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「ペンテコステ」コロサイ3:1〜14

説教者:ラルフ・スミス牧師


コロサイ3:1〜14

こういうわけで、あなたがたは、キリストとともによみがえらさせられたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。 あなたがたは死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。 あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。

ですから、地にあるからだの部分、すなわち、みだらな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。 これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。 あなたがたも以前は、そのようなももの中に生き、そのような歩みをしていました。 しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、 新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。 そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。

パウロのすべての手紙と同様に、コロサイ書も旧約の背景から非常に深く広く語っているが、いつも特定の出来事を指しているとは限らない。しかし今回は旧約のある特定の出来事を前提として話している。それはペンテコステである。


あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、 新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(コロサイ3:9b~11)

創世記3章に、アダムとエバが罪を犯してエデンの園から追い出されたストーリーがある。そしてノアの洪水のさばきは、エデンの園のさばきを全世界に適用したものだ。死のさばきだった。

もう一つの大きなさばきがある。創世記9章で、神様は洪水後のノアにアダムとエバと同じように、生めよ、増えよ、という命令を与えた。しかしノアの子孫は神様に逆らってバベルの塔を作ったので、神様はことばをバラバラにしてさばき、人類はもはや一つではなくなった。

エデンの園での罪に対するさばきとバベルの塔のさばき、この二つのさばきは旧約聖書のストーリーの中で非常に印象深い。

イエス様が私たちのために十字架上で死んでくださって、私たちの代わりに死のさばきを受けてくださり、エデンの園ののろいの杯を完全に飲んでくださったが、それだけでは創世記のさばきは解決していない。ペンテコステの日に、イエス様が御霊を注ぎ出してくださって、御霊が宿る、一致が与えられている、新しい人類を造ってくださったので、神様に逆らったエデンの園のさばきと、人類がバラバラにされたバベルの塔のさばきが取り除かれたのである。

【コロサイ3:11】そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

これはバベルの塔の話である。バベルの塔ののろいは、主イエス・キリストによって取り除かれて、人類はキリストにあって一つとなった。

先週の日曜日はイースターだった。その前の金曜日は聖金曜日で、今はイエス様の十字架と復活を覚えるイースターの季節であるが、これから私たちが向かうのはペンテコステである。御霊が与えられる祝福を前提として、パウロは私たちのことを新しい人類として話している。

新しい人類として話す深い意味の一つは、古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着たということである。

【コロサイ3:9b〜10】あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、 新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。

パウロは「新しい人を着た」と過去形で言い、だから新しくされ続けなさい、と言う。服の話は旧約聖書では出エジプト記とレビ記にたくさん出てくる。

エジプトを脱出したイスラエルはシナイ山に向けて歩いた。歩いた時間は明白に記されていないが、昔からの伝統ではペンテコステ(過越から五十日)だと言われている。

出エジプト記20章:シナイ山でイスラエルに十戒が与えられる。

21〜23章:十戒の適用が細かく書かれている。

24章:契約を結ぶ儀式を行う。

25〜40章:祭司の服と天幕の話。途中で偶像礼拝の出来事があった。天幕を作る話と祭司の服を作る話が一緒に出てくる。

祭司の服は美しくて、神の栄光を表している。そして祭司の服は天幕を祭司自身のからだにつけるような感じで説明されて、出エジプトが終わりのところで神の栄光の雲が天幕の上に下る。しかし祭司たちはまだ天幕に近づくことはできなかった。まだ任命式をやっていないし、服が正しく与えられていなかったからだ。

レビ記1~7章:祭司たちはまだ何をすればよいのか分かっていないので、どのいけにえをいつささげるかについて、祭司の働きを神様が教えている。

8~10章:祭司の任命式。まず、アロンとその子たちは古い服を脱ぐ。モーセが彼らを水で洗う(バプテスマ)。アロンとその子たちは新しい祭司の服を着る。脱ぎ捨てて、洗い、新しい服を着る。バプテスマと新しい服を着ることが一緒になっている。

【ガラテヤ3:27】キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。

私たちもバプテスマを受けて、主イエス・キリストご自身を新しい服として着る。バプテスマは決定的で、人生において一回のみである。だから過去形にした。その事実があるので、パウロは、私たちが毎日の生活において古い人を捨てて新しい人として歩むことを励ましている。簡単に言えば、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」のである。ギリシア人でもユダヤ人でもない。スキタイ人でもない。キリストがすべてである。古い人は死んで、キリストが、イエス様を信じてバプテスマを受けたギリシア人やユダヤ人、そしてすべての人とともにおられるので、彼らはいのちを持っている。だから私たちは一つである。

