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「主にある信仰」創世記15:1〜6

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


創世記15:1〜6

これらの出来事の後、神のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」

アブラムは言った。「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私にくださらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの後を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの後を継がなければならない。そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さぁ、店を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。



ヘブル11:1〜3、8〜16

さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。



ルカ12:32〜40

小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。

自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。

あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。

腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。

主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。

帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。

主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、そのようにしているのを見てもらえるなら、そのしもべたちは幸いです。

このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、泥棒の来る時間を知っていたら、自分の家に押し入るのを許さないでしょう。

あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。」



詩篇33:12〜22

幸いなことよ。主を自らの神とする国は。神がご自分のゆずりとして選ばれた民は。

主は 天から目を注ぎ 人の子らをすべてご覧になる。

御座が据えられた所から 地に住むすべての者に目を留められる。

主は 一人ひとりの心を形造り わざのすべてを読み取る方。

王は 軍勢の大きさでは救われない。勇者は 力の大きさでは救い出されない。

軍馬も勝利の頼みにはならず. 軍勢の大きさも救いにはならない。

見よ 主の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に。

彼らのたましいを死から救い出し 飢饉のときにも 彼らを生かし続けるために。

私たちのたましいは主を待ち望む。主は私たちの助け 私たちの盾。

まことに 私たちの心は主を喜び 私たちは聖なる御名に拠り頼む。

主よ あなたの恵みが私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望むときに。


今日の四つの箇所に共通するテーマは、「主にある信仰」です。

ヘブル書の箇所を見るとそれがわかります。

【ヘブル11:3】信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。

なぜ主にある信仰について考えるときに創造から始まるのかというと、信仰は創造を信じるところから始まるからです。私たちはニケア信条で天地の創造主なる神を告白します。実際に神は無からすべてを創造しました。神はすべてのものの起源です。神だけが永遠です。それが大事なキリスト教の信仰です。

古代の異教徒たちは、物質の世界が永遠に存在するかのような考え方をもっていました。目に見えるものは目に見えるものによってできている、という考え方でした。最近まで無神論者も同じように考えていました。最初に進化論が出てきたとき、その進化論を信じた人も、無神論で進化論を信じた人も、すべての起源はどこから始まっていたのかを説明できなくて、物質はずっとそこにあったと考えるのが普通でした。1927年にジョルジュ・ルメートルというカトリックの神父が、その考え方に反対するためにビックバンの説を考えました。進化論者や無神論者は、このビッグバンの説によって全ての起源を説明することができると思いました。しかし実際には何の説明にもならず、ビッグバンはどこからきたのか、その前はどうだったのか、それは全く説明できていないのです。

しかし私たちは信仰によって、神だけが永遠のお方であると信じています。そして神がことばをもって語り、それによって世界が存在したことを信じます。何もないところで神が語って光ができました。実際に私たちの信仰は命題を信じるのではありません。何か抽象的な「この真実を信じる」というようなものではなく、私たちが信じているのは、先ほどもニケア信条で告白したように、唯一の全能の神、御子であるキリスト、聖霊なる神です。この御父、御子、御霊の神が私たちの信仰の対象です。この神がことばをもって世界を創造しました。神のことばには事実を作り出す力があるのです。それを信じている私たちは、神の約束をどう思っているでしょうか。神が何かを約束したなら、そのことばそのものに約束を実現する力があります。だから神のことばは失敗することはあり得ません。それによって私たちは神に絶対的な信仰をもつことができるのです。

【創世記1:20、22】神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥は池の上、天の大空を飛べ。」

神はそれらを祝福して、「生めよ、増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」と仰せられた。

神が命じると、海に生き物がいっぱいになりました。そこで私たちは驚くべきですが、神が命じるなら当然そうなります。それなら神のどの命令も当然そのことば通りになるはずです。太陽、月、星を作って私たちに光と昼と夜、日と年を与え、海も風も神の言うことを聞きます。海も陸もできて生き物でいっぱいです。

【詩篇33:6〜7】主のことばによって 天は造られた。天の万象もすべて 御口の息吹によって。主は海の水をせき止めて集め 湧き出る水を倉に納められる。全地よ 主を恐れよ。すべて世界に住む者よ 主の御前におののけ。主が仰せられると そのようになり 主が命じられると それは立つ。

神が口で語ればそうなるのです。

では神は人間には何を語ったのでしょうか。

【創世記1:28】生めよ、増えよ、地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、池の上を這うすべての生き物を支配せよ。

神は人間にこのように仰せられました。神の命令、救いの約束は果たされるのでしょうか。

【イザヤ55:10〜11】雨や雪は天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。

創造主なる神のことばにはこのような力があるということなのです。

【創世記3:15】わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、お前は彼のかかとを打つ。

罪を犯したばかりのアダムとエバに、神が語った約束です。神はエバに子孫を与えると約束しました。そのエバの子孫は蛇に打ち勝って、罪と死ののろいをひっくり返すと言いました。この約束を受けたエバにカインが生まれた時、エバはカインが約束の成就だと思ったのですが、カインは弟アベルを殺して蛇の子孫であることが明らかになりました。エバの心はどれほど悲しみ落胆したでしょう。

