説教者:ラルフ・スミス牧師
コロサイ3:1〜4
こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるもの思ってはなりません。あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。
コロサイの手紙は昔から何回も学んでいて、教会でも教えたことがあるが、今回の学びで一番新鮮に感じたのは、軟禁されていたパウロがどのような状態だったかということだ。以前に学んだ時よりも心に入ってくる。パウロと一緒にいる同労者、愛する兄弟たちとパウロのことを、前よりももっと考えることができるようになっている。
パウロとテモテは一緒に伝道の旅をした。パウロはテモテのことを「私が愛する、主にあって忠実な子(第一コリント4:17)」と呼ぶ。軟禁された状態でこの二人が一緒にいるのは特別なことだと思う。
ルカもパウロと一緒にエペソ以外のところに伝道旅行に行った。パウロはカイサリアに二年間軟禁され、ローマでも二年間軟禁されているが、その間ルカはずっと一緒だった。医者であるルカ、パウロの愛する兄弟ルカ、福音書を書いたルカである。
マルコも一緒にいる。パウロとバルナバが一緒に伝道旅行をしたとき、マルコもついて行った。しかしマルコは途中でやめてしまってエルサレムに戻ってきた。二度目の伝道旅行でも、バルナバがマルコをいっしょに連れて行こうとしたが、パウロはそれを許さず、二人の旅の考え方がどうしても合わなかったので、バルナバとマルコがいっしょに旅に行き、パウロはシラスとともに別の旅に出た。その後、使徒の働きの中からバルナバの名前は消えてしまって、すべてのストーリーでパウロが中心になった。
これでマルコとパウロの関係も切れたかのように見えたが、コロサイの手紙から、マルコがパウロと一緒にいることがわかる。テモテへの手紙の中でもパウロがマルコについて書いている。
【第二テモテ4:11】マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。
伝道旅行でマルコが離れたときからコロサイの手紙を書くまではだいたい十年ぐらい経っている。マルコはバルナバと一緒に伝道の旅をして、忠実に神のために働くことを十分にはっきりと証明し、パウロもそれを認めて受け入れたのだと思う。マルコはローマのパウロのところを訪ねて一緒に交わりをもっている。この時までにマルコの福音書も書かれている。一緒に伝道して、親しい友にもなっているルカとテモテと、和解できたマルコ、その他にパウロも含めて数えると全部で十人ぐらいの人が一緒にいる。それに加えてローマの教会の人も訪ねて来ているので、何人が一緒にいるのかわからない。新宿のホテルにパウロ、ルカ、マルコ、テモテが一緒にいたら、訪ねて行く人は長い行列になるだろう。
ローマでのパウロは、みんなでイエス様のことについて話したり、コロサイの教会を始めたエパフラスのような若いクリスチャンたちにイエス様のことを教えたり、エパフラスから教会の問題を聞いたり、ほかの兄弟から教会の報告を聞いたりして、みんなで交わりをもって御国を一緒に考える心をもって、実を結ぶ軟禁状態だった。これが今回深く感じたところの一つである。
⚫️こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるもの思ってはなりません。(3:1~2)
・求めなさい
上にあるものを求めなさいというのは抽象的な話ではなく、「そこにはキリストがおられる。神の右の座に着いている。」というのが文字通りの訳。キリストご自身と神の御国を求めなさいという意味になる。これは明らかにイエス様の教えに基づいている。
【マタイ6:33】まず神の国と神の義を求めなさい。
上にあるものを「求めなさい」という言葉は、このマタイの「求めなさい」と同じ言葉である。
求めなさいという動詞は新約聖書にほとんど出てこないが、ほかにあと一つ出て来るところはマタイの7章である。
【マタイ7:7】求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
不思議なのだが、この中の「探しなさい」が同じ言葉である。そして「探す者は見出す」という約束も与えられている。この言葉をマタイでは神の国と神の義を「求めなさい」と翻訳している。
イエス様は、求めなさい、探しなさい、たたきなさい、と命令して、約束も与えて下さった。この命令の言葉は現在進行形である。
・思いなさい
パウロはさらに説明して3:2で「上にあるものを思いなさい」と言う。上にあるもののことを繰り返し強調する。この「思いなさい」というのも現在進行形である。常に思う、つまり、生きている限り朝から晩まで常に思いなさいという命令である。
この「思いなさい」という動詞は新約聖書の中で32回出て来るがそのうち29回はパウロの手紙の中で使われている。場合によっては「考えなさい」と翻訳される。新共同訳では「心に留めなさい」という訳になっている。つまり「思う」というのは軽い言葉ではなく、決心して心を決めてこのことを思い考えなさいという命令なのである。
32回のうち29回はパウロの手紙の中にあるのなら、それ以外はどこに出て来るのだろう。
マタイに1回とマルコに1回出て来る。それも同じストーリーの中で使われている。
【マタイ16:23】しかしイエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている。」
イエス様の十字架の話をペテロがいさめたので、イエス様が叱ったときの言葉である。
ペテロは神のことを思わなかったと言われたが、パウロはそれを逆にして、肯定して、神のことを思いなさいと言う。異邦人は、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言うが、そうではなくて、上のもの、神の御国を第一に求めなさい、とパウロは言う。そうすれば他のものはすべて与えられる。
⚫️あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。(3:3~4)
パウロは当然イエス様のことを考えている。イエス様はよみがえって神の右の座に着いた。神の王国はイエス様の昇天から始まっている。パウロはイエス様のことを思い、イエス様の教えを覚えて、マルコ、ルカ、テモテと一緒にイエス様のことを思い出して話している。コロサイの教会に影響を与えようとしている悪い教師は、この世のことしか考えていない。上にあるものを求めていない。イエス様が復活して神の右の座に着いたので、私たちも御国を第一に求める者としてイエス様とともによみがえらされた。
