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「主の日をどのように尊ぶべきか」イザヤ58:9b〜14・詩篇103:1〜8・ルカ13:10〜17・ヘブル12:18〜29

更新日:2023年2月18日

「主の日をどのように尊ぶべきか」

イザヤ58:9b〜14

もし、あなたの間から、くびきを除き去り、虐げの指をさすことや、邪悪なことばを取り去り、飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる。

主は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。あなたのうちのある者は、昔の廃虚を建て直し、あなたは代々にわたる『破れを繕う者、通りを住めるように回復する者』と呼ばれる。

もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。--主の御口がそう語られる。」



詩篇103:1〜8

わがたましいよ 主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ. 聖なる御名をほめたたえよ。

わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

主は あなたのすべての咎を赦し あなたのすべての病を癒やし

あなたのいのちを穴から贖われる。主は あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ

あなたの一生を 良いもので満ち足らせる。あなたの若さは 鷲のように新しくなる。

主は 義とさばきを すべて虐げられている人々のために行われる。

主は ご自分の道をモーセに そのみわざをイスラエルの子らに知らされた方。

主は あわれみ深く 情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである。



ルカ13:10〜17

イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。

すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人がいた。

イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、「女の方、あなたは病から解放されました」と言われた。

そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。

すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」

しかし、主は彼に答えられた。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。

この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」

イエスがこう話されると、反対していた者たちはみな恥じ入り、群衆はみな、イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。



ヘブル12:18〜29

あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。また、その光景があまりにも恐ろかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。あなたがたは、語っておられるる方を拒まないように気をつけなさい。地上において、警告を与える方を拒んだ彼らがで処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。あのときは、御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。「もう一度、わたしは、地だけではなく天も揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています。このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。私たちの神は焼き尽くす火なのです。


今日の四つの朗読箇所に共通するテーマは「主の日をどのように尊ぶべきか」です。

クリスチャンとクリスチャンでない人の、見てすぐわかる違いの一つは、日曜日に教会に行くことです。もちろんこれは要素の一つであって他にもたくさん違いはありますし、入院していたり老人ホームに入っていたりして教会に行けない人もいます。小教理問答に書いてあるように、やむを得ないわざとあわれみのわざは日曜日であっても続けなければなりません。それ以外にも、クリスチャンが礼拝を休む正当な理由はありますが、それは例外であって、原則としてクリスチャンは毎週日曜日に教会に行く人たちです。


しかし、今日はその次のステップに関しての話で、今日の聖書箇所では、ただ礼拝に出席するだけでは足りないことを強調しています。

私たちは神様に受け入れられる、神様に喜ばれる礼拝をささげなければいけません。教会に来るのはいいことなのですが、教会に来たとしても、正しい礼拝と正しくない礼拝があるというのがポイントです。これは歴史の初めから言えることであって、カインとアベルの礼拝を見るだけですぐに正しい礼拝と正しくない礼拝の違いがわかります。二人はどちらも神様を礼拝して、自分の働きの実を持ってきて神様にささげましたが、神様はアベルのささげ物に目を留め、カインのささげ物を受け入れませんでした。はっきりしているのはカインの心がねじ曲がっていて兄弟への憎しみを持ちながら神の礼拝に来ていたことです。イエスは礼拝に行く前に兄弟と和解しなさいと教えました。

【マタイ5:24】ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。

兄弟を憎みながら神様を愛することができません。教会に来て、献金して、賛美するだけでは神様に受け入れられる礼拝をしているとは限らないのです。神様に受け入れられる礼拝をするためには、いくつかやらなければいけないことがあります。六日間働いて実を結ぶこと、そしてきよい生活をすることです。

【イザヤ58:9b~10】もし、あなたの間から、くびきを除き去り、虐げの指をさすことや、邪悪なことばを取り去り、飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる。

私たちは人に対して善を行いなさいと命じられています。どうすれば善を行えるのでしょうか。普段からきよい生活を送るにはどうすればいいのでしょうか。

・普段から自分をきよめること。

・自分の隣人に祝福を与えること。自分の能力や影響力が増すにつれて、それを少しづつ人に与えて祝福することができます。

・邪悪なことばを取り去ること。これをするには、まず自分の口から始めます。人と人の間の信頼や好意を破壊するようなことばを言わないようにしましょう。噂話を楽しんだり、ライバルを破壊しようとして批判することなど、このようなことをするなら、あなたが教会に来ても、神様はあなたの礼拝を受け入れないでしょう。

