ11:11】わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。
それを聞いた弟子たちは、眠っているだけならちょうどいい、そのうち回復するだろうと思いました。
【ヨハネ11:12〜13】弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。
弟子たちはどうしてもベタニアに行きたくなかったのです。イエスが殺されるのを見たくないし、自分たちが危ない目に会うことも恐れているのです。
【ヨハネ11:14〜】そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
これぐらいの覚悟がないとエルサレムには行けないのです。ベタニヤに行けば死ぬ。イエスの一番力強い敵がそこにいるのです。
イエスは、マリアとマルタの願いを聞いていのちの危険を犯してベタニアに行きました。しかも彼らが全く期待もしなかったことを行います。ラザロをよみがえらせるのです。マリアがどれだけイエスに感謝したか想像してください。ラザロを復活させたせいで、その日からある人たちはイエスを信じ、パリサイ人や祭司長たちはイエスを殺す決断をしました。
【ヨハネ11:53】その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。
つまりラザロにいのちを与えるために、イエスは自分のいのちを犠牲にしました。マリヤもそれを察していました。もうすぐ過越の祭りが来ます。たくさんの人がエルサレムに集まってきます。これから大変なことが起こる。マリアはそう思っていたかもしれません。もしかしたら今晩がイエスに感謝を表す最後のチャンスかもしれない。生きているイエスに会う最後かもしれない。この後イエスがどうなるのかマリアは心配していました。もしかしたら、ラザロの埋葬のために準備してあった香油なのかもしれませんが、マリヤはそれを全部持ち出してイエスのために使います。これが彼女が出来る一番象徴的な行為なのです。自分のからだの一番上にある髪の毛で、イエスのからだの一番下にある足をぬぐいました。持っているものの中で一番貴重な、一番高価な香油を足を洗うために使うのです。それは最も低い使い方ではないでしょうか。
この時のイエスのからだは神殿のようなものです。彼女の願いごとと、悲しみを表すために、その神殿をふいているのです。
また、イエスが祭壇で献げられるいけにえとしての準備をしています。じつは、穀物のささげものをささげるときに、焼いたパンを砕いて油を注ぎます。それで彼女もキリストのからだが私たちのために与えられるパンだということを、御霊が彼女に示してくれています。彼女はその生けるパンに油を注いでいます。
この美しい礼拝を見て、最初に発言したのはイスカリオテのユダでした。
【ヨハネ12:5】「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
彼が発言できたのは、みんなが同じことを思っていたからだと思います。ベタニヤは地名ですが「貧しい者の家」という意味です。ベタニアには、エルサレムから来た病人、貧しい人、巡礼者が施しを受けるための施設があったと言われています。そのようにベタニアには貧しい人たちがたくさんいました。これだけの高価な油なら、ユダが言うように、売って貧しい人に施すことができたはずです。ユダの言ったことは周りの人々には納得できるものでした。
しかし、私たちは聖書でユダの思いを知らされています。ユダは、決して貧しい人をあわれんでこのように言ったのではありませんでした。彼は泥棒だからです。泥棒は他人のお金では寛大なのです。彼は与えるのではなく盗ることを考えていました。そして他の人が自分のお金をどう使うかにまで口出ししていいと思っている立場なのです。だから私たちは色々な意味でユダのようにはなりたくないのです。私たちは与えるものでなければなりません。そして与える者を批判する者にもなってはいけません。
イエスはその場でユダを止めます。イエスはマリアの悲しみも感謝もちゃんと見ていました。マリアは自分の救いだけを考えていたのではありません。彼女の愛する兄弟が救われるためでした。私たちも、イエスが私個人のために十字架にかかってくださったと感謝するだけでは足りないのです。イエスはもちろんあなた個人のために十字架につけられました。でもあなたの周りの人たち、それだけではなく全世界の人々を救うために十字架にかかったのです。そして苦しんだのです。
その苦しみを見て悲しむことも大切です。弟子たちはまだイエスが十字架で死ぬことを受け入れられなかったのですが、マリアはそれをどこかで受け入れて準備していました。彼女の行動は、四旬節、中でも特に受難節に合っている行いなのです。
この時期に私たちはイエスの受難を瞑想します。
そしてマリヤのこの行いは聖餐式にも合っています。イエスの死を記念して、その死の意味を覚えてそれを悲しみながら感謝します。この日は土曜日で、イエスが死ぬ一週間前でした。次の日はもう棕櫚の日曜日です。イエスが王として、メシアとして、エルサレムに入場する日です。私たちにとっては来週の日曜日がその日です。本当は盛大にお祝いしたいところですが、その五日後に、イエスはユダヤ人の王として十字架にかけられます。
