「信仰に深入りする」ルツ1:1〜8

更新日:2021年12月11日

今週の説教はケビン・シーバー牧師より

ルツ1:1〜8

さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダヤのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。

ナオミは嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ることにした。主がご自分の民を顧みて、彼らにパンを下さった、とモアブの地で聞いたからである。彼女は二人の嫁と一緒に、今まで住んでいた場所を出て、ユダの地に戻るため帰途についた。ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。

二人はナオミに行った。「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります。」ナオミは言った。「帰りなさい、娘たち。なぜ私と一緒に行こうとするのですか。私のお腹にまだ息子たちがいて、あなたたちの夫になるとでもいうのですか。帰りなさい、娘たちよ。さあ行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとえ私が自分に望みがあると思い、今晩にでも夫を持って、息子たちを産んだとしても、だからといって、あなたたちは息子たちが大きくなるまで待つというのですか。だからといって、夫を持たないままでいるというのですか。娘たちよ、それはいけません。それは、あなたたちよりも、私にとってとても辛いことです。主の御手が私に下ったのですから。」彼女たちはまた声を上げて泣いた。オルパ姑に別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついた。

ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神々のところに帰って行きました。あなたも弟嫁の後について帰りなさい。」ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」ナオミは、ルツが自分と一緒に行こうと固く決心しているのを見て、もうそれ以上は言わなかった。

私は、以前、聖路加国際大学の牧師チャプレンをしておりました、ケビン・シーバーと申します。何度もこの三鷹福音教会に参加させていただいて、この教会の勢いと、皆さんの信仰の熱さに感銘を受けています。

今日は、このように説教する場を与えて下さって感謝しています。


宗教に深入りしてはいけないと思っている日本人は多いと思います。宗教に関わるならほどほどに、趣味程度にしなさいと言われる人が多いです。深入りするのはこの国ではタブーなのです。宗教に深入りするといいことはないし、逆に怪しまれます。日本はそのような風潮のある国です。その原因はいろいろあって、踏み絵などの迫害の歴史や、江戸幕府の檀家制度、わけのわからない新興宗教も20世紀から現れて来たし、オウム真理教の事件も、世界中のテロのニュースも、宗教と戦争の歴史もあることは確かです。しかしだからといって宗教は危険だと十把一絡げに言うのはただの偏見でしかないと思うのです。麻原彰晃とマザーテレサは一緒なのでしょうか。


世界的に考えると、多くの日本人の宗教リテラシーはゼロに近い感じがします。毎年教えている大学で学生たちに「これまでに宗教が原因で起きた戦争はすべての戦争の中の何%でしょうか」と聞くと、70%とか80%という答えが返ってきます。しかし正解はわずか7%です。そのうちの4%がイスラム教で、残りの3%は他のすべての宗教を合わせた数字です。それなのに人々はマスコミや日本の教育の影響をしっかり受けて、宗教は危ない、宗教は戦争を起こす、という偏見を持ってしまうのです。だから、クリスマスは教会、お正月は神社、お葬式はお寺というように、軽く平等にかかわってもいいが、深入りは絶対だめ、という風潮が生まれているのだと思います。

しかし、深入りしないクリスチャンは無用だと聖書ははっきり言います。繰り返し主張されていますし、イエス・キリストの教えの大きなテーマでもあります。

例えばイエス様は農業のイメージを使ってこのように言います。

【ルカ9:62】すると、イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」

また、建設のイメージでこのように言います。

【ルカ14:28】あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。

また、戦争のイメージでこのように言います。

【ルカ14:31】また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。

その他にも種まきのたとえ話(マタイ13章)などを通して、かなりたくさんこのような教えをしてくださいます。

要は、とことん全身全霊で神の御心をやり遂げなさいということです。いい加減な信仰に対してもイエス様は更に恐ろしいことを言います。イエス様は宗教に深入りしないラオデキアの教会にこのように言います。

【黙示録3:15〜16】わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。

マタイにも次のような怖い話があります。

【マタイ7:21〜23】わたしに向かって、『主よ、主よ』と言うものがみな、天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。

聖書に関係なく普通に考えても、この人生で得られる何か価値があるもので、手抜きで得られるものはあるでしょうか。

例えば、オリンピック選手になること、コンサートピアニストになること、外国語を流暢に話せるようになることは、深入りしなければ達成できないものではないでしょうか。時間をかけて、努力を続けて、がまんして、あきらめず、たまには面倒臭いことに耐えたり、何かを犠牲にしたり、つらい思いをしたりしないと価値あるものを手に入れることはできないのです。

