説教者:ベン・ゼデク牧師
「七つの大罪 憤怒(怒り)」
あなたはよく怒る人ですか。
頻繁に怒る人ですか。
怒ると怒り過ぎる人ですか。
だれかがあなたと話すとき、あなたを怒らせないように気をつけていることに気がついたことがありますか。
これらの質問に「いいえ」と答える人もいるでしょう。たとえそのように答える人でも罪深い怒りを感じたことがあるはずです。
子ども時代を通ってきた人ならだれでもこのような怒りを感じたことがあると思います。
子どもを見ていると、あってはならない怒りが見えます。自分のおもちゃを取られたら相手をひっぱたく。自分の思い通りにいかないと叫ぶ。10ヵ月の赤ちゃんでもこれはあります。
【エペソ4:31】無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神もキリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。
これを読むと、自分へのことばだと思って罪悪を感じるのではないかと思います。怒ってはならないということばは聖書にたくさんあります。
この七つの大罪シリーズの中でも、何度か教会の監督者の話をしていますが、監督者はどういう人であるべきかという話の中で、短気ではない、乱暴ではない、柔和である、争わない、このような人でなければなりません。監督者とはキリストのような人なのです。
怒りは複雑で難しい罪です。なぜなら必ずしも罪ではないからです。虚栄は見つけたら完全に捨てなければならない罪ですし、妬みも怠惰も色欲もすべて見つけたら取り除くべき罪です。しかし怒りには、正しい怒りというものが存在するのです。なにしろ聖書の中で一番怒るのが神様だからです。トマス・アクィナスによると、正しい良い怒りはすべて不正に対する反応だということです。世の中には不正がたくさんありますが、イエスがパリサイ人と話すときに、表情に出なくても憤りを感じていたはずです。イエスは人の心がわかるので、自分の周りにいる人たちがどれほど罪深いかを常に感じていたはずです。
神様が怒る神なら、私たちも怒ってよいのではないでしょうか。
じつは、私たちのうちにある罪深さは、私たちの善をいつも曲げてしまいます。だから怒りを曲げるのもすごく上手です。私たち個人が怒りという罪を犯すだけではなく、社会も怒ったりします。
たとえば、
・億万長者に対する貧困者の怒り。
・白人に対するBlack Lives Matter(アフリカ系アメリカ人に対する警察の残虐行為をきっかけにアメリカで始まった人種差別抗議運動)の怒り。
・女性を抑圧する男性に対するフェミニストの怒り。
・異性愛者に対するLGBTの怒り。
・気候変動を止めない会社や政府に怒る環境活動家の怒り。
このように私たちは、これに対して怒るべきだ、あれに対して怒るべきだ、と言われているのです。
私たちはこの怒りをもって何をするのでしょうか。伝統を破壊するのでしょうか、何かの像を壊すのでしょうか、組織を破壊するのでしょうか。自分の周りにこれほど悪があるなら、確かに私たちは勇気を出して戦うべきですが、今の社会は怒りの対象を間違えることが多いと思います。
精神病が増えたり、うつや孤独が増える中で、怒りも一緒に増えるはずです。
怒りが七つの大罪に入っているのは、イエスの教えによれば、罪をもって怒ることが最終的に殺人につながるからです。
兄弟に怒るとその兄弟に殺意を持っていることになります。
【マタイ5:21~22】昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われているのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法印でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
聖書の中で怒っている悪者には確かに殺意が見えます。
• カイン(創世記4章)
カインは傲慢で、自分は兄だしアベルより優れていると思っていました。ところが、神様がアベルのささげ物に好意をもったのでアベルを殺してしまいます。怒りだけがポンと出て来るのではなくて、他の罪と協力するのです。例えば北イスラエルの王アハブは宮殿の隣にあるナボテのぶどう畑が欲しいと思っていました。彼の罪はねたみから始まっています。そして結局失敗しました。
【第一列王記21:4】アハブは不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に入った。イズレエル人ナボテが彼に「私の先祖のゆずりの地はあなたに譲れません」と言ったからである。アハブは寝台に横になり、顔を背けて食事もしようとしなかった。
