説教者:ベンゼデク・スミス牧師
マタイ11:2〜11
さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じてイエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。そうでなければ何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。この人こそ、
『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を整える』
と書かれているその人です。
まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。
周りを見ていると、クリスマスはなんだかワクワクします。クリスマスマーケットが華やかで、あちこちでシュトーレンが売られていて、楽しく、盛り上がっています。
しかし待降節はただ楽しいだけの時ではありません。バプテスマのヨハネは待降節の状態を表しています。救い主が救いをもたらし、さばき主が正義をもたらし、天地の創造主が癒しと復活のいのちを与えてくださるのを待っています。待っているとはまだ与えられていないということなので、まだ盲目で耳が聞こえない状態で、まだ牢にいて、独裁者に抑圧されている状態です。それがバプテスマのヨハネの状態でした。彼はイエスの親戚で、イエスより6ヶ月年上で、幼なじみでした。イエスより少しだけ早く来て、これからメシアが来ることを宣言していました。
シメオンとアンナも神殿で赤ちゃんのイエスを見て神をほめたたえました。
【ルカ2:29〜32】「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、
しもべを安らかに去らせてくださいます。
私の目があなたの御救いを見たからです。
あなたが万民の前に備えられた救いを。
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
彼らは、何百年も何千年も待っていた救い主をその目で見ました。そして神を賛美しました。だから大きなものすごいことを見るはず。あと数年でこのイエスが正義と癒しを与えてくださるはず。イエスと同じ年のヨハネは、きっとそれを自分の目で見ることができるはずだと思っていたのではないでしょうか。ヨハネにはその期待があったと思います。なのにヨハネは当時の独裁者ヘロデ王を正しく非難したせいで逮捕されて牢にいます。ヨハネの意識の中で、大きな敵の一人は明らかにヘロデ王でした。しかしイエスはヘロデ王に対して何も言いませんし何もしませんでした。ヨハネを救おうともしません。イエスが天使を送ってパウロやシラスの時のように牢の扉を開くこともできますが、それもしませんでした。イエスは他のことで忙しいのです。ヘロデを無視して、ヨハネを無視して、イエスは罪人や取税人と時間を過ごしていました。人々に教えたり、病人を癒したりしていましたが、新しい王としての正義と支配はどこにあるのでしょうか。それを知りたくて、ヨハネはイエスに遣いを送って尋ねました。
⚫️さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じてイエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」(マタイ11:2~3)
牢の中でイエスのみわざについてきいたヨハネは、喜んでいるようには見えません。そんなことをしているのか、という反応にも見えます。
いったいどうなっているのかという混乱は、確かにヨハネにあったと思います。もしかしたらフラストレーションもあったかもしれません。あなたではないのですか。他の人を待つべきなのですか。あなたはメシアのはずなのになぜ油注がれた王として行動していないのですか。このような思いがヨハネにはありました。
⚫️イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ11:4~5)
今日はイザヤ書35:1〜10と詩篇146:5〜10も朗読しましたが、どちらもメシアが来たときに起こることを預言している箇所でした。
【イザヤ35:5~6】そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。
【詩篇146:7~9】虐げられている者のためにさばきを行い 飢えている者にパンを与える方。主は捕らわれ人を解放される。
主は目の見えない者たちの目を開け
主はかがんでいる者たちを起こされる。
主は正しい者たちを愛し
