説教者:ボグミール・ヤルムラク牧師
創世記12:1〜4a
主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。
ローマ4:1〜5、13〜17
それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。
もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。
聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。
働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。
しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。…
というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。
もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。
実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません。
そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。
「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。
皆さん、こんにちは。ポーランドから来た、ボグミール・ヤルムラクです。3年ぶりにまた皆さんに会えてうれしいです。
今日の礼拝では、アブラハムについて朗読しました。
聖書はストーリーに満ちています。ストーリーから学ぶのは基本的で、とても良い方法です。特に若い時に良いことですが、年をとってからでもストーリーから学ぶべきです。行動パターンを教えてくれますし、それ以上に大切なのは目的を与えてくれます。さらに大切なことは、私たちの感情的な応答を形作ってくれます。私たちは決してホモ・サピエンス(ラテン語で「賢い人間」生物としての人類の学名)ではありません。私たちは感情的な生き物です。
今日は創世記11章から、アブラハムが神に召命を与えられるところ読みました。ヘブル人への手紙11章の信仰者についての有名な箇所がありますが、そこから学ぶのは、アブラハムが偉大な信仰者の一人であるということです。
ローマ4章も読みましたが、そこからアブラハムはすべての信仰者の父であることがわかります。これはどういう意味かというと、アブラハムは冒険者であるということです。ロード・オブ・ザ・リングやホビットの主人公フロドやビルボのようにです。笑わないでください。真面目な話です。
今日はこれに関して説教しようと思います。
【ヘブル11:1】信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
信仰は、未来に関して、まだ経験していないことに関して、目で見ていないことに関して、確信させるものです。
未来に関してはこれまでの経験からある程度はわかりますが、それ以上に、神のみことばや約束を通して知ることができます。神の約束は確実な未来に関する知識になります。
神はアブラハムのところに来て、「あなたがウルで快適に暮らしていることはよく知っています。確かにウルは住むのに良い場所です(昔のアメリカのようです)。地理的な立地も良く、地質も良く、川が流れていて最高な土地です。麦を植えれば美味しいウイスキーを作ることができます。しかしアブラハムよ、もっと良い所があります。だからこの快適なウルを出て、全てを後にして、西へ向かいなさい。あなたにとってもっと良い所を用意しているから。」
覚えていなければならないのは、ウルはアブラハムにとって良い所であったということです。2023年のウクライナのようではありません。戦争で国が荒廃していたから出るのではありません。ロード・オブ・ザ・リングのフロドのホームタウンのように快適な場所でした。
しかし神はアブラハムに、これを全て後(あと)にしなさいと言います。見たことも聞いたこともない良いものが、未来にあると言うのです。
アブラハムはすべてを後にして出発しました。これでアブラハムは冒険者になります。アブラハムは約束を信じて出発しました。アブラハムが信仰の父と呼ばれるのは、彼が神を信じたからです。神はアブラハムにしたように、私たちにも呼びかけています。神を信じなさいと言います。
良い映画と悪い映画を見分ける方法は何でしょうか。映画の中で、急に主人公のところに表れた人が「私を信じなさい」と言っても、普通は「OK!」とは言いません。どこのだれかもわからない他人を普通は信じません。この場合は信じるというよりリスクを犯すことになります。知っている人や信頼している人しか信じることはできません。
一方でアブラハムの場合は、旅に出なさいと言われる前から神のことをよく知っていたので、盲目的に飛び込む信仰ではありませんでした。彼がすでにもっている神に関する知識、信頼に基づいていました。エデンの園のアダムと同じ状態でした。神がアダムに現れて「この実を食べるな」と言われた時、アダムはすでに神を知っていました。そして神からたくさんの祝福を受けていました。その中でも一番の祝福はエバでした。豊かな祝福で恵んでくださる神だから、「こうしなさい、ああしなさい」と言われたときに、信頼して従うことができます。信頼は常に神に関する知識に基づいています。でもだからといって簡単ではありません。私たちも神を知っていますが、従うときは目をつぶって飛び込むような感覚があります。
じつは私たちよりアブラハムの方が神に従うのは楽でした。アブラハムの召命は聖書の初めの方の出来事で、その他のストーリーはまだ起きていなかったからです。ヨセフ、サムソン、ダビデ、ヨブなど、彼らのストーリーを読むと徐々に恐ろしくなります。そしてイエス・キリスト、ステパノまで読むと、本当に恐ろしい。
神が私たちに、「快適な家を出て冒険に行きなさい、それはきっと楽しいはずだ」と言うとき、「神様、本当にそうなのですか。ヨセフやサムソン、ステパノ、イエス様にあなたが何をしたか知っていますよ。確かに一番最後に良い所が待っているのは知っているし、この道をたどって行けば少しの知恵がついて成長するかもしれないし、栄光を受けて、将来人々が私の名前を覚えてたたえるかもしれませんが、この道を本当にたどりたいかはよくわかりません。」と答えるかもしれません。
もちろんアブラハムにとっても楽な道ではありませんでした。ウルでの生活は楽でした。でもウルを出たときは、すでに75歳だったのです。普通は75歳の人に、すべてを後にして新しい人生を始めなさいとは言いません。75歳の人は、朝起きて、ただ夕方が来るのを待って、夜ベッドへ行くだけです。私の義理の父は85歳ですが、彼の生活はこんな感じです。
