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「七つの大罪シリーズ:怠惰」

説教者:ベンゼデク・スミス牧師



私たちは七つの大罪の元凶である傲慢から始めて、これまでに虚栄、ねたみを学びました。

このほかに、色欲、貪食、怒り、強欲、怠惰があります。

今日は「怠惰」です。

日本人に怠惰の話をしても、この文化には適用しない説教だと思われるかもしれません。日本人には怠惰の罪は少ないかもしれないと思う人もいるでしょう。日本人は世界で一番働き者だと言われているからです。

しかし怠惰を本当に理解すると、日本の社会は怠惰だらけであることがわかります。そして私たちもこの罪を犯しています。

怠惰が七つの大罪に入ることについて疑問に思う人がいるかもしれません。怠惰のせいで人が困るでしょうか。どちらかというと悪者が働きすぎて問題を起こしています。悪い人がもう少し怠惰だったらよかったのに、と思うかもしれません。

しかし怠惰はちゃんとした大罪(悪習)です。そして破壊的な力を持っています。作為の罪ではなく、不作為の罪です。やらないことから出る罪もたくさんの害を与えるのです。

【伝道者の書10:18】怠けていると天井が落ち、手をこまねいていると雨漏りがする。

でも今日は聖書からは始めません。なぜなら聖書のたとえを出しても、最初はピンと来ないからです。怠惰を理解するまでは、なぜそれが怠惰なのかわからないと思います。



怠惰があらわになるパターンが二つあります。

七つの大罪の怠惰はラテン語でacediaといいます。これは日本語の怠惰とは違います。これから説明する怠惰はラテン語が何百年もかけて獲得した概念です。だから少しの間、日本語の怠惰の理解を置いておいてください。

怠惰があらわになる一つ目は、怠けることを通して出て来ます。体を動かしたくないという思いから出ます。

【箴言6:6】怠け者よ。蟻のところへ行け。そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。

怠け者よ。いつまで寝ているのか。いつ目を覚まして起き上がるのか。少し眠り、少しまどろみ、少し腕を組んで、横になる。すると、付きまとう者のように貧しさが、武装した者のように乏しさがやって来る。

十戒には怠惰であってはならないとは書かれていません。六日間働きなさいと書かれています。つまり聖書には働かないというオプションはないのです。神様が六日間働いて、私たちに働く模範を与えています。世界も歴史もすべて神様の働きでできています。一つ一つの原子を動かして、銀河のすべてを動かしています。すべてのことがともに働いて、益となるように神様は常に働いています。

しかしよく見ると、私たちはある分野において怠けたりしています。例えば、職場で一生懸命働いても家で怠ける男性はいます。あるいは教会に行くと怠けます。家で、夜も週末も働いている妻を見ても、自分は五日間一生懸命働いて自分の分はやったから、ここは怠けてもいい場所だ、と自分に言い聞かせるかもしれません。怠け者は言い訳がものすごく上手です。少なくとも自分を説得するのは上手です。自分のでたらめな理由は自分にとって都合がよくて、人の話を受け入れません。

【箴言26:13】怠け者は「道に獅子がいる。広場に雄獅子がいる」と言う。

昔のイスラエルはこんなに危ない所だったのでしょうか。いえ、そうではありません。道にも広場にも獅子はいませんでした。でも怠け者はこんなでたらめな理由で自分を正当化するのです。

【箴言26:14~15】戸はちょうつがいで向きを変える。怠け者は寝床の上で。

怠け者は皿に手を伸ばしても、その手を口に持って行くのを面倒がる。

怠け者は、良識ある答えをする七人の者よりも、自分を知恵のある者と思う。

自分を知恵のある者と思うから、怠け者には説得ができないのです。



私たちがよく自分に言う言い訳にはどんなものがありますか。

別の場所で一生懸命働いたから今は働かなくていいや。

他の人たちの方が自分より能力がある。時間がある。若い。やる気がある。だからその人たちがやればいいのではないか。

自分はこれについては上手ではないから手を引こう。

これは自分の責任ではない。

もう間に合っているみたいだから自分が助けなくても大丈夫。



じつはからだを動かしたくないという怠惰には、脳を動かしたくないということも含まれます。脳もからだの一部だからです。

新しいスキルを学びたくないから、今のやり方でいいではないか。

この人の言っていることを理解するのが大変だから無視して気分で決めればいいではないか。

この問題は扱うのが面倒だから何もしないでおこう。そのうち消えてくれるだろう。もしかしたら他の人がどうにかしてくれるかもしれない。

でもこれらが自分の責任分野のときに、問題になります。

確かに自分の責任ではなく、自分の出番でもなければ何もしなくて良いかもしれません。そういう場合は罪悪感をもつこともありません。何においても頑張りすぎると疲れてしまって、結局は責任を果たすことができなくなるので、それもよくないことです。

