説教者:ラルフ・スミス牧師
コロサイ3:1〜3
こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座についておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。
パウロは上にあるものを求めなさいという。これがどういう意味なのか考えてみる。
「上を向いて歩こう」という意味ではない。
上にあるものを求めるというとき、パウロはまず自己認識のことを話してくれた。
私たちはキリストとともによみがえった。だからパウロは一人一人がクリスチャンとして、自分がどういう者であるのかはっきり認識をした上で求めるように話している。
次にパウロは主イエス・キリストが神の右の座についていると言う。つまり御国を認識して求めるように話している。新約聖書の中で、主イエス・キリストが神の右の座についている、というのは一番強調されている福音のメッセージだと言ってもおかしくない。それを深く認識して理解して求めるように、パウロは私たちを励ましている。
それで、パウロは、私たちが上にあるものを求める心を持って歩むように話している。
●あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。(3:1)
パウロはそのことについてすでに、二回もコロサイで話している。
「バプテスマにおいてあなたがたはキリストとともに葬られ、キリストとともによみがえらされた(2:12)」
「もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、(2:20)」
キリストとともに死んでキリストとともによみがえられたとパウロが繰り返し話すとき、ローマ書のバプテスマの話を思い出す。
【ローマ6:4〜5】私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
バプテスマを受けた者は、キリストとともに死んでキリストとともによみがえる。バプテスマを受けることは、アダムにある古い自分が十字架上で死ぬことである。そしてキリストにある新しい自分となる。
【第二コリント5:17】だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
自分はクリスチャンである。パウロはクリスチャンであることの意味は何なのかを深く認識して生きるように話している。
毎週の日曜日の礼拝は、自己認識をもう一度持つために、そしてそれを深めるために与えられている礼拝でもある。
私たちは礼拝の初めに罪を告白する。アダムにある古い自分を捨てて、それを後にするためだ。
そしてイエス様を信じる信仰をいっしょに告白する。私はクリスチャンであるという信仰に立って生きるためだ。その心を毎週あらたにする。
そして聖餐をいただくことは、イエス様が私たちの罪のために死んでよみがえってくださったことを記念して、イエス様に従って生きる心をあらたにするためだ。
毎週の礼拝は、自分がクリスチャンであること、イエス様を信じてイエス様に従って生きる心をあらたにすること、そして自己認識を再確認するための時間でもある。それが一週間の最初の一歩である。礼拝の中でもう一度認識しても、礼拝が終わったらそれを忘れるのではない。一週間の始まりの日に礼拝をしてイエス様に従って生きる心をあらたにするのである。
●そこでは、キリストが神の右の座についておられます。(3:2)
イエス様が神の右の座に着いていると言うとき、パウロは詩編110篇を指している。
【詩篇110:1】主は、私の主に言われた。「あなたは 私の右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」
これを先ほど「御国を認識する」という言い方をした。御父から御子への預言のことばである。新約聖書の中で一番よく引用されているのは詩篇110篇の1節と4節(主は誓われた。思い直されることはない。「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」)である。
イエス様が神の右の座に着いているというこの詩篇のことばがイエス様において成就した。そしてそのイエス様が私たちのためにとりなしていてくださる。使徒の働き2章のペンテコステの日に、ペテロがユダヤ人たちに福音の宣言をした。
【使徒の働き2:34〜36】ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。
『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。』
ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。
ペテロも詩篇110:1を引用している。ユダヤ人たちがイエス様を十字架にかけたのは神の御計画の中にあることだった。神様がイエス様を主ともキリストともした。イエス様がよみがえられたのでなければ、十字架に意味はない。よみがえられて天に上って神の右の座にすわっている。これが福音の宣言なのである。
福音は良い知らせである。イエス様は主でありキリストであり、天においても地においても一切の権威が与えられている。これが福音である。
終末論として考えるなら、前説の人は、福音は伝えるがキリストが再臨するまで待っているかのようになる。彼らにとっては再臨のときから御国が始まることになる。
無説の場合は、御国は天の話で、この世の話ではないということになっている。
しかしイエス様はマタイ28章でこのように言う。
【マタイ28:18】イエスは近づいてきて、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においてもすべての権威が与えられています。…」
イエス様は昇天して神の右の座にすわった。すでに王としてすべての権威を持っていることを私たちは告白する。イエス様は二千年前に王になった。だから、再臨してからではなく、この世の話で、イエス様の御国は二千年前から始まっている。中世紀のヨーロッパでは実際の生活においてイエス様が主であることを十分に現していないことは事実であるが、中世期の条約や国の正式な文章などはイエス様が主であることは何かの意味で出てくる。イエス様を主と認めるがゆえに条約を持ったり政治的な宣言をしたりする。