この3節は日本語の聖書には出てこないが、「なぜなら」で始まっている。求めるための土台を3節と4節で書いていると思う。過去、現在、未来のことを話している。
・過去
私たちはすでに死んでいる。コロサイの手紙の中に二回ぐらい出てきたが、バプテスマを受けてキリストとともに死んでよみがえったことを非常に強調する。アダムにある古い自分は死に、新しい名前、新しい自分が生きている。神の御前に新しいものとされた。この世に対して、下にあるものに対して死んでいる。これが私たちの過去である。
・現在
私たちのいのちはキリストとともに神のうちに隠されている。キリストとともによみがえったので、今キリストとともにいる。キリストとともに死んだのはバプテスマによって一回限りのことだとも言えるし、別の観点から見ると、毎週自分の罪に対して死んで聖餐式のたびに新しい自分になるとも言える。決定的にイエス様とともに死んで、今の自分の現在地は霊的に契約によってキリストとともにいる。
【エペソ2:6】神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
私たちはよみがえってキリストとともにすわっているとパウロは言う。
私たちはキリストとともによみがえった時から、神のご計画、神の契約の恵みにおいて、常にイエス様とともに座っている。
ところが私たちのいのちはキリストとともに神のうちに隠されている。つまり私たちの周りの人が私たちを見ても、私たちのいのちがキリストとともにあることは見えないのである。
隠されているというもう一つの意味は、よみがえって今キリストとともにいる。毎週の礼拝の中で「心を神に」というところで、私たちは天に昇ってキリストとともにすわって礼拝している。
・未来
キリストともに栄光のうちに現れる。
【ピリピ1:21】私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。しかし肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私にはわかりません。
クリスチャンとしてキリストとともに死んでよみがえる。今、私たちのいのちはキリストのうちに隠されている。わたしたちにとって、生きることはキリスト、キリストが私たちのいのち。このキリストが現れるとき、私たちも栄光のうちに現れる。
パウロは他の聖書の著者よりも予定論をよく話している。神が歴史全体を導いて、計画を立てて、神の計画のとおりにすべて動いていることを強調している。予定論というのは、未来が決まっているということである。そのことを一番よく説明するのはローマ8章である。
【ローマ8:28~29】神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神はあらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。
なぜ私たちは益となることを知っているのか。神様はすべてのものを引っ張って、その未来になるように導いてくださっているからである。ある意味で、現在は過去の結果であるという言い方は確かにできる。しかしこのようにも言える。未来は現在を通して流れて過去になっていく。未来の方が先にあって、未来の方が決まっている。今、神様が全てのことを働かせて、私たちがキリストと同じ姿になって、キリストとともに栄光のうちに現れるように導いている。神様が歴史全体を導いている。
私たちは過去においてバプテスマによってキリストとともに死に、現在はキリストとともにいて、未来はキリストとともに栄光のうちに現れる。だから上にあるものを求めなさい、思いなさいとパウロは言う。
ここに危険性が一つある。未来は神の御計画の中でもう決まっているので、私は大丈夫だ。だいじょうぶ教。
しかし何もしなくても何も気にしなくても良いと考えるのは間違っている。パウロはキリストととともによみがえったので、実を結ぶように生きて上にあるものを求めなければならない。未来が決まっていることを教えるのは、私たちがそのことによって励まされて実を結ぶためである。
教会の歴史の中で、未来に私たちが栄光のうちにキリストとともに現れることを一番強調する人、未来に決まっている恵みを一番強調する人は、迫害を受けて苦しんでいる人々である。この迫害も神の御計画の中に含まれる。中国の教会はイエス様の再臨を強調して、自分たちが必ず救い出されることを信じている。キリストとともに栄光のうちに現れる。これが苦しみの中にある人の励ましになる。
【第一コリント13:13】こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
今日話したのは、信仰がなければ信じられないことである。私たちはキリストとともに死んだように見えない。肉眼で見えることにだけに従って生きるなら、私たちがキリストとともに死んだことはわからない。キリストとともによみがえって、キリストとともに天にいることを信じるのも信仰である。すべて御言葉で教えられていることを信じて生きる。御言葉は受肉した神であり生きている。この御言葉を信じるのが信仰である。だから希望があるのだ。
私たちはキリストとともに栄光のうちにいる。神のご計画に従った約束を希望をもって待ち望んで生きる。
パウロが一番強調しているのは愛である。信仰、希望、愛の関係は何か。ヨハネがヒントを与えてくれる。
【第一ヨハネ3:2〜3】愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。
ローマ8:28〜29と同じことを言っている。
愛は清さそのもの。手紙の中で強調しているのは、本当にイエス様に希望をもって未来に心を留めて歩むなら、自分を清くするということである。大丈夫だという思いにはならない。未来に現れるイエス様を待ち望む。その希望が私たちを清くする。本物の希望をもっているなら、私たちに愛を生み出す。信仰、希望、愛によって私たちは清められる。パウロはこのような励ましの言葉を与えてくれる。私たちはイエス様が再臨するまでこの食事を一緒にする。この食事は希望の食事、神の約束を信じる食事、そして私たちの愛を励ます食事であることを覚えて一緒に聖餐式を受ける。
Comments