主は寄留者を守り みなしごとやもめを支えられる。
しかし悪しき者の道は 主が曲げられる。
つまり、イエスはヨハネの遣いに「はい、私はメシアですよ。メシアの働きをしているのです。」と言っているのです。
混乱していたのはヨハネだけではありませんでした。ヨハネは最後までイエスを信じてイエスについて行きましたが、イエスから離れた人はたくさんいました。イエスは自分たちの思っているような王ではないとわかって去って行ったり、イエスを殺そうとした人たちもいました。結局彼らはパンがほしかったのです。パンを与えてくれるならついて行きます。しかしイエスが与えるのはいのちのパンでした。つまりイエスご自身です。それを聞いたとき、人々はイエスを離れました。永遠のいのちはいらないから今日生きるためのパンをくださいと言う人たちでした(ヨハネ6章)。
私たちはある意味で彼らと変わらないと思います。イエスがスーパーヒーローのようにやって来て、今すぐに全ての病いを癒して、全ての敵を倒して救ってほしいという思いがあります。それは悪い思いではありませんが、神様があなたの期待通りに救ってくださることは期待しないでください。スーパーヒーローが一夜にして敵を倒して世界を変えるような、スッキリする映画もありますが、なぜイエスはそうしなかったのでしょうか。その一つの理由は、私たちの問題が一夜で終わるような問題ではないからです。お腹が満たされれば、敵が消えれば、それで解決する問題ではないのです。私たちの罪は私たちの心の中にあります。そして私たちは未熟です。これから成長していかなければなりません。イエスのような者にならなければならないのに、イエスが全部やってしまったら、私たちはいつまでたっても赤ちゃんです。実際に親が、赤ちゃんが歩かないですむように、落としたスプーンを拾わなくてすむようにし続けたら、赤ちゃんはいつまでたっても赤ちゃんです。それでは私たちは御国に入ることはできません。
イエスのような者になるには、私たちも油を注がれて、一人一人がメシアのように王となって、全てをささげて続けてこの地で働かなければならないのです。イエスが代わりにやるのではありません。
⚫️この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。(マタイ11:7)
ヨハネの使いが帰ってから、イエスは続けて、ご自分が何をしようとしているのか、どんなスケールのことなのか、足の不自由な人が歩けるようになって、耳の聞こえない人が聞こえるようになるとはどういうことなのかを話します。
荒野に出て行ったのは、そこにバプテスマのヨハネがいたからです。群衆はバプテスマのヨハネを探しに行きました。
葦はヘロデ・アンティパスのシンボルなので、イエスは「あなたはヘロデのような王を求めて荒野に行ったのですか」と言っています。
⚫️そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。(マタイ11:8)
王のような偉い人を探すなら宮殿にいますが、バプテスマのヨハネはそんなところにはいません。ヨハネは王よりずっと偉いのです。
⚫️そうでなければ何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。(マタイ11:9)
そんなに偉い人を探すのに、あなたがたは宮殿には行かず、わざわざ荒野に行ったのはヨハネが預言者だからです。確かにヨハネは預言者で、王より偉い者です。
⚫️この人こそ、
『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を整える』
と書かれているその人です。
まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。(マタイ11:9~10)
「ヨハネは女から生まれた者の中で一番偉大」これ以上のほめ言葉はありません。だから群衆は彼を求めに行きました。でも「天の御国で一番小さいものでさえ彼より偉大」でした。ヨハネは一番偉大な者のために道を備える者でした。ヨハネは今までの時代の中で一番偉大な者でした。これから新しい時代が来ます。イエスが新しい世界を作るのです。ヨハネはそのために道を備えていたのです。この新しい世界で一番小さい者でも彼より偉大です。イエスはそれだけすごい変化をもたらすのです。ヨハネは「ヘロデ王を倒してください」と頼むかもしれませんが、イエスは「いやいやそんな小さいことはしません」と言うのです。メシアの働きは想像できないほど大きいのです。