ただただ周りと同じことをするだけではどうにもなりません。周りの価値観や態度に感化されたら何も達成できないのです。

イエス様に認めてもらえる信仰もそれと同じではないでしょうか。王の王、神の御子イエス・キリストの仲間になること、いのちを与えてくださった神、日々数えきれない恵みを注いでくださった唯一まことの神を礼拝し、自分の身でその栄光を表すことは、オリンピック選手やコンサートピアニストになることと同じくらい大事ではないでしょうか。

周りがそれを大切にしていないだけの話です。そして周りの方が間違っていると思います。

今日は深入りする一人の女性の話を読んでいただきました。

ルツの姑であるナオミはベツレヘム出身のユダヤ人で、神の民イスラエルに属する人でした。その当時のイスラエルの飢饉のために、ナオミは夫エリメレクと息子のマフロンとキルヨンを連れて、近くの国モアブへ移住しましたが、そこでエリメレクは死にました。息子たちはモアブ人の女性ルツとオルパをめとり、約10年間家族5人で暮らしました。しかしマフロンとキルヨンも死んでしまいます。それでナオミは故郷のベツレヘムへ帰ろうとします。息子たちの妻オルパとルツは愛する姑ナオミと一緒に行こうとしますが、ナオミは断りました。まだ若い二人は再婚して家庭を持って子供を産んだ方が良いと思ったのです。当時、女性は職を持つことができなかったので、家庭がないと経済的に困ってしまうのでした。ナオミも夫と息子が死んでしまったので、生きるために自分の親戚に頼るしかありませんでした。でもあくまでも自分の親戚なので、異邦人であるオルパとルツを連れて行っても、だれも異邦人である彼らを支える責任がないわけです。だからナオミは二人の嫁にそれぞれ自分の実家に帰って次の道を探すようにと言いました。

弟嫁のオルパは泣きながらナオミと別れて自分の実家に帰りました。しかしルツは違いました。何があってもナオミと一緒に行くことを固く決心していました。それを見たナオミは、ルツを帰らせることを諦めました。ルツは何があっても姑のナオミといっしょにいる。まさに深入りしたのです。

ルツは、ナオミだけではなく、ナオミの民とナオミの神に深入りしたのです。ルツは自分の民も神も文化も持っていましたが、それをかなぐり捨てて、ナオミの神を自分の神とする決心をしたのです。イスラエルは神の御計画の器でした。ただの民族ではなく、まことの神が地上の一つの民を選び取って、ご自分の救いの計画を、その民を通して実現することになさったのです。どういう御計画なのかというと、創世記12章でアブラハムに神が約束された通りです。

【創世記12:1〜3】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたの祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

神様はアブラハムに、地上のすべての民族はあなたによって祝福されると約束されました。それが神様の大きなご計画です。まことの神の救いのご計画です。自分から離れて行ってしまった人類、まことの神を意識せず神がいないかのように動いている国々や文化、地上のすべての民族は、選ばれた民によって祝福の輪に入るということです。自分の創造主である神との和解はできます。これ以外に救いの道はありません。なぜなら、人間をお造りになり、いのちを与えて下さったのは、まことの神ただお一人だからです。ルツはこの神に信頼することを決心しました。自分の文化、自分の国の宗教を捨てて、ナオミについていきました。唯一の救いの道を歩むことにしました。深入りしたのです。自分の死によってナオミから離れたら主が幾重にも罰して下さるように、というほどの決心です。

そうしたら何が起こったのでしょうか。二人がベツレヘムに到着すると、ちょうど麦の収穫が始まったところでした。なのでルツは二人分の食料を手に入れるために麦畑に行って落ち穂拾いをしました。旧約聖書の律法では貧しい人々に落ち穂拾いをさせなさいというおきてがあります。その麦畑の所有者はボアズという人物でした。彼は異邦人で姑に献身的に仕えているルツのうわさを聞いて、とても気に入りました。だからお昼になるとボアズはルツに声をかけて、落穂拾いどころか、美味しい煎り麦とパンとワインを分けてくれました。ルツはその日の夕方ナオミのところに戻り、ボアズのことを報告すると、ナオミは思いがけないことを言います。なんとボアズは夫の親戚だったのです。当時のイスラエルでは、男性が子どもを残さずに死ん場合、彼の兄弟や近い親戚がその嫁を迎えて子孫を求める習慣がありました。相続問題を解決するためで、亡くなった男性の相続が失われないようにするためでした。義務ではありません。それができない場合は、結婚できないという儀式を行って放棄することができます。ちなみに、後にこの習慣はなくなりました。

亡くなった男性の嫁を迎える人のことをゴエル(贖い主)と言います。贖い主は、奴隷として売られて困っている人を救う人にも使われます。

結論から言うと、ボアズは彼の気に入ったルツの贖い主になってくれたのです。ボアズは彼女を嫁として迎えて、ルツもナオミも生活が守られるようになりました。ハッピーエンドです。

