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「天に召されたらどうなるのか」ピリピ1:21-23

説教者:ラルフ・スミス牧師


「天に召されたらどうなるのか」

ピリピ1:21〜23

私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。

私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。


第二コリントコリント5:6〜8

ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。

私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。

私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。

私たちは天に召されたらどうなるのか。それについてハイデルベルク信仰問答でも取り扱っているが、天に召されたあとのことを教える論文などでは今日の2つの箇所が特に引用されている。

それで、この二つの箇所を読んで、このトピックを一緒に考えたいと思う。質問と答えの形で簡単に答えてみる。



⚫️私たちは、死んだらどうなるのか。

私たちは死んだら主のところに行く。たましいが肉体を離れてキリストのところに行く。世を去ってキリストとともにいる方がはるかに望ましいとパウロは言う。天国では罪を犯すことがない。心においても、口においても、からだにおいても、100%完全に罪から解放される。つまり心を尽くして思いを尽くして力を尽くして知性を尽くして神を愛し、兄弟を心から愛する者になる。それがじつに望ましい状態なのである。

私たちは天に召されて、主イエス・キリストご自身と今よりはるかに親しくなって、キリストに近づき、大いに祝福される。そして休み、喜び、平安、平和を完全に与えられる。私たちにとって死は敵だったが、その敵は負けて、キリストが勝利を得たので、私たちにとっては死はこの世からの卒業で、肉体から離れてキリストのところに行くことが死の意味になった。



⚫️はるかに望ましいとはどういうことか。

私たちが死んで、天でキリストとともにいることは、この地上にいるよりはるかに望ましいが、最高の祝福ではない。最高の祝福は肉体から離れることではなく、復活のからだを与えられることである。私たちにキリストと同じように栄光のからだが与えられたとき、教会全体が復活して完成される。私たちはそれを望んでいる。イエス様ご自身が望んでいることを私たちも望む。主の祈りで「御国がきますように」と祈っているが、その中に復活のからだが与えられることも含まれる。最後のさばきで主イエス・キリストの正しさ、愛、恵みが明