・飢えた者に心を配ること。朝の3時にお母さんが赤ちゃんに授乳することも含まれます。できることからやって行きます。

・苦しむ者の願いを満たすこと。例えば病人のために買い物に行ってご飯を届けることなど、できることはあります。

日曜日だけ何か良いことをやっても、普段から善を行なっていなければ神様は喜ばれません。

世の中で六日間忠実に働いていなければ、日曜日に一日だけ天国に入って「主よ」と言っても神様は喜ばれません。六日間怠けていて、腐敗していたら、神様にどんなささげ物をささげることができるでしょうか。私たちがささげるいけにえは、最終的には自分自身です。実を結ばない生活をしていながら、自分を神様にささげても、神様は喜ばないでしょう。

だからまず正しい礼拝をささげるために、六日間忠実に働いて、きよい生活を送らなければなりません。そして日曜日は自分の思いではなくて、神の御心を求めなければなりません。

【イザヤ58:13〜14a】もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。

日曜日に神様を礼拝をせずに遊びや仕事をしたら神様に喜ばれません。

この箇所をパリサイ人は誤解して適用を間違えました。六日間出勤して一日休むのですが、休む時に何もしないのではなく、世の中で六日間かけて結んだ実を、七日目に神様のところに持ってきて祝うのです。安息日は働いた分のお祝いです。世の中にいる六日間と天に昇る一日なのです。パリサイ人たちだけではなく、現代の多くのクリスチャンが誤解しています。イエスはたくさんの力を使って安息日の理解を教えるために戦いました。しかし私たちクリスチャンは未だにパリサイ人のような聖日の見方をしてしまいます。これもあれもしてはいけない。あるいは私は教会に行っているから、礼拝しているからあの人たちより優れていると思ってしまう危険があります。結局、日曜日に集まった時に、分裂と批判と傲慢の機会になってしまうのです。


今日のルカの箇所では、正しい聖日の過ごし方と、正しくない聖日の過ごし方を見せてくれています。

まず、イエスは安息日にシナゴグにいます。そしてそこで十八年間病で苦しんでいる女性に出会いました。何の病か分かりませんが、病の霊に苦しめられていました。つまり霊的な問題だったのです。悪霊なのか彼女の霊なのかもわかりませんし、虐待されて心も霊も折られていたのかもしれません。結果的に彼女の腰は曲がって伸ばせなくなっていました。イエスは彼女がサタンに縛られていると言います。

シナゴグの会堂司は彼女が癒されたのを見て憤りました。なぜそんな反応をするのか不思議に思います。そしてイエスをしかります。群衆に、癒されるために安息日に来るなと言います。安息日に正しいことをしているイエスを攻撃して、まるで自分の方がきよい礼拝をしていると思っているような感じです。結局、彼はイザヤが言っているようにくびきをかけ、虐げの指をさし、邪悪なことばをかけて、苦しむ者の願いを満たさないのです。彼は会堂司なのに、サタンの側に立っています。ある意味で、彼は教会に行っていました。そして教会でどのように振る舞えば良いのかを真剣に考えていました。しかし間違った教会の行き方をしていたのです。イエスは礼拝を尊び、真実を語り、病人を癒やし、人々を偽りの虐げから解放しました。結果的に人々は主を喜びとしました。

イエスは怒っていました。すぐに自分の敵を倒す力もありました。だから、イエスは赤ちゃんや子羊を抱いている優しい神様というだけではないのです。さばきを語るお方です。なぜならあのシナイ山でことばを語った恐ろしい神と同じ神だからです。私たちも、今、集っているのはその恐ろしい危険な神の御前なのです。人も動物もシナイ山にさわればその場で殺されます。神様は聖なる聖なる聖なるお方で、焼き尽くす火です。きよくないものが近づけば焼き尽くされるのです。

モーセの律法で、死刑はたくさん出てきました。殺人は前から死刑でしたが、それに色々加わりました。同性愛、姦淫、親への反逆。今の社会では通用しないような罰がたくさん出てきます。なぜならシナイ山の神が、エルサレムに住んでいて、そこに神の神殿があったのです。聖地はきよくなければならない。神に近づくなら罪は焼き尽くされる。