まるで小さな子どものような怒り方です。アハブはむさぼってナボテの畑を手に入れようとしましたが、結局手に入らないという無力が彼の怒りに変わったのです。小さい子どもたちも無力だから怒るのです。
怒っている多くのアクティビストも無力を感じているのでしょう。
• ハマン(エステル書)
ハマンの罪は傲慢から始まります。クセルクセス王もハマンを重んじていたので王の家来たちはみなハマンに膝をかがめてひれ伏していました。ところがエステルの叔父モルデカイだけはハマンに膝もかがめずひれ伏そうともしなかったのです。ハマンは自分の方がモルデカイより優れていると思っていたので、怒ってモルデカイを殺そうとしました。完全に傲慢の罪です。これも怒りがいつ罪に変わるかを表す一つのポイントです。相手のやったことは小さいことなのに、自分の怒りは大きい。問題はこのアンバランスなのです。これはよく見られることです。例えば、年齢や地位や立場が上の人が下の人と話しているときにくすっと笑われたりニヤッとされたりするだけで一瞬で激怒することがあります。「何がおもしろいんだ!」と言って怒ったりします。失礼なことをされたと思うのです。「何を言ったかではなく言い方が悪い。」とか、「態度が悪い。」と言って激怒するのです。この場合、自分のエゴが攻撃されて、自分を尊敬してくれないから、自分は尊敬に値しないのかと思ってしまいます。結局その人にとって一番大切なもの(自分のエゴ)を守るために攻撃するのです。
• アブシャロム(第二サムエル13章)
アブシャロムはアムノンがタマルに暴行したので怒りました。当然怒ります。ダビデも怒ったと書いてあります。しかしダビデは何もしませんでした。それでアブシャロムが自分で兄のアムノンをさばくことしたのです。計画に二年かけました。二年の間怒りを表面に出さないとどうなるのかというと、自分の中でどんどん怒りが上って行くのです。一瞬で爆発する怒りもあれば、じわじわと燃え続ける怒りもあります。ずっと長い間、何年にも渡って相手を敵として見ながら、その思いを隠し続けてその人の悪いところを探し続けます。自分の中に上ってきている怒りを正当化するためには、その人が本当に悪者でなければいけない。その人の悪そうなものを全部見つけて、それを全部最悪に解釈して、自分の怒りを正当化して、どうやって罰を与えるかを考えて計画を立てるのです。アブシャロムは自分の兄アムノンを殺すだけではなくて、自分の父ダビデまで殺そうとします。
• エサウ(創世記25章~27章)
エサウは長子の権利を軽く見て、簡単に捨てて、弟ヤコブにあげてしまいました。それなのに長子の祝福がヤコブに与えられると、ヤコブが悪い弟で祝福を自分からだまし取ったと言ってヤコブのせいにしました。しかしこれはエサウ自身のせいなのです。
パリサイ人や祭司長たちも同じような怒りをイエスにもっていました。イエスが正しくて自分たちが悪く見えるから怒っていました。私たちは自分の弱さや罪を直言する人に耐えられないし、それを人前で明らかにされると殺意に変わります。それでパリサイ人や祭司長たちはイエスを悪者にするために裁判にかけようとしました。こっそりと静かに暗殺しないのは、自分たちではなくてイエスの方が悪いことを公に正式に宣言したかったからでした。しかし上手くいきませんでした。イエスが無罪であることははっきり出て来るし、ピラトが見てもイエスが無罪なのははっきりしていました。
パリサイ人や祭司長たちは、とにかくイエスを犯罪者にして十字架で死刑にしたかったのです。イエスがさばかれないならだれが悪かったのでしょうか。もちろんパリサイ人や祭司長たちということになってしまいます。
罪深い怒りは相手を悪者だとみなそうとします。相手が悪ければ悪いほど自分の怒りが正当化されて悪と戦う善人になれるのです。
じつは良い人でも罪深い怒りを感じることがあります。
• モーセ(民数記20章)
モーセは怒って石を叩いたので約束の地に入ることができませんでした。
• ダビデ(第一サムエル25章)
ダビデは怒ってナバルを殺そうとしましたが、アビガエルがそれを止めました。
• 弟子たち(ヨハネ12章)
ラザロの姉(妹)マリアが高価な香油をイエスの足に塗った時に怒りました。
モーセのような、ダビデのような、弟子たちのような善人でも怒りを通して罪を犯すことは簡単にできるのです。
では怒りはどこから来るのでしょうか。
・不正があるように見えた時に怒りを感じます。実際に本当に不正が行われているかもしれませんが、私たちが自分の罪を通して怒っているだけかもしれません。
・自分の大切なものが攻撃されたら怒ります。自分自身、自分のエゴ、自分が愛する者、自分の所有物、自分の価値観が攻撃されると怒って反撃します。罪があれば罰が必要です。どうにかして罰を与えるように働こうとします。