しかしそこで終わりではありませんでした。ルツは、あなたの神は私の神、あなたの民は私の民、と言いましたが、まさにその通りになったのです。ルツとボアズの間にオベデという男の子が生まれましたが、オベデはダビデのおじいさんなのです。

異邦人だった、神の民と何の関係もなかったルツが、イスラエルの一番有名な王、メシアと呼ばれることもあるダビデのひいおばあさんになったのです。

【ルツ4:17】近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちはその名をオベデと呼んだ。オベデは、ダビデの父であるエッサイの父となった。

ルツは、選ばれた民、そしてその民を通してまことの神が御計画なさっている救いの御計画のど真ん中までたどり着いたのです。ルツのストーリーは聖書全体の救いのストーリーを指示していると思います。

アブラハムに与えられた通り、地上のすべての民族は、あなたによって祝福されるという約束はルツにあって実現しました。

彼女はまさに、まことの神様の祝福の輪に入ることができたのです。


このゴエル、贖い主という言葉には、もう一つの深い意味があります。エジプトで奴隷として苦しんでいた民を救い出した神に対しても使われる言葉です。

【イザヤ41:14】恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。ー主の言葉ー あなたを贖うもの(ゴエル)はイスラエルの聖なる者。

【イザヤ44:6】イスラエルの王である主、これを贖う方(ゴエル)、万軍の主はこう言われる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。

復活を予見したヨブにも一つのひらめきがありました。ヨブは、たとえ自分が死んでも、苦難や暗闇から救い出してくださる贖い主ゴエルがいることを信じました。

【ヨブ19:25~27】私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。

これはまさにイエス・キリストの話です。

ヘンデルのメサイヤの中にある「I Know That My Redeemer Liveth. 」はこのヨブ記の箇所から作られたものです。


ルツが加わった神の民は選ばれた民で使命が与えられていました。アブラハムへの約束にあった使命です。世の中でひたすらまことの神の言うことを聞き、全身全霊で神を愛し、敬って、そのことによって地上のすべての民族が主の祝福の輪に入るために、その器となることです。これがイスラエルの使命、果たすべき役割でした。

しかしながら、結局イスラエルはこの使命を果たせませんでした。彼らはまことの神への信仰に深入りできなかったのです。周りの国々や文化と同じことをするようになって、周りの価値観や態度に感化されて、イスラエルは主なる神の救いのご計画に対して無用になりました。そしてイエス・キリストがイスラエルに代わってその使命を果たすことがおできになったのです。イエス様がまことの神の御計画を実現してくださいました。人類の救いの御計画を成就なさいました。

それはイエス・キリストがこの世に深入りなさったからです。罪人の状況に深入りなさったからです。御子は天の父の右にある神の栄光をかなぐり捨ててこの世に入りこみました。

【ピリピ2:6】キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

とことんまで、全身全霊で天の父のみこころを成し遂げることができたのは、イエス・キリストだけでした。イエス様が家畜小屋で生まれた瞬間から、弱くて心の貧しい私たち人間が出くわすすべての経験をご自分のものにしました。

イエス様は、ヨルダン川で罪人が受ける悔い改めのバプテスマを受けられました。荒野でもたゆまぬ誘惑を受け、そのすべてに耐えきることができました。そして十字架の上で、イエス様はとことんまで罪人のむなしさを味わいました。

【詩篇22:1a】わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。

十字架の上でのイエス様の叫び声は、天の父から完全に断ち切られた罪人の立場になったときの叫び声です。

そして罪人である私たちを待ち受けている死の深淵に、イエス様ご自身が飛び降りました。まことの神から離れた罪人の状況に、最後まで深入りなさいました。その瞬間でした。


イエス様が深入りしてくださったおかげで、異邦人である私たちも、神様の祝福の輪に入ることができるわけです。

このように、主イエス・キリストがとことん天の父の使命を果たされた後によみがえられたことこそが、私たちが信仰に励む根底となります。結局、弱い私たちは、信仰に深入りしたくてもできないのです。しかしそれにもかかわらず、キリストが弱くて困っている私たちの救いのために、全てをささげて下さったのです。深入りできない私たちの赦しを十字架の上で勝ち取ってくださいました。父と子と聖霊のいのちと愛に深く入ることができるように、全てを用意してくださいました。だからこそ私たちは、微力でも、この程度までしか入れないかもしれないけれど、時間をかけ、努力を続け、たまには我慢したり、面倒臭いことに耐えたり、犠牲を払ったり、辛い思いをしたとしても、イエス・キリストの仲間であることを何よりも大事にすることに価値があると思います。

「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」




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