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「兄弟愛をいつも持っていなさい」ヘブル13:1〜8、15〜16

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


ヘブル13:1〜8、15〜16

兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。

牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。

結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばくからです。

金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。

ですから、私たちは確信を持って言います。

「主は私の助け手。私は恐れない。

人が私に何ができるだろうか。」

神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。


それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。



基本的に、私が説教するときは、おもに、ある程度聖書を知っている人や、聖書を信じている人に話すのですが、今日はもう少し幅を広げて、あまり聖書になじみのない人でも理解できるように心がけて話そうと思います。そしてそれが皆さんの祝福になるように願っています。


まず最初に、なぜ私はここで話しているのでしょうか。何をしているのでしょうか。

ここは神の家なので、神様がすべての人を招き入れます。この建物の中にも、神の家族の中にもすべての人を招き入れます。この建物には入り口のドアを通って入ってきましたが、神の家族には洗礼を通して入ります。洗礼を受けたときに神はあなたの父になります。そしてこの家が自分の家、自分のホームになります。毎週日曜日に、神は自分の子どもたちを自分の家に招いてくださいます。ここに集まった私たちはここで神のみことばを聞いて、神様から食事もいただきます。みことばは先ほど朗読したものですが、この御言葉を通して、私たちは何が真実なのか、何が善なのか、何が美なのか、それによって神がどのようなお方なのかを知ることができます。神こそ真・善・美なのです。

みことばを通して神を知ると、自分たちはどこから来たのかを知ることができます。自分たちは今どのような状態でいるのか。これからどのようになる必要があるのか。どこに向かっているのか。つまり、人間は神のようなものになるように造られているので、私たちがどこに向かっているかも理解できます。自分個人としてだけではなくて、世界がどこに向かっていかなければならないのか、私たちがどのように生きて、どのように行動しなければならないのかも分かります。

しかし、みことばを理解するのは簡単ではないので、先ほどの朗読を聞いて、なるほどとうなずいている人ばかりではないと思います。聖書は何千年も前に書かれた66冊の書物で、著者は何人もいるし、いろいろな人宛に、いろいろな言語、いろいろな地域、いろいろな時代に書かれていて、聞いて理解するのは容易ではありません。それで私がここに立って説明しているのです。私が神の聖霊に満たされているならば、その御霊が私を通して皆さんに語っているはずです。そして、みことばと説教を通して天の父が何を語ろうとしているのかが聞こえてきます。


礼拝ではいつも四つの箇所を朗読しています。この四つの箇所は大抵の場合、一つのテーマでつながっています。本当は欲張って四つ全部について語りたいのですが、今日は我慢してヘブル書に集中して話したいと思います。

ヘブル書は、二千年前に書かれた手紙です。イエスが死んで復活した数十年後に書かれていて、イエスの死と復活がどのような意味を持つのかを説明する書物です。いろいろな土台について説明した後で、その土台の上に立って私たちがどのように生きるべきなのか、今日読んだ13章はその結論のようなところです。私たちは兄弟を愛さなければならない。旅人をもてなさなければならない。結婚を尊ぶ必要がある。牢にいる人たちを覚えなければいけない。金銭を愛する生活をしてはならない。神に賛美のいけにえをささげなければならない。割と具体的に書かれています。じつは、これは世界を変える言葉です。いまどきはみんな世界を変えたいのです。視野がグローバルで、世界を変えようとして、グローバルなインパクトを持ちたいと思っています。どの学校でもどの会社でも、世界を変えようというミッションを持っているように感じます。じつは神様も教会にそのミッションを与えています。世界を変えるミッションですが、この世のものとは大きな違いがあります。世俗は神なしで世界を変えようとしています。これに対してキリスト教が世界を変えようとする時、世俗とは大きく違うところが二つあります。