・自分の安全が脅かされたとき。日本人はルールやマナーを大事にしますが、ルールがあると安心します。世の中がルールのお陰で予想ができて安全な場所になります。何をすればいいか理解できるので、ルールが不安や恐怖から守ってくれます。でももしだれかがルールを曲げたり破ったりすると、自分の安心感が攻撃されます。だからルールを破ることに対して怒りが大きかったりします。
・無力を感じた時に怒ります。こうなってほしいのにそうならない。どうしてもそうならない。その時に人は怒ります。
自分の弱さや罪を指摘されたり公けにされた時に、パリサイ人のように怒ります。それで私たちは怒りを使って人をコントロールして、強制的に人を自分に従わせようとします。特に論理的な正しい説得方法がない時にそのようにします。小さい子がよく怒るのは、言葉や論理で相手を説得できないからです。
私たちは、自分の論理が相手より劣っている時、その間違いに気づく直前には怒っているものです。
逆に言うと、だれかに「あなたは間違っていますよ」と指摘するのは怖いことです。何かの会議の中で、正直に言わなかったり、大事なことなのに口から出て来ないことがあります。面倒だから、あるいは戦うのがストレスだから言うのをやめようと思うなら、あなたはもしかしたら人の怒りに左右されているかもしれません。実際に相手は怒っていなくても、怒るかもしれないと思うだけでコントロールされてしまうかもしれません。
【箴言29:22】怒る者は争いを引き起こす。憤る者には多くの背きがある。
では、良い怒りとはどんなものなのでしょうか。
さきほど神様はよく怒るという話をしました。ミサ曲が好きな人であればモーツアルトやヴェルディのDies Irae(怒りの日)を聴いてみてください。すごいです。
神様の怒りは大洪水やエジプトに対する十の災いで見ることもできます。神様こそが怒っているさばき主なのです。
イエスも「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい(マタイ5:39)」と言いながら、神殿で商売をしていた者たちに、細縄でむちを作って羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らしてその台を倒しました(ヨハネ2:15)。
ラザロを復活させる時には怒りと悲しみでイエスは涙を流されました(ヨハネ11:35)。
イエスはさばき主でもあるし戦士でもあります。
【黙示録19:11、15】また、私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。…この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい怒りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。
イエスは恐ろしいお方です。
では私たちはどうすれば良いのでしょうか。
私たちが怒らなくてもいいのは、怒っている神がいてくださるからです。
【ローマ12:19】愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。
私たちが無力を感じてもそれでかまわないのです。そして不正に対してあわてて今すぐさばきを見たいと思う必要もないのです。信仰をもって神のさばきを待つことができるのです。
では私たちは怒りを感じてはいけないのでしょうか。じつは正しい怒り方もあります。神の怒りを感じるのは罪ではありません。
民数記25章のピネハスの話を思い出してください。
イスラエルの民が偶像礼拝と姦淫の罪を犯したので神様は怒りました。しかし、ピネハスが主と会衆の前で異邦人との姦淫の罪を大胆に犯した人をピネハスが刺し殺したので、主の怒りは止みました。
【民数記25:4〜8】主はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえてて、主の前で、白日の下にさらし者にせよ。そうすれば、主の燃える怒りはイスラエルから離れ去る。」そこで、モーセはイスラエルのさばき人たちに言った。「あなたがたは、それぞれ自分の配下でバアル・ペオルとくびきをともにした者たちを殺せ。」
ちょうどそのとき、一人のイスラエル人の男がやって来た。彼は、モーセと、会見の天幕の入り口で泣いているイスラエルの全会衆の目の前で、一人のミディアン人の女を自分の兄弟たちに近づかせた。祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスがそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、槍を手に取り、そのイスラエル人の男の後を追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人の男とその女二人を、腹を刺して殺した。すると、イスラエルの子らへの主の罰が終わった。