現代人として、現代のクリスチャンとして、私たちはイースター(復活祭)が大好きです。楽しいことがあれば、喜びがあれば、勝利があればそれに惹かれていきます。
でも、じつは四旬節の間に泣かなかった者はイースターで喜ぶ権利はありません。十字架を通っていないのなら復活もありません。
【詩篇126:5〜6】涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え 泣きながら出て行く者は 束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。
今、私たちはまだ四旬節にいます。そして希望を持ちながら悲しんでいます。二週間後に喜ぶためです。私たちはイエスが十字架にかかっている姿を見慣れていないし、イエスの死を悲しむことにも慣れていないかもしれませんが、これはマリアやこの後出てくる他の女性たちが行ったことなのです。その女性たちはイエスを愛していました。
では、私たちはどのようにマリアを模範とすることができるのでしょうか。
一つはコンサートに行って瞑想することです。日本でも、世界でもいろいろなコンサートが開かれています。マタイ受難曲や、ヨハネ受難曲、先週ユースキャンプで一緒に聴いたブクステフーデ作曲の『われらがイエスの四肢(Membra Jesu Nostri)』という曲もあります。ブクステフーデはバッハのオルガンの先生でした。そのようなコンサートに行って瞑想することができます。コンサート情報がほしければ小倉さんに声をかけてください。聖金曜日は残念ながら私たちの教会では礼拝を行っていませんが、いろいろな教会で礼拝があります。そしてコンサートに行けないなら、録音を家で聞いたり、全曲聴くことが時間的に難しければハイライトだけ聞いたりすることができます。聖金曜日の礼拝が無くても、自分の家でイエスの受難の話を読むことができます。
もう一つは、貧しい人のために蓄えたお金をイエスの礼拝のために使うことです。場合によってはそれは必要です。世界のために、貧しい人も含めて人のためにできることはイエスを礼拝することです。時々礼拝のためにお金を使うことに対しての批判を耳にすることがあります。例えば教会で金でできているものを使うのはふさわしくないとか、高い楽器や音楽家にお金を払うことはもったいないとか。礼拝よりも大事なもののためにお金を使えるはずだ、とか。
土地を買ってビルを建てるのはもったいない。それよりどこかを借りて家賃を払って、買うはずだったお金を使ってもっと伝道したり施しをしたりすればいいじゃないか。神様は心しか見ないのだから。
じつは、神様は心しか見ないとは聖書のどこにも書いていません。神は礼拝する者の心しか見ないから、私たちの服装などはどんなものでも構わないと言うのでしょか。しかしそれは、まるで神様には良いものをささげる必要はないと言っているようなものです。
確かに私たちは貧しい人を助けるべきです。近いうちにまたミッション基金も募集します。その時に資金不足の神学校を支えるためにも献金を募集します。あまりにもお金が足りなくて、奉仕者たちにお金が出せません。でもその神学校から良い牧師が出てくるように支えたいのです。ウクライナで苦しんでいる兄弟姉妹のためにもお金を献金したい。現在、ウクライナでは信仰や祈りに対する関心が高まっています。そして物理的な支えのためにも霊的な支えのためにも人々が教会に戻っています。私たちは兄弟に仕えることを横線として、神に仕えることを縦線としたいと思います。この二つは切り離すことはできませんが区別することはできます。そして両方必要です。横線がすべてで、横線があれば縦線も付いてくるのだと考えてほしくありません。この二つがお互いを支えるのです。神への愛はあるから兄弟への愛は必要ないということはありませんし、兄弟愛が全てで、この世の物理的な必要性を満たすために全てを出し切る必要があるという考えも間違っています。私たちは兄弟のからだの必要を助けながら、キリストご自身を礼拝して、栄光を帰しています。じつは、それを通して私たちは心の貧しい者として幸いです。
豪華な礼拝をささげましょう。遠慮しない礼拝をささげましょう。お金だけではなく、からだ、時間、エネルギーをどう使うのかということです。まず朝起きて、体を礼拝の場所に運びます。
できれば聖金曜日にイエスの犠牲を瞑想する時を持ちましょう。そうすれば私たちは二週間後、復活の時に、私たちの口が笑いで満たされ、舌が喜びの叫びで満たされます。
【詩篇126:2】そのとき 私たちの口は笑いで満たされ 私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき 諸国の人々は言った。『主は彼らのために大いなることをなさった。』
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