まず一つは、神様が要求する変化はとても深いと言うことです。世界が動いている方向自体を変えることを要求されます。そしてその変化は人々が欲しくないものだらけです。最近、世界が変わっているから取り残されてはいけないという言葉をよく聞きます。みんなデジタル化されているから自分たちもデジタル化しなければいけないとか、みんなアウトソーシング(外部委託)しているから自分たちもアウトソーシングしなければいけないとか、結婚も恋愛も概念が変わっているので、私たちはその変化を受け入れなければいけないとか。世界がある方向に動いているから、私たちも遅れないで、逆にもっと早くその方向に進めばすぐ成功できて、世界をリードすることができる。そうすれば成功者、金持ちになれるというような見方があります。

しかしこの場合は、自分が世界を変えているのではなく、自分の方が世界に変えられて流されているのです。このような変化に自分が乗らないと遅れてしまう。もしイエスがこのような世界の変え方をしようとしているとすれば、十字架にかけられる必要はありませんでした。イエスが殺された理由は、世界が動こうとしている方向を変えようとしたからです。そしてその変化は人々が欲しくなかった変化だったのです。

二つ目は、神様が世界を変えなさいと命令する時、まず自分を変えることから始めなさいと言います。私たちはみんな、世界は変えたいけど、自分は変えたくないのです。イエスが殺されたのは、人々の中の偽善や罪を指して、自分が変わりたくない方向に自分を変えるように語ったからです。


今日のヘブル書は、そのような変化について書かれています。クリスチャンでさえ聞きたくないことが書いてあります。

・兄弟愛をいつも持っていなさい。

考えないようにして聞くと素晴らしいことのように感じますが、問題があります。兄弟とは、自分が選ぶことのできない相手だということです。家の中で同じ親から生まれた子どもは兄弟なので、神の家に神様が招き、その招きを受け入れて洗礼を受けたすべての人が兄弟なのです。そう考えると、そんなに楽しいことではなくなります。神様が兄弟を愛しなさいという時、親切に優しく扱って、会ったときには失礼なことがないように気をつけることではありません。その存在を我慢するというレベルでもありません。イエスが私たちを愛したように、私たちもお互いに愛さなければならないのです。ものすごい重荷です。次の命令はある程度それを見せてくれます。

・旅人をもてなすこと

ここでいう旅人とは、英語では「strangers」つまり他人です。親しい人ではありません。昔は、多くの人が貧しくて、旅をするのはお金の問題だけではなくて、危険でした。そして旅人は汚れていて疲れていてお腹が空いていて狙われやすい人たちでした。その人たちを自分の家に招き入れるなら、場合によってはその人たちの命が助かるようなことでした。創世記のアブラハムも知らずに御使いたちをもてなしました。

概念的に考えて、旅人とはどのような人たちなのでしょうか。一つは、イエスのたとえ話を読むとわかりますが、私たちとは何のつながりもない人たち、私たちがその人たちに何の恩もない人たちです。だから本来なら何かを与える義務は私たちにはありません。また、彼らは私たちに何もお返しのできない相手なのです。レ・ミゼラブルのストーリーを見るとわかります。

 主人公ジャン・バルジャンは、家族のためにパンを盗んだ罪で19年間刑に服し、刑務官ジャベールから仮釈放通知書を受け取りましたが、世間の扱いがあまりにも厳しく残酷だったため、貧しく絶望していました。そこに通り掛かったミリエル司教に手を差し伸べられ、司教の家で食事と温かいベッドを提供されましたが、銀の食器を盗んで逃げてしまいます。そして逃げる途中で怪しまれ、憲兵に捕まってしまいました。ところが司教は「食器は彼に与えたものだ」と言い、さらに高価な銀の燭台をジャン・バルジャンに手渡しました。そして「兄弟よ正しい人になりなさい」と諭して、司教はジャン・バルジャンを赦しました。