へブル人への手紙によるともう一つ面白いところがあります。アブラハムは死んだも同然の人(へブル11:12)だったのです。神は年寄りで死んだも同様のアブラハムに、フロドのような冒険者になりなさいと言うのです。「とにかく出て行きなさい。約束の地までどれほどかかるかわからないが行きなさい。ここよりも良い場所なのだから。」と言います。
神はアブラハムに、数えきれない海の砂のような多くの子孫の父となることを約束しました。アブラハムという名前は多くの国民の父(創世記17:5)という意味です。それなのに、75歳になっても子孫を残すことができない状態で、子どももいませんでした。一番のしもべが相続人でした。
神はそんなアブラハムに、出て行って、多くの民の父となると約束しました。あなたの子孫は空の星のように、数えきれない海の砂のようになると言ってくれました。そして実際そのようにしてくださいました。アブラハムは神の召しに従ってウルを出た後にエジプトに行きました。エジプトに向かう途中で危険にあいます。長年の冒険の中で、アブラハムにも妻サラにも戸惑いがありました。アブラハムはコロンブスのように、最終的に約束の地にたどり着きました。次の世代のための土台を準備してくれました。そしてアブラハムを通してイスラエルの民が生まれ、教会(私たち)も生まれました。神様は約束を果たしました。
しかしアブラハムは約束の成就を実際に見ることはできませんでした。約束が成就し始めたのも彼らが死んだ後でした。
アブラハムの旅には別の要素もありました。
それは私たち個人の旅の話だけではないのです。私たち一人一人の冒険は、それよりずっと偉大なものの1部分に過ぎません。このパターンは聖書によく出てきます。ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、ダビデなど、全く同じストーリーではありませんが同じパターンが繰り返されています。そのパターンはイエスの生涯にも繰り返されています。私たちが日曜日にここに集まるとき、毎週そのパターンを思い出して告白しています。その信仰告白はピリピ2章に基づいています。
【ピリピ2:10】天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
この冒険に出て行った人たちは信仰の英雄でした。神の約束は常に冒険の呼びかけで始まります。イエスは完全な人間で、まことの神でもありました。イエスは私たちに英雄の旅に出るように呼びかけているだけではなく、御子なる神ご自身が冒険に旅立ったのです。神は全てを新しくする方としてご自分を私たちに見せています。出て行って全地に行き渡りなさいと命令しています。神はいつまでもアダムが園にいるように計画していませんでした。「園を出なさい、おいしいパンを作るための小麦が外で見つかるから」と言います。「ぶどう酒を飲みたければぶどうも外で見つかります。残念ながら園に残るなら一生バナナしか食べられません」と言います。さらに「パンとぶどう酒だけではなく、園の外のハビラには金と黄金もある」と言います。その金はとても美しいものでした。それで足りなければ宝石もあります。好奇心がわきませんか。外に行ってみたいと思いませんか。
神は常にしもべたちに出て行って行動するように、学ぶように導きます。栄光から栄光へと成長して、今の自分より偉大なものになるように招きます。ラテン語のことばで、常により偉大になるように追い求めなさい、というものがあります。古代の信仰の英雄たちの叫びでした。私たちが神のためにできることがもっとあります。もっと神に仕えたければ、隣り人のためにもっと働かなければなりません。常に新しい冒険が待っています。常に行くべき土地があります。この信仰の生活、生き方とはこのようなことなのです。
神が冒険に行くように呼びかけることを通して、信仰に導いています。今日、ニコデモについても読みました。イエスは御霊の働きに関してニコデモに話しています。
【ヨハネ3:2】「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがたなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
少しカリスマ的ですが、この御霊のことでは私たちはカリスマ的であるべきです。
【ヨハネ3:5】まことに、まことに、あなたがたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
ニコデモは戸惑います。まずよく理解したかったのです。自分がどのように導かれるのか、先に知りたかったのです。
【ヨハネ3:7~8】あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。
しかしイエスはニコデモに、それがどこに行くのか分からなくても御霊によって導かれなさいと言います。その道は長くて疲れます。危険で落とし穴だらけです。きっと途中で死にます。しかし結果はあなたが今まで経験したことよりずっと栄光に満ちています。
私たちは常に戸惑いを感じます。イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを変貌の山に連れて行きました。私たちが日曜日に教会に来るような感じです。私たちも時々人生で素晴らしいところにたどり着きます。ペテロも変貌の山で、これが旅の終わりだと思いました。もう十分に迷いました。ここに幕屋を造りましょう、いつまでもここに残りましょう、と言いました。
【ルカ9:33】ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」ペテロは自分の言っていることが分かっていなかった。
ペテロがどんな意図をもってこのように言ったのか、はっきりとはわかりませんが、もしかしたら、イエス、エリヤ、モーセとともにいるのは、あまりにも素晴らしかったからなのかもしれません。あるいは、山から下りたら何が待っているのか、それを考えていたのかもしれません。ペテロはその意味では正しかったのです。山を下りたら、プフ!一人の人が、特別に悪質な悪霊に取りつかれた一人息子を助けてくださいと叫んでいたのです。やっぱり山を下りなければよかった。園にいたらよかった。
でも私たちはいつまでも園に残るはずではありませんでした。園はとても良いところでしたが、新しいエルサレムはそれよりもはるかに良い所なのです。イエスはペテロに理解を求めました。山に連れて来てイエスの変貌する姿を見せたのは、未来の栄光を垣間見させたかったからです。未来のまだ見えていない栄光への道で、信仰を与えたかったのです。あなたの信仰が強められ、あなたの希望が強められるためです。
変貌の山は最終目的地ではありません。一つの安息、オアシスに過ぎません。私たちはまだ約束の地に向かう途中です。満ち満ちた御国への道です。アーメン。
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