パウロはペンテコステを指している。御霊が与えられて、新しい人類が造られたことを指している。


⚫️ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。(コロサイ3:12~14)

・「あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」この表現を以前学んだ時に、イエス様のバプテスマを指していると思うと説明したが、旧約聖書のイスラエルの背景を考えるときに、出エジプト記19章を思い出す。

【出エジプト19:4〜6】『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきたことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。

「鷲の翼」は母の愛である。神がイスラエルを愛して、ご自分の宝の民とされたのは愛の話である。

聖なる者とは祭司である。

選ばれたというのは、全世界の中でイスラエルだけが神の契約の民であるということである。

選び、愛、きよさ、祭司の民、ということばも、ペンテコステの時にシナイ山で神がイスラエルをご自分の選ばれた祭司の民としてくださったことを表している。

【コロサイ1:13】御父は、私たちを暗闇の支配から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

暗闇は、パロ、サタン。私たちは御父の愛する子、イエス様の王国に移された。イエス様が私たちの約束の地である。

それが旧約聖書の背景と私たちの救いのつながりである。私たちはイエス様の中にあるものとして移されて、同時にイエス様は私たちの中に住んでくださっている。私たちは主イエス・キリストにあって一つである。パウロは、私たちに旧約聖書の救いの成就について教えてくれている。イエス様は神の右の座についているので、私たちは上にあるものを求める。なぜなら私たちが祭司の王国となっているからである。

私たちは、毎週の礼拝において、祭司の王国として集まって、礼拝をささげて祈る。大祭司は贖いの日にイスラエルのためにいけにえをささげるが、その前に、まず自分の罪のためのいけにえをささげなければならない。私たちもまず自分の罪を告白して、その罪の赦しを求める。神様から赦しが与えられたら、とりなしの祈りをする。礼拝の牧会祈祷の中でそれを行っている。キリストを信じて救われた新しい人類がどんどん成長して、主イエス・キリストが全世界で礼拝されることを毎週祈り求めている。病気の人や苦しんでいる人のために祈って、一緒に祭司の働きを行って、祭司の王国として天で神様を礼拝し、みことばを聞いて、契約を新たにする。主イエス・キリストを意味するパンと杯をいただく。

毎週の礼拝は、最初から最後まで祈りであると言えるし、賛美を唇のいけにえとしてささげていると言える。このように自分たちの心をいけにえとしてささげて、礼拝の最後に聖餐式を行った後で、一人一人が自分を神様にささげるように祈る。これは祭司の民として最もふさわしいと思う。祭司の民として、自分を生きたそなえ物としてささげて、神様が私たちを祝福して送り出す。そして私たちは主イエス・キリストご自身と、御国を求める者として歩む。それが毎週の祭司の民としての礼拝である。

私たちは新しい人をこの身に着た。新しい人とはキリストである。キリストはすべての中にある。だからあなたがたは神に選ばれ、聖なる、愛されている者としてイエス様を身につけなさい。深い慈愛の心、親切、へりくだった心、柔和、寛容を私たちの服として着るように。イエス様にある者として、イエス様が私たちの内に住む者として、イエス様らしい自分を求めなさい。そしてそのように歩みなさい。

・「互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい 」、イエス様が弟子たちに忍耐したように、互いに忍耐し合いなさい。私たちはみんな罪人で、お互いに忍耐し合う必要がある。

・「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい 。」この言い方は少し変わった言い方である。普通は神がキリストのゆえに私たちを赦して下さる、という言い方をする。しかしここではキリストが私たちを赦してくださったようにお互いを赦し合いなさいと言う。これは主を着ているからではないかと思う。

・「これらすべての上に、愛を着けなさい。」新共同訳では「愛は全てを完成させる絆です。」となっていて、この方がギリシャ語の原語に近い。へりくだった心で互いに親切にするのは愛である。愛がなければそのほかのものは成り立たない。だからパウロはすべての上に愛を着けなさいと言う。愛の心、愛の思い、愛の歩み方を何よりも求めなさい。これが本当の意味でイエス様を身に付けることである。


バプテスマの誓い、毎週の聖餐式の誓い、日々の祈りは愛の心をあらたにすることである。イエス様を求める心をあらたにする礼拝である。

私たちは祭司として任命されて、神様から新しい服を与えられた。その誓いをあらたにして、愛を求める心をもって聖餐を受ける。




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