私たちの世界はこの方向には動いていません。昔は旅人や貧しい人をもてなす良い人がいたかもしれませんが、現代の善人は税金を払って政府が作ったシステムによって困った人を助けています。それによって私たちは困っている人を触る必要がないし、臭いをかぐ必要もないし、自分の貴重な時間を犠牲にすることもありません。もしかしたら、今でもレストランに連れて行ってあげて、ホテル代を出してあげる人がいるかもしれません。しかし私たちにはどこかに他人に対する恐怖に似た不快感のようなものがあって、例えば何かのカンファレンスで出会って話すとか、駅で会った人と話すとか、教会で会った人と話すのはいいのですが、自分の家に招くと次元がまったく変わってしまいます。自分の時間も、力も取られて、気を使うし迷惑です。迷惑がかかるから相手も断るのです。お互いに気をつかうからそこに踏み入りたくありません。今はそのような文化になっています。でも、そのような人を喜んで自分の家に招くのが兄弟愛なのです。家族だったら当たり前にやることなのです。そこまで接近したくないのは家族ではないからです。

自分の家を考えて、自分のスケジュールを思い出して、あなたがこのような旅人を自分の家に招き入れたのはいつだったでしょうか。そもそも自分の周りの旅人とは誰なのでしょうか。それを把握しなければ始まりません。無視されている人たち、居場所がない人たち、このような人たちに手を差し伸べて家に招き入れることができないにしても、招き入れられるスペースに招き入れることが大切です。ここでハードルが高いと思った人は次の命令を見てください。

・牢にいる人々を思いやりなさい。

当時のキリスト教は迫害されていました。だから牢にいるのはクリスチャンたちでした。牢にいる人には食べ物が与えられなかったりします。だから場合によっては友人や家族が食べ物を差し入れることがありました。このようにして牢にいる兄弟を助けていました。

では牢にいる自分の仲間だけを助けるのか、それとも全く知らないクリスチャンではない人たちは無視するのでしょうか。当然そのようなことはせずに、牢に入っている全ての苦しんでいる人たちを思い出します。

これも今の世界の方向とは違います。今は自分たちの評判を守るために、良い人と悪い人を壁で仕切って、あの人たちと私たち、犯罪者とそうでない人たちを大きく分けて、そこを超えてはいけないことになっています。過去に犯罪を犯していたことが知られると、友だちだった人も「自分は関係ない」と言い出してすぐに否定します。その人と写真を撮ることもしません。とにかく距離をおく。絶対にその人に会いに行かないし、まして兄弟と呼ぶことなどあり得ません。「この人はイエスを告白したから牢に入れられたけど、私も有罪なのです。」とは言いたくないのです。でも神様はそこまでしなさいと命令しています。自分の評判、自分の立場を失う覚悟がありますか。世間から悪者扱いされる覚悟はありますか。

当時は、牢を訪ねたら、自分も牢に入れられて殺される危険がありました。もし世の中が変わってそのような状態になってしまったら、自分もがんばりますとあなたは言うかもしれません。私はイエスを否定しませんと言うかもしれません。ペテロもそう言いました。でもイエスが実際に逮捕されて、処刑された時に、ペテロも他の弟子たちもみんな隠れていました。クリスチャンがその信仰を批判されている時、私たちはその隣に立てるでしょうか。このコロナ禍の2年半、人々は集まることを避けていましたが、教会のだれかが集まることで非難されたら、その人と一緒に立ちますか。

もう一歩踏み込んで考えてみましょう。実際に犯罪を犯した囚人がいて、彼が罪を悔い改めて刑に服しているなら、彼を主にある兄弟と認めますか。有罪判決を受けて、牢にいる人は世間に見下されています。じつはそれが私たちの立場でした。神様は、私たちが有罪だった時に私たちを愛してくださり、私たちを赦して、贖って、その代価も払って、私たちを自由にしてくださいました。そして私たちは自分の家に招いて、家族としてくださいました。だから私たちも、牢にいる人を見たときに、自分と同じ立場の人として見なければなりません。そして彼らのために祈って、犯罪者であったとしても、機会があればもてなさなければいけないのです。

