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「三位一体主日の祝福」ピリピ1:27

説教者:ラルフ・スミス牧師



ピリピ1:27

ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っている。

キリスト教の暦では、今日は三位一体主日で、特別な日曜日である。先週は聖霊降臨日(ペンテコステ)であった。

キリスト教の一年は待降節(クリスマスの四週間前の日曜日)から始まる。そして待降節から聖霊降臨日までと、三位一体主日から次の待降節までの二つに分かれている。

2023年の待降節は12月3日から始まる。この日から四週間はイエス様が受肉してくださったことを覚え、心の準備をして三位一体の神を記念して過ごし、降誕日(クリスマス)を迎える。そしてイエス様が十字架にかかった聖金曜日を覚える日があり、その次の日曜日が復活祭である。先週は聖霊降臨日だった。イエス様が聖霊を教会に送ってくださったことを記念する日である。待降節から聖霊降臨日までは、イエス様が私たちに何をしてくださったかを覚える季節になっている。礼拝で朗読する箇所もこの暦に沿ったものとなっている。

三位一体主日から次の待降節までには特別な名前のある日はないが、特にクリスチャンとしてどのように歩むべきかを覚えて、聖書から考えたりする季節になる。



聖霊降臨主日(ペンテコステ)の翌週が三位一体主日であるが、それはなぜか。

御霊が与えられたときに、弟子たちは初めて、明白に、深く、神様が三位一体であることを理解することができたからである。旧約聖書にも三位一体のヒントはあるが、神様が唯一のお方であることを強調していたので三位一体についての明白な教えはなかった。

イエス様が受肉したときも、弟子たちはイエス様が神の永遠の御子であることを理解していなかった。

イエス様が復活したとき、最初に女性たちに現れたので、彼女たちが弟子たちにイエス様の復活の証言をしたのだが、弟子たちは最初は信じることができなかった。それでイエス様が弟子たちみんなにご自分を現したのだが、弟子たちはイエス様の幽霊を見たと思って怖くなってしまった。だからイエス様は弟子たちと一緒に食べたり飲んだりして、ご自分の復活を繰り返し証明しなければならなかった。

イエス様が最初に弟子たちの前に現れたとき、トマスは一緒にいなかったので復活したイエス様に会えなかった。だからトマスはイエス様の復活を信じることができず、「実際にイエス様の手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じない(ヨハネ20:25)。」と言った。

その八日後に、復活したイエス様が再び弟子たちの前に現れて、今度はトマスもそこにいた。イエス様はトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなくて、信じる者になりなさい。(ヨハネ20:27)」と言ってくださった。トマスはイエス様に答えて「私の主、私の神よ(ヨハネ20:28)。」と告白した。新約聖書で初めてイエス様を神と告白したのがトマスであった。

イエス様が復活した後で、弟子たちはイエス様がメシアであることと神の永遠の子であることを明白に理解し始めた。

御父なる神と御子なるイエス様が明白となった。



ヨハネ13章から17章はイエス様が十字架に行く前に弟子たちと話す場面である。その中でイエス様は御霊の話をたくさんしてくださったのだが弟子たちにはピンとこなかったかもしれない。でもペンテコステの日にイエス様が預言した通りに御霊が与えられ、御霊が弟子たちに教えを与えて導いてくださり、すべてを理解できるように助けてくださった。聖書には三位一体という表現はないが、弟子たちは、御父、御子、御霊なる神様が唯一の神であることを理解できるようになった。

その何か月か後に、アナニアとサッピラの事件のときに、ペテロはアナニアをこのように叱っている。

【使徒の働き5:3、4b】アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。…あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。

神様は、御父、御子、御霊の神様で、存在は一つ、人格(位格)は三つという神様であることを弟子たちが理解するようになった。

だからペンテコステの次の日曜日は三位一体主日となっているのである。



三位一体主日にバプテスマを行うことに深い意味、深い祝福がある。

私たちは、イエス様のバプテスマの模範にしたがってバプテスマを受ける。イエス様は私たちの代表としてバプテスマを受けた。

【マタイ3:13~15】そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。しかしヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」

しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われた通りにした。

イエス様には罪はないので、罪を洗いきよめるバプテスマを受ける必要はなかった。しかし私たちの代表として、私たちの罪のためにイエス様がバプテスマを受けてくださったので、私たちもバプテスマによって罪が洗いきよめられた。

そして御霊が鳩のようにイエス様の上に降った。

【マタイ3:16】イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ。天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。

イエス様がバプテスマを受けたときに、天から御父の宣言があった。

【マタイ3:17】そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

イエス様のバプテスマは、御父、御子、御霊なる神様が一緒に働いている特別な箇所である。

バプテスマのときに、三位一体の神様を明白に見ることができる。



今日はイエス様の御名によって優杏くんがバプテスマを受ける。バプテスマによって御霊が与えられ、優杏くんが神の子であることを天の父が宣言してくださる。三位一体主日にバプテスマを行うことはその意味で特別な祝福である。



バプテスマのとき、御父、御子、御霊の名によってバプテスマを授ける、という言い方をする。名前は三つあるかのように聞こえるかもしれないが、ギリシャ語ではこの「名」といううことばは単数形である。つまり三つの名前ではなくて、唯一絶対なる神様の一つの名前なのである。人格(位格)は三つで、互いに話し合い、交わりをもち、愛し合うが、存在において一つ、実態において一つである。

存在が一つで人格が三つというのは私たちには理解しにくい、というより私たちの理解を完全に超えている。

三位一体主日に朗読したのは天地創造の場面であった。(創世記1:1~2:4a)

地には何もなく、ただ御霊が水の上を動いていたが、御父が宣言してみことばを語ってみことばなるイエス様とともに世界を創造された。初めははっきりしないかもしれないが、三位一体なる神様を知ったあとで創世記の創造のストーリーを読むと、この箇所に三位一体の神の現れがあることがわかる。



三位一体なる神様を中心にして、記念して、覚える日曜日にバプテスマを授ける特別な祝福にあずかることを感謝する。

私たちは三位一体なる神様を礼拝し、御父の栄光のために御霊の力によってイエス様に従い、クリスチャンとして歩むことを励まされる日曜日である。





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