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「地の塩、世の光」マタイ5:13〜20

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


マタイ5:13〜20

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。

あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。

また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。

ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。

わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。

先週から、教会の聖書朗読でマタイ5章の山上の説教を読んでいます。今週は有名な「地の塩、世の光」までたどりつきました。これはだれのことでしょうか。実際にイエスはだれに話しているのでしょうか。

イエスの目の前にいるのはユダヤ人でした。つまりイスラエルの民です。彼らが地の塩、世の光であるべきものなのです。




⚫️世の光

世の光であるとはどういう意味なのでしょうか。どうすれば世の光になるのでしょうか。

世の光を一言で言うと、世の中で神の似姿でいることです。つまり神にあるすべての良さが自分から光って出て行くことです。神の真、善、美、愛、知恵などが自分から光って出ていく。それが神の似姿、世の光として生きることです。

それでは、イスラエルはいつ世の光となったのでしょうか。このストーリーはアダムとエバから始まります。彼らはこの世の中で最初に神の似姿として創造されました。そして神のことばを語る唯一の生き物で、善と悪を知ることができる神の似姿で、神の名によって世界を支配する役割も与えられていました。しかしアダムとエバがその役割において失敗して闇を選んだので、エデンの園から追い出されました。エデンの園を灯台と考えてもいいと思います。山の上で光っている灯台の、灯(ともしび)の部分が人間なのです。神の霊が宿っている人間がその光です。しかし神様は灯台から、その光っているはずの人間を追い出しました。しかし人類はどんどん闇の方に進んでいったので、最終的に神はエデンの園を大洪水で滅ぼしました。



今度は神様はアブラハムにあって新しい世の光を選びました。世の光になるはずなのですが、聖なる神殿はまだありませんでした。与えられる約束はありましたが、まだ待っている状態でした。光となる祭司もいませんでした。祭司は灯の世話をするのが仕事なので光と言いました。



モーセとアロンの時代に祭司と祭司がささげるいけにえ制度が与えられました。そしてイスラエルの民がどのように光として歩むべきか、その正しい生き方を教える律法も与えられました。ヨシュアが聖地に彼らを導き入れました。



ダビデ、ソロモンの時代に神殿の準備が完了して神殿が建てられました。シェバの女王がソロモンのところを訪れて、神殿が灯台として働く姿を見ました。イスラエルが周りの世界に光を輝かせ、世の光として機能していました。神の礼拝が行われていて、知恵も正しさも周りに明らかでした。

しかしイザヤ58章を見ると、イスラエルの民はアダムのようにまた失敗していました。

【イザヤ58:3b〜5a】見よ。あなたがたは 断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる。見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかのためであり、不当に拳で殴るためだ。あなたがたが今のように断食するのでは、いと高き所に、その声は届かない。わたしの好む断食、人が自らを戒める日とは、このようなものだろうか。

彼らは断食しても表面的で、礼拝が行われていても心の中も行いも光とはなっていませんでした。神の義とあわれみを行っていなかったのです。飢えている人や抑圧されている人を無視していました。

イエスは山の上からイスラエルに警告を与えます。イスラエルは光を輝かせなければならかったのです。ここで大切なことは、イエスはイスラエルに「あなたがたはもはや光ではない」とは言いませんでした。あなたがたは世の光であり、地の塩であるのでこのように振る舞いなさいと言いました。世の光だからその光を隠すなということなのです。実際にイスラエルは地の塩であり世の光でした。なぜならイスラエルは王である祭司の民だからです。



イエスが単に「地の塩、世の光」という良い例えを思いついて使っただけだと思わないでください。今の時代で言うなら、「あなたがたは光ファイバーです。ファイバーが折れたらどのように知識とデーターが広まるのでしょうか。」というようなただの例えではないのです。イスラエルを他の国々と区別するのは何かというと、彼らが祭司として任命されていることで区別されます。祭司は世の光として働く者たちだからです。

【出エジプト27:21】会見の天幕の中で、さとしの板の前にある垂れ幕の外側で、アロンとその子らは、夕方から朝まで主の前にそのともしびを整える。これはイスラエルの子らが代々守るべき永遠の掟である。

祭司は朝と夕、神殿にある灯を消えないようにすることが仕事の1つです。燭台は神の光を表しています。それが消えないように守るのが祭司の毎日の大切な役割です。世の光はただ明るくて良いものだね、というだけではなくて、実際のイスラエルの礼拝における役割であることを思い出してほしいと思います。




⚫️地の塩

イスラエルの民は塩をいろいろなささげものの上にかけます。神様は塩味が好きです。塩をかけるのは神様が喜ぶものにするためです。地の塩という言い方を考えたときに、この地で行われる正しい行いを神様が喜ぶものにしてくれる意味があります。

もう一つ塩が使われるのは、香を作るときです。香も常にたかれていて、良い香りがします。神殿は常に良い香りがささげられて、食べ物もおいしい。このように塩は私たちがささげるものを神様が喜ぶものにしています。



私たちはあまりにも旧約聖書からかけ離れている時代に生きています。旧約聖書からかけ離れてしまうと新約聖書を理解することができません。私たちは良いプロテスタントとして、象徴にとらわれず意味だけをとらえようとする傾向があるかもしれません。しかし神様は両方を私たちに与えています。バプテスマの意味を理解して心の中でバプテスマを受けていれば水はいらないというわけではありませんし、聖餐式の意味を理解していればパンとぶどう酒はいらないというわけでもありません。