・結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。

これこそ世界に逆行しています。世界によると結婚は時代遅れで、いまどきの感覚として、結婚して子どもが欲しいのはゲイだけという感じがします。(統計の話ではありません。)

私たちが1960年代から向かっている方向は、婚外関係や離婚、ひとり親家庭を普通であると認めることでした。そしてこれを広めることが社会の進歩だと思っているのです。

確かに正しい離婚はありますし、ひとり親家庭になる避けられない理由もあります。被害者になることには、何の罪も恥もありません。そして加害者であったとしても、悔い改めて自分を変えれば恥を感じる必要はありません。だからといって、定義を変えればそれで問題がなくなるということではないのです。実際にこのようなことが広まると、精神病も自殺も孤独も増えて行きます。なぜなら、神様が与えた基準は、独身がきよい生活を保つこと、そして結婚した夫婦はお互いを愛し合うこと、子どもがいれば子どもを愛することです。それなのに今の時代の流れでは、独身は犠牲を払わず、責任を負わず、結婚生活のいいところだけを欲しがり、結婚している人たちもお互いを愛し合うのが難しく、性関係を失っている夫婦も多く、不倫も多い。これによって今の時代は結婚が尊ばれていないのです。ではどうしますか。間違っている人に指をさして叫びますか。ツイッターで新しいハッシュタグを作って、それがトレンドになるように働きかけますか。いいえ、違います。まず自分を変えるところから始まります。独身であるならきよい生活を送ります。結婚しているなら、自分の妻や夫を愛する努力をします。可能なら子どもを求めます。こうして私たちは結婚を尊んで世界を変えます。

・金銭を愛さずに、今持っているもので満足しなさい。

そんなことを言う学校や塾は聞いたことがありません。この学校の生徒には、金銭を愛さずに今持っているもので満足するように教えます、と言う学校は聞いたことがありません。逆に、この学校を選べば、このキャリアを選べば、あなたは成功して金持ちになります、と言う方が多いです。もちろんすべての学校や塾がそう言うとは限りませんが。

成功したかどうかは動かせるお金の大きさで決まります。それが一つの大きな測り方です。でもこれはただ成功したいからではなく、何があっても自分には家と食べ物があるという安心感を求めているのです。貧しければ宝くじを買って夢を見ながらお金を無駄にします。実際に宝くじに当選した人は、人間関係が悪くなって、初めよりも悪い状態になって、最後には借金する人がたくさんいます。なぜなら、私たちが本当に必要としているものはお金ではないからです。私たちを養って助けてくれるのは、お金ではなく、神様だからです。神様は約束してくださっています。

「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」

イエスは、いつも常に私たちに兄弟愛を保ってくださる私たちの兄弟です。

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

だから私たちはイエスに信頼することができます。


私たちは犠牲を払って、自分の人生をいけにえにして、自分を変えようとします。そこに大きな意味があるからです。みことばがなければ、何が正しいのか、どこが上でどこが下なのかを確信をもって知ることはできません。しかし神様はこのように私たちを自分の家に招き入れて、必要な真実を語って、私たちに正しい方向を与えてくださいます。


このように神様が私たちをもてなしてくださったなら、私たちは神様に何をお返しできるでしょうか。神様の模範を見て、お互いを愛し合って、変わりたくない方に自分を深く変えて、イエスのようなものになることです。

十字架上で、イエスはすべてをささげて、ご自分のいのちまでささげて、私たちを愛してくださいました。だから私たちも自分を生きたそなえものとして神にささげます。

私たちの労力と力を献金として神にささげますし、イエスのからだをあらわすパンとぶどう酒をいただいて、イエスの死といのちにあずかり、私たちもそのような死に方、生き方をすることを約束します。




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