このさばきで二万四千人が死にました。ピネハスは神のねたみを自分のねたみにして行動しました。
【民数記25:9〜11】この主の罰で死んだ者は、二万四千人であった。主はモーセに告げられた。「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、私のねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを断ち滅ぼすことはしなかった。
これは特に祭司の行動です。神の天幕を罪から守り、きよさを守ったのです。
【民数記25:12〜13】それゆえ、言え。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは、彼が神のねたみを自分のものとし、イスラエルの子らのために宥めを行ったからである。」
神のねたみをもって神の命令に従って行動したのです。彼が怒って殺意を感じて衝動的に殺したのではありませんでした。私たちは神の怒りをもって実現するべきなのです。
【ローマ13:4】彼(王様)はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には、怒りをもって報います。
上に立つ人は、神の代わりに神の怒りをもっています。神の代わりに人をさばくのは人間の役割なのです。でもこれは必ず神の命令に従って行います。神の命令に従うために私たちは落ち着いていなければなりません。心の中は平安でなければいけません。静かでなければいけません。そうでないと真実を理解することができないし、神の心を聞き取ることができないのです。
【ヤコブ1:19】私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くには早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは、神の義を実現しないのです。
結局、私たちが怒っているとき、ものごとの認識や見方がゆがんでいるのです。なぜなら怒りは真実を曲げて、自分を正当化し、相手を悪く見せるからです。
車にたとえると、正しい怒りは燃料を燃やしてエンジンを動かすかもしれませんが、必ずハンドルとブレーキは自分でつかんでいなければならないのです。それでも私たちにとって神のように怒るのはとても難しいことです。なぜなら神の怒りを一番よく表すのが「怒りの日」だからです。この「怒りの日」はすでに来たし、これから来ます。すでに来た「怒りの日」は聖金曜日のイエスが十字架にかかって死なれた日です。十字架が神の怒りを表しています。とんでもないさばきです。罪に対する死刑が行われました。その死刑を神様ご自身で受けられました。十字架上で、イエスは自分を殺した人を赦す祈りをしていました。
【ルカ23:34】父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかがわかっていないのです。
これが私たちの歩むべき道なのです。イエスのように善人として生きるなら、イエスのように善人として迫害されて、苦しみを受けます。それでもイエスのように赦しを与えなければなりません。
実際に赦しのために祈るとき、彼らの悔い改めによって本当に彼らが赦されることを求めなければなりません。怒っていたヨナのようにさばきを受けるように望んではいけないのです。
一般的に、怒りに対してどうすれば良いか、いろいろなアドバイスがあります。深呼吸、20分タイムアウトする、自分が相手だったらどう思うか(共感)考えてみる、怒っていない人と相談する、このような素晴らしい方法はいろいろあります。是非やってみてください。
でも私たちはクリスチャンとして怒りに対処する方法があります。その一つは真実に目を留めることです。真実に目を留めると自分を正当化できません。相手はそれほど悪くなかったかもしれないし、自分の方が悪かったことに気づくかもしれません。たとえ自分の方が悪かったとしても真実に目を留めることは大切です。
そしてもう一つは神様が支配してくださっていることを覚えることです。だから焦る必要はありません。兄弟を赦し、和解を求めてください。そして相手が兄弟でないなら神様の怒りに委ねます。
怒りは悪習となります。だからあちこちからたまってきた怒りをどこかにぶつけてしまいます。一番ぶつけやすいのは弱者です。だから弱者が一番被害を受けるのです。しかし私たちは怒りではなく平和を習慣にしなければいけません。
あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。ローマ12:14~21
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