私たちは待降節で、これほど偉大な働きをするイエスを待っています。だから忍耐して待つことができます。バプテスマのヨハネより私たちの方が進んだ時代にいます。すでにイエスが働きを始めているからです。だから私たちはなおさら忍耐を持って待つことができるはずです。
世界を見ると、とんでもないことが起きています。
ヘロデは死にましたが、プーチンや習近平は生きています。私たちもヨハネのように彼らに注目するのでしょうか。
もちろんウクライナのために祈っています。戦争はいつ終わるのでしょうか。死んだウクライナ兵の裏にどれだけ悲しむ家族がいるのか、拷問、迫害、虐げなど、その苦しみは想像もできません。
イランで自由を求めて声を上げた女性たちは散弾銃で攻撃され目を狙われました。病院では医者も監視されていて治療をしてくれません。それによって、盲目かほとんど盲目な女性は、知られているだけで一万人もいます。
アドベントでメシアを待つのは苦しいことです。ウィグル自治区の強制収容所では百万人以上のウィグル人が収容されています。体も心も思想も抑圧されて、情報も与えられず、国全体が牢のようです。
これが今、世界にある問題です。
そして、私たちも一人一人自分の問題を抱えています。自分や家族の病気、孤独、誤解、無視、虐待など、神様に対しても、お互いに対しても、文句を言いたくなることもあるでしょう。
【ヤコブ5:7~9】ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。
イエスが帰って来るまでただ待つのではありません。農夫は植物が芽を出すまでじっと畑を見ているということはないでしょう。ヤコブがこの手紙を書いたのは二千年前ですが、人類は戸口で二千年間イエスが来るのをただ待っているのではありませんでした。神様は歴史の途中で何度もさばきを行いました。私たちは待降節のとき、イエスの再臨を待っていますが、それだけではなくイエスが歴史の途中で救いをもたらすことも待っています。イエスは神の右にざして、ローマ帝国をさばきました。イエスが天から支配してヒトラーもさばきました。ソ連もさばきました。だから習近平も平和の君が近いことを学ばなければなりません。
私たちは、イエスを待っている間、安心してイエスを信じて耐え忍んで待ちます。もちろん何もしないで待っているのではありません。救いが来るまで働くのです。働きの一つは祈りです。「主よ、来てください」と祈ります。もう一つは、イエスは盲人も足の不自由な人も癒しました。イエスが天に上った後で、弟子たちや使徒たちが同じことをしていました。つまり教会がイエスの働きを受け継ぐのです。私たちにも癒しを与える使命があります。貧しい人に福音を伝える使命があります。
だから待降節のときに、何もしないで待っているのではなくて、祈って働いて、福音を伝えて、周りの人の傷に気づいてそれを癒すために働きます。
【ヤコブ5:10】兄弟たち。苦難と忍耐については、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
私たちは預言者を模範にします。バプテスマのヨハネは偉大一番偉大な預言者でした。他にモーセも120年間神に仕え、荒野で40年間民を導きました。モーセは荒野で死んだので、約束の地には入りませんでしたが、私たちは彼らが見ていなかったその成就を私たちは見ています。私たちこそ信仰をもって待つことができるはずです。バプテスマのヨハネは牢の中で苦しんで待っていましたが、結局首をはねられました。私たちも首をはねられたとしても信じ続けて神を待ちます。イエスもヨハネの苦しみを感じていました。幼なじみで親しかったから。なのにヨハネを助けなかったのです。イエスにはもっと大事な働きがありました。これがイエスの忍耐を表しています。
神の祝福は、私たちが望む形で来ないことがあります。だから私たちは神の祝福につまずかないようにしなければなりません。
例えば、イエスのたとえ話にあったように、朝から働いた人も昼から働いた人も夕暮れから働いた人も、全員に同じ1デナリを与える主人の話です(マタイ20章)。これは主人の寛大さと恵みを表しています。それを見て朝から働いた人は怒りました。
放蕩息子の兄も、自分が望んでいない形で弟に神の恵みが来たので怒りました(ルカ15章)。兄は弟が赦されて恵まれていることに耐えられなかったのです。
イエスが取税人と時間を過ごし、盲人を癒すという救いを見て、バプテスマのヨハネはつまずきました。
しかしイエスは私たちの想像を超える救いを与えようとしているのです。一番良い方法で、一番良いタイミングで与えようとしておられるので、私たちはイエスを信じ続けて待つ必要があります。だれでもキリストにつまずかない人は幸いです。