アブラハムとサラには子どもがいませんでした。アブラハムの子孫は天の星のようになるという神の約束があったのに、サラは不妊の女でした。お互いが歳をとっていくのを見て落胆したかもしれません。そして生まれた子は一人だけ。約束の地も受けずに在留異国人として死にました。

その何千年か後にマリアが約束の子を生みました。弟子たちは神の国が来ることを期待してイエスについて行きました。もうすぐイスラエル全体がイエスに膝をかがめると思っていました。しかし彼らの目の前でイエスは逮捕され十字架にかけられてしまいました。弟子たちは絶望しました。

すべての世代、すべての信者にこの問いは問われているのです。「神は約束を守るお方なのでしょうか。」

自分の人生を振り返ったときにどうですか。神はあなたに対する約束を守っていますか。自分の労苦は実を結んでいるでしょうか。自分に結婚と子どもが与えられているでしょうか。多くの子孫をあたえられているでしょうか。自分の愛する者たちは主を信じているでしょか。自分の子どもたちは女の子孫でしょうか、蛇の子孫でしょうか。自分に約束された平和、喜び、非常に大きな報いを自分の目で見ていますか

ある教師たちはそれを約束します。あなたは必ずこの人生で幸せになって金持ちになると約束します。統一教会では、絶対に結婚相手を見つけてあげて、幸せな家庭を築くことを保証します。それがなければ祝福も、実を結ぶこともないと言います。なぜ人はそれにだまされてしまうのでしょうか。

私たちは信仰を超えて、その約束の成就を見たいのです。待つのは辛い。だから今、早く祝福を与えてください。まるで放蕩息子のようです。

私は天の都を見たい。だからバベルの塔を作る。目の前で約束が成就されないと神に対する信仰が揺らぎます。しかし神は何を約束しているのでしょうか。私たちは何を期待すべきでしょうか。地上の富でしょうか。

【ルカ12:32〜34】小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。

自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。

あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。

イエスによると、神が約束している国は地上の都ではありませんでした。自分の財産を売って必要のある人に施すのは危険なことです。そんなことをするのは不安になります。私たちは、給与明細、口座残高、不動産、生命保険によって安心します。これを通して日用の糧が与えられるからです。しかしこれが神が約束している天の御国ではないし、上から来る平安でもありません。神は私たちに堅い基礎の上に建てられた都を約束してくれています。神が設計して建設した都です。これを待ち望んで信じて生きるのは可能なのでしょうか。

じつは私たちには大きな祝福があります。私たちは第一世代ではなく、私たちの前に多くの信仰者がいて模範を残してくれています。彼らの祝福も見ることができます。絶望したエバにもセツという子どもが与えられました。そしてマリアという子孫からエバの子孫が生まれました。アブラハムとサラの子孫も今では数えきれないほどになっています。これもまだ人類、教会の始まりにすぎません。イエスが逮捕されて、十字架にかけられたのを見た弟子たちは、自分の目で復活した主イエスを見ました。彼らは神が私たちを死から救うことを目撃しました。そしてこの信仰をもって恐れずに自分の殉教まで歩んだのです。多くの証人が雲のように私たちを取り巻いて、最後まで信仰を持ち続けたことを見ることができます。

【ヘブル11:13】これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

私たちはある意味で、彼らよりも先にいて、約束が成就されることを信じています。イエスが受肉した神として生まれ、女の子孫は確かに生まれてきたのです。そして死と罪と戦って勝利しました。その意味で私たちの祝福はとても大きいものです。私たちは信仰の時代に生きていますが、それでもまだ見ていないことがたくさんあります。だから信仰はまだまだ必要です。まだ約束されたもので手に入れていないものがあります。私たちはまだ自分の故郷を求めて生きています。もっと良い天の故郷を求めています。ただこの地上から逃げて、死んで天に行きたいのではありません。私たちが求めている故郷は、天から降りて地上にたどり着く都です。

神の約束の成就のしるしが今ここで行われます。今から私たちは聖餐式によって天に昇り、天にある都が降りてきて、ここでで交わりをもって神と一つとなるのです。神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったように、私たちもよみがえらせてくださいます。そしてイエスにある永遠の命を与えてくださいます。遠くにあったものが、今は近くにあるのです。

私たちは過去にあった成就を振り返ります。イエスの十字架の働きと復活を振り返ります。しかし同時に未来の成就も信じて信仰をもって前を見ます。

イエスは再び来られます。私たちをよみがえらせて、完全な神の御国に導き入れてくださいます。だから私たちは信仰をもって、自分の財産を全て売って、自分の力を全て必要のある人のために使って、自分の心と思いと力を尽くして神を愛することができます。神を待ち望んで、もっと良い国を待つことができます。そしてダビデとともに、この歌を歌うことができます。

私たちのたましいは主を待ち望む。主は私たちの助け 私たちの盾。

まことに 私たちの心は主を喜び 私たちは聖なる御名に拠り頼む。

主よ あなたの恵みが私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望むときに。詩篇33:20~22




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