AD(AnnoDomini)は「キリストにある年」という意味だが、西洋では西暦において「キリストが主である」ということをADを使うことによって告白している。アメリカではキリストが主であることを政治基準において告白していないし、アメリカの大学ではADやBC(Before Christ)を使ってイエス様がカレンダーの中心であると伝えることをやめた。
今はBCE(Before Common Era 紀元前)、CE(Common Era 紀元)を使っている。
しかしキリストがカレンダーの中心で、私たちはキリストが主となってから二千年たっているというカレンダーを持っている。イエス様が神の右の座にすわってすべてを支配して歴史を導いてくださっていることを告白する。イエス様は主であるという認識を毎週の礼拝においてあらたににする。
毎週の礼拝においてその認識を新たにする必要があるのはなぜか。
これは、毎日息を吸い、水を飲み、ご飯を食べるのはなぜかという質問と同じである。昨日食べたから、今日は食べなくてよいということはない。繰り返し息を吸い、水を飲み、食べる。それであらたにされる。それと同じように毎週の礼拝が与えられて、「私はクリスチャンです。私はキリストとともに死んでよみがえりました。キリストが私の主です。」という心をあらたにする。
すべての権威がイエス様にあることを思い出して聖餐をいただくときに、このイエス様の御国を求める者として生きる。
それが心の食事であり、心の励ましの御言葉である。
パウロが上にあるものを求めなさいと言うのは、そこにキリストがおられるからである。天にある抽象的なものを求めるのではなく、天にはイエス様がおられるのだ。天にあるものを求めるのは、イエス様ご自身を求めること、つまり御国を求めることである。
パウロが上にあるものを求めるように話し、上の天にはキリストが神の右の座に着いていることを話す。
皆さんは不思議に感じるかもしれないが「求めなさい」という動詞は、パウロの手紙の中で命令形で二回しか使われていない。イエス様の教えの中にもなかなか出てこない言葉である。
パウロがローマで軟禁されていた頃、AD60年から二年間鎖で繋がれて、ローマの兵は四時間から八時間で交代する。パウロと一緒にいる友人のリストは4章にあるが、エペソ書とコロサイ書を読むと十人ぐらいは一緒にいる。その中にマルコとルカがいる。この人たちは一緒に食事をしてイエス様のことを話しただろう。パウロはマタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書に書かれている内容を全て知っているし、考えている。この十人の人々と一緒に交わりを持つ時、イエス様のことを話している。
「求めなさい」という動詞は目立つところである。神の御国とその義を第一に求めなさいとイエス様が話してくださった。「第一に求めなさい」というのは、他のものよりはるかに大切でこれが一番だということである。神の国とその義を求めることをパウロたちは考えたりしていたと思う。パウロが上にあるものを求めなさいというとき、王座に着いているキリストご自身を求めることであると先ほど言ったが、それはつまり御国を求めなさいということ。具体的に毎日の生活の中で神の右の座に着いておられるイエス様の御国を第一に求める。礼拝において、私はクリスチャンであるという自己認識をあらたにして、イエス様が神の右の座について支配しておられることを認識して、私たちがどう生きるべきかを考える。それが神の御国を第一に求めることである。
すべてのクリスチャンに対してイエス様が命令している。天においても地においてもイエス様に一切の権威が与えられている。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。(マタイ28:19a)
とイエス様は言う。つまり福音を伝えること。福音を伝えることは特に私たちに与えられている使命だと思う。なぜならほとんどの日本人はイエス様を知らないから。クリスチャンの割合も人数も非常に少ない。神の御国はまだ日本には現れていない。だから福音を伝える機会を熱心に求める。そして福音を伝える生き方をする。だから上にあるものを求めなさい。
19世紀のクリスチャンで、イエス様は主であると熱心に告白するアブラハム・カイパーというオランダ人がいた。彼はイエス様が主であるなら全てにおいて主であると告白して、オランダの市長にもなり、大学も設立し、本も何冊も執筆した。全てにおいてイエス様は主であると告白してそれを広めるために大きな働きをした。
私たちの時代の日本で、彼と同じような働きをするのは難しいと思うが、クリスチャンとして歩んで御国を祈り求め、証する機会を求める。一人一人に対する働きと同じように、一つ一つの家庭にも使命が与えられている。夫と妻がクリスチャンらしく歩むこと自体が証であるし、子どもたちを御国のために育てる心を持って、御言葉を熱心に教えることも証になる。次の世代が私たちより成長して、もっとクリスチャンらしく歩むように私たちに使命が与えられている。代々キリストにあって成長するように求めることは、御国を具体的に求める働きの中に含まれる。地域教会として成長して、次の世代、その次の世代がキリストにあって成長して、御国のために実を結ぶ者になるように育てる義務と使命と望みが与えられている。
御国を第一に求めなさいとイエス様が教えて下さったが、「求めなさい」という命令形の動詞は、イエス様の教えの中でほかに一回しか使われていない。私たちの教会の年間の聖句である。
【マタイ7:7】求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
イエス様の約束の言葉である。求める者が受け、探す者が見出し、たたく者が開かれる。それをイエス様が約束してくださった。私たちが本当に求めるように、探すように、たたくように、イエス様が励ましてくださった。これは祈りの話だけではない。祈りから始まって、毎日の生活においても、探し、求め、たたく。それでイエス様は私たちを大切にしてくださり、覚えてくださり、答えて下さる。
その約束を覚えて、一緒に聖餐式をいただく。
キリストを主としてあがめる心を、礼拝の時だけではなく、毎日の生活において主なるイエス様を仰ぎ見て歩むように心をあらたにしたいと思う。
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