ヨシュアたちの軍がカナンに入った時には、男も女もみな殺しにしました。なぜならこの地に神殿を建てるために、ここで犯されたすべての罪をきよめて、洗い流して、偶像礼拝をすべてて取り消す必要があったからです。そうやって初めてきよい神様がそこに宿ることができるのです。

ヘブル書によれば、私たちは地上の神殿にいるわけではなく、もっと恐ろしい天にいる神様の御前で集まっています。私たちはなぜこんな危険なことができるのでしょうか。私たちはそこまできよいですか。

なぜこれができるのかというと、イエスが十字架上で死んで、その血を私たちの上に注いだからです。天にも地にもイエスの血がかかっています。その血はアベルの血より優れたことばを語ります。つまり私たちの赦し、私たちの贖いを語っています。その血は、私たちが死なないために、きよい生活をして神様の救いを受け入れるように招きます。私たちがこの警告を受け入れないなら、さばきから逃げることはできません。なぜならイエスは地も天も揺るがすからです。揺るがして、ふさわしくないものが落ちて、残った者が新しい天と地を永遠に相続します。だから私たちが教会に行く時、会堂司のようではいけないのです。普段から会堂で人を攻撃して、兄弟を憎んで、邪悪なことばを語ってはいけません。それはカインのような礼拝です。

確かに私たちはお互いを攻撃する機会はたくさんあります。悪魔はホビットを利用して教会を弱くして、教会が散り散りになることを求めています。これを通して私たちが礼拝を重んじる心ではなく、お互いを恐れたりして、私たちの礼拝を、神が受け入れない礼拝にしようとしています。でもその誘惑に負けてはいけません。礼拝は忍耐の場であり、勇気の場であり、赦し合いの場であり、一致がある場所でなければならないのです。なぜ勇気の場なのかというと、勇気がなければ善を行うことができないからです。臆病な人は周りの人が善を行うなら自分もそのくらいの善は行うことができます。でも周りがその善を許さないなら自分も善を行わない。つまり周りが許す範囲でしか善を行うことができない人が臆病者なのです。だから私たちは勇敢でなければならないのです。


教会に来る時、私たちはイエスが癒した女性のようであるべきです。つまり、イエスからの癒しを受け入れて、病いの霊から解放されている状態になるのです。同時にイエスのようになるべきです。礼拝に来た時に、お互いに癒しを与え合うコミュニティになりましょう。そのようなコミュニティになる方法の一つは、互いのために祈ることです。だから私たちは集った時に、病んでいる者、孤独な者、霊的に飢えている者、不正によって苦しめられている者、罪と葛藤している者、様々な人のために祈っています。こうして私たちはお互いを愛し合って、そして癒します。だから祈ってくださいと頼むことを恥ずかしく思わないでください。あるいは面倒くさいと思わないでください。これは教会の使命なのです。祈りを通して私たちに一致が与えられます。だからコミュニティーとして成り立つのです。このようにして神の国が建て上げられます。神様は私たちを揺らします。天も地も揺らします。病気もその他のすべての苦しみも私たちを揺らしています。それは穀物からもみ殻を取り除く作業なのです。そして揺れるものは落ちて、揺るがされないものが残ります。私たちが永遠の御国を受けるためなのです。それが与えられたときに、私たちは、会堂でイエスに癒された女性とその会衆たちとともに神をあがめることができます。


わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

主は あなたのすべての咎を赦し あなたのすべての病を癒やし

あなたのいのちを穴から贖われる。主は あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ

あなたの一生を 良いもので満ち足らせる。あなたの若さは 鷲のように新しくなる。

詩篇103:2~5


私たちはシナイ山に登ることを恐れていない。シナイ山どころか、天に立ち入ることも恐れていない。

私たちにイエスの血がかかっているからです。聖餐式のぶどう酒はイエスの血で、それが私たちの唇を通して入ります。

唇は門です。この門にイエスの血がかかった時に、神様は私たちを過ぎ越します。なぜなら、アベルの血は復讐を叫びますが、イエスの血は贖いと赦しを語っているからです。それを受ける私たちは、恐れと感謝をもって教会に来て、きよい生活をして、神が喜ぶ礼拝をささげましょう。




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