私たちは常に旧約聖書にもどって、そこから新約聖書を解釈しなければなりません。なにしろ、イエスはユダヤ人、聞いている民もユダヤ人なのですから、前後関係を理解しなければ新約聖書を理解することはできません。新約聖書は新しい時代のものだからと言って、啓蒙運動の後の時代に生きている世俗の現代人が書いたものと同じようなような読み方をすると、すべての意味を間違えてしまいます。なのでそこは気をつけないといけないところです。



「地の塩」は、この全世界を、神様が喜ぶもの、受け入れるものにしてくれるものなのです。律法を守っていれば、彼らの塩は全世界の上にかけられるのです。そうすれば神様はこの世界を滅ぼさない。彼らがこの世のために祈る時に、神様が聞いてくださる。これがイスラエルの祭司の民としての大切な召しです。

私たちはこのストーリーがどのように展開していくか分かっています。イザヤが預言したように、結局イスラエルはこの働きをしないで、神殿で礼拝をささげながらも塩気を失います。それでイエスはさばくために来ました。本当に塩気があるかどうか、本当に光っているかどうか、イエスがさばきます。最終的に、イスラエルはそうではないということでした。それでAD70年にイエスが実際にその燭台を取り除きました。燭台はローマに持ち去られて、ずっとローマにありました。しかし455年にヴァンダル人がローマに侵略したときに、燭台をヴァンダル人の首都カルタゴに持っていきました。その80年後にビザンチン帝国がカルタゴに侵略して533年にコンスタンチノープルへ持っていきました。そしビザンチン帝国のユスティニアヌスⅠ世がエルサレムに送ったらしいのですが、エルサレムにたどり着いたという記録がありません。歴史上から消えました。燭台は取り除かれたのです。

イエスはその代わりに役割を果たしました。イエスは地の上の十字架にかけられて、丘の上で光を放ちました。

今では十字架を見たことがない人はほとんどいないでしょう。イエスが十字架上で行った義の行いは、神様が喜んで受け入れるものになりました。その行いが私たちにもかかっています。私たちがささげるいけにえも神様が受け入れるいけにえになるのです。




⚫️私たちは新しいイスラエルの民として光として何をすれば良いのでしょうか。

・礼拝中心

私たちはバプテスマを通して塩の契約に入りました。塩気があってもなくても地の塩です。世の光です。自分の子どもにもバプテスマを与えてみことばを教えます。みことばを通してどのように正しく生きるべきなのかを学びます。

教会に集まって、子どもたちも一緒に世のために祈りをささげます。そして契約をあらたにします。自分たちをキリストとひとつになったものとして神にいけにえをささげます。



しかしここで止まってしまったら神様は喜びません。

次は私たちが教会から出て、世の中で善を行わなければなりません。

つまり聖礼典によって私たちは光となり、塩となります。そしてみことばは、私たちがどのようにして光となるのか、塩となるのか、教えてくれます。そしてみことばと聖餐式を受けた者として世に出て行って、善を行わなければならないのです。

今日読んだイザヤと詩篇にもたくさん書いてあります。

【詩篇112:9】彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立ち 彼の角は栄光のうちに高く上げられる。

私たちは至聖所の金のようなものです。神様が光で私たちはその光を反射しているのです。

【第一ペテロ2:9】しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

イスラエルに語られたことばは教会に語られたのと同じです。



⚫️教会として何ができるのでしょうか。何をしているのでしょうか。

昨年、ミッション基金に3百万円集まりました。これは今までの3倍です。この献金をウクライナと聖書宣教会の兄弟たちに送ることができました。これは教会にとって良いことです。しかし私たちの周りで苦しんでいる人たちが必要としているのがお金とは限りません。多くの場合、愛が足りない。あるいは真実や導きを求めています。孤独の中で交わりや励ましを必要としているかもしれません。

自分の時間やお金や自分の家庭や子どもさえも自分のものだと思って生きていてはいけないのです。そのように生きている限り、私たちは塩気のないものになります。

周りの未信者が良い生き方をしていても、神の光を放ってはいないのです。

何が善なのか、それを決めるのはこの社会ではなくて、神様なのです。私たちは、本当の善とは何か、真理とは何かをみことばを通して知るのです。

場合によって、日曜日だから仕事に行かないとか学校に行かないのは狂信者に見えるかもしれません。

聖書が教えている一夫一婦制や家庭における夫婦愛の教えに従おうとすれば、差別的と思われるかもしれません。

LGBTQに対する差別があると思われるかもしれないし、平等を否定しているように思われるかもしれません。

このように、この世の倫理と神の倫理が異なることもあります。しかし私たちは神の光を放つことが使命なのです。神の光だけが闇に勝つことができます。

私たちがそれで失敗したら、大祭司であるイエスが光っていない燭台を消して、またあらたに光らせます。7つの燭台の7つの光を考えると、黙示録を思い出します。

【黙示録2:1〜5】エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる──。

わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪者たちに我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。

あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。

けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。

イエスは常に燭台が光るように世話をしています。実際に、今の時代に、燭台が取り除かれている教会はたくさんあります。つまり徐々に消えていく教会はたくさんあります。私たちも忠実でなければ同じようにさばかれます。私たちは塩であり、光です。だから塩気のある塩にならなければいけないし、神の光を放つ光にならなければならないのです。私たちもはじめの愛から離れないように、神様が与えてくださったすべての賜物をもって神を愛して、兄弟を愛して、隣人を愛しましょう。




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