怠惰とは自分の責任を果たさないことです。



この時点で安心している人もいるでしょう。自分は一生懸命働いているから大丈夫だと思うかもしれません。自分がワーカホリックなら怠惰ではないと思うかもしれません。しかし、からだを動かさないこともワーカホリックもどちらも怠惰から出て来る問題なのです。

なぜなら、もう一つの怠惰のあらわれが忙しさだからです。

どういう忙しさかというと、一つのものに没頭して、すべての力をそこに集中して、他の責任を放置するという問題です。だから働き者の人でも怠惰な部分があるかもしれません。

例えば母親は子育てに100%力を費やしてもいいのでしょうか。夫との関係はどうなるのでしょうか。場合によって子育ては夫婦関係よりもやりがいを感じるので、夫婦関係を忘れて子育てだけに力を入れるかもしれません。

父親が朝早くから夜遅くまで働くのは、家に帰って妻や子の相手をするより楽だからと言う人もいるかもしれません。働けば給料という報いが得られるが、家は混乱していてどうでもいい小さなことばかりで、いろいろな感情に振り回されるかもしれません。家には目に見える進歩がなかなかありません。「だって家は妻の分野でしょう。妻の方が向いていると思うし。」と言って家のことを放置するかもしれません。



日本の社会は、バランスの取れていない人間を作ろうとしているように思います。子どものときはとにかく勉強。受験生は家族、教会、祈りを一時的に忘れて試験勉強に集中して点数を上げることに専念するような誘惑が強いと思います。

教育が終わっても、職場がそのようなアンバランスを要求します。とにかく仕事を最優先させます。

この社会がそうであるなら私たちはそれを意識して、知らずにそれに流されないように気をつけるべきです。



結局私たちはみんな好きな責任と逃れたい責任があります。彼女と付き合っているとき、彼女の精神状態は自分の責任だからそこは力を入れてどんどんデートするかもしれません。新しいプロジェクトがうまくいきそうだから、他のものを放置してプロジェクトに集中するかもしれません。

あなたはどういう責任が苦手ですか。放置して逃げたくなるような責任はありますか。



じつはぼくはまだ怠惰の本質については話していません。今まで話したのは怠惰の二つのよくあるあらわれだけです。

では怠惰の本質とは何なのでしょうか。

怠惰とは、からだや脳を動かさない罪だと思われていますが、じつはその本質は霊的な罪なのです。怠惰の本質とは、自分のたましいに神の善を入れることを拒否することです。つまり、苦しみを通して成長することから逃げることです。十字架の道を歩みたくない。きよさや栄光の長い道のりを歩みたくない。それが怠惰なのです。

あなたの人生で一番の働きは何ですか。それは肉を捨てて新しい霊の人となることです。アダムにある古い人を捨てて、キリストにある新しい人になることです。言い換えれば、本当のキリスト者になることなのです。

【エペソ4:22~24】その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。

これが私たちの働きなのです。このことにおいて怠惰になってはならないのです。

霊的な怠惰にはいろいろな形があります。一つは自分の罪とたたかわないこと。いつまでも未熟で罪深い。これは害を与えます。小さい罪ではありません。

若い時には、成長するのは自然なことだと感じます。普通に生活していれば、背は高くなるし、脳は発達するし、知識が増えて、理解力やも経験も増えていきます。でも脳の発達は25歳で止まります。そのうちに、頑張らないと成長が止まってしまいます。特に霊的に成長したいと思ったら、それを求めなければなりません。そしてそのために働かないと得られないのです。

【マタイ7:7】求めなさい。そうすれば与えられます。

イエスが言われた通りです。

だから葛藤し続けなければならないのです。

葛藤をやめているしるしがあります。大切な関係性において距離をおくことです。

本当に良い、親しい関係を保つのは難しいことです。その関係性の中に罪人が一人でもいれば難しいことです。場合によって距離を保つことは大切なことです。特に関係が悪くなっているときには、自分を守るために距離を置く必要があったりします。

だから常に接近して近くにいて手を伸ばしていなければならないと思わないでください。場合によっては健全な距離感は必要です。

しかし、和解や成長や交わりを求めない距離は怠惰かもしれません。

例えば、結婚は人生の一番の関係性ですが、ある人は結婚を求めても神様がそれを与えないということがあります。一方である人はあえて独身を選びます。独身の方がパウロのように神のためにより大きな働きができるからではなくて、ただ結婚は大変で自分が変わらないといけないとわかっているからです。

子どもがほしいのに神様に与えられない人はいます。結婚して子どもが与えられるのに、あえて求めない人もいます。子どもはめんどくさくて大変だから。実を結ばないのは実は結ぶことより楽だから。自分が愛を与えなければいけない環境に自分を置きたくないから、という理由で子どもを求めない人はいます。これも怠惰です。

結婚している人でも、不健全な距離で満足している人がいます。和解するために一時的に作る距離ではなく、ルームメイトでいるほうが楽だからという理由です。

どの関係性も愛が必要です。人を愛するのは本当に大変な仕事です。毎日一緒にいる人を愛するのは、なおさら大変なことです。



しかし心と力を尽くして神を愛するなら、霊的な怠惰はありえないのです。隣人を自分のように愛するなら怠惰ではいられません。神様は私たちのために至高善を与えようとしています。つまり私たちが神のようになるように導こうとしているのです。

【マタイ5:48】ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

私たちはそれ以下で満足してはいけないのです。一番良いものでないもの、もっと低いもので満足するのが怠惰なのです。霊的な怠惰とは、この善から逃げることです。必要な霊的なたたかい、働き、苦しみから逃げます。最終的に、実を結んで神の御国を建て上げることから逃げます。



では聖書にはどのような怠惰があるでしょうか。

神様が与えた最も良いものを拒否した人、大変な道をあえて選ばなかった人はだれでしょうか。

神様が天国までの道を備えてくださいましたが、その道は登り坂で長いので、楽な道を選んだ人はだれでしょうか。

皆さんはアダムとエバを思い出すかもしれません。ぼくはまず荒野のイスラエルを思い出します。

神様はエジプトに十の災いをもたらして、イスラエルを奴隷の家から連れ出しました。しかしエジプトから出た瞬間に、いろいろな危険が伴う道であると気が付きました。パロの軍隊が追いかけてきて、逃げられないところまで追い詰められてしまいました。

【出エジプト14:11】そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕える方がよかったのだ。」

エジプトにいるのも大変なことでした。からだを動かして働かなければならなかったのですから。

でもこれは霊的な怠惰です。

しかしこの時から一年もたたないうちに、彼らは約束の地に入るところまで来ました。モーセがその地に十二人のスパイを送り込んで、彼らが戻って来たときに、「この地に入るのは大変だよ。」と言いました。

大変なたたかいになることに気づいたら、彼らは次のように反応しました。

【民数記14:2】イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。

場合によっては自殺も逃げ道になります。

【民数記14:3~4】なぜ主は、われわれをこ地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」そして互いに言った。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」

ここでいろいろな罪が見えます。臆病の罪。不信仰。殺意。

そしてこの中に霊的な怠惰も見えます。つまり神様が与えようとしている善を拒否しています。大変だからです。

神様が彼らに与えようとしているのは聖地なので、彼らがきよめなければなりません。彼らは神に一番近い者として特権を与えられています。祭司としてこの場所をきよめて、ここに神殿を建てれば、神は再び人と住むことができます。この素晴らしい働きが最善なのです。イスラエルは愛されてこのために選ばれたのに、拒否しました。そしてエジプトに戻って奴隷になろうとしました。これはからだの怠惰ではありませんでした。



別の例えはコリントの教会です。

【第一コリント3:1~3a】兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉の人だからです。

肉の人であってはいけないのです。私たちは成長して霊の人にならなければいけないのです。

成長しないのは罪です。赤ちゃんは愛らしいが、大人が赤ちゃんのように振る舞うのはまったく愛らしくない。耐えられません。親がわがままだと、ものすごい害なのです。

私たちは歳をとることを止められません。だから成長する責任から逃れることはできません。



他の例えもあります。

タラントを埋めて実を結ばなかった人(マタイ25:14~30)。

花婿が来るのに寝ていた愚かな娘たち。(マタイ25:1~13)



では、私たちはどうすればいいのでしょうか。

自分のすべての責任を把握することです。そして怠っているのがどこなのかに気づかなければなりません。

一番の霊的な責任は神を愛することです。そして祈ること、聖書を読むこと、自分の霊的成長を助ける他の本を読むことなどがすべて必要です。聖書だけ読めばいいと思わないでください。神様は私たちの成長のために本を1冊だけ与えたのではありません。

私たちにとって、学びがないままで成長することは難しいことです。親しい関係なく成長することもできません。家族、友人、自分のコミュニティに属して貢献していなければ成長できないのです。何よりも、イエス・キリストのようになろうとしなければなりません。イエスは肉となって私たちの間に住まわれました。それは私たちの救い主となるためです。楽な道を拒否したのです。悪魔が提供した誘惑に打ち勝って、十字架の道を選んだのです。きよい生涯を送ってから、最終的に十字架で苦しんで死んでよみがえりました。私たちもそのようになるためです。

私たちは新しい人になるように努力しましょう。キリストのからだを表すパンと血を表すぶどう酒で必要な助けを得ましょう。



勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みをいだいて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。 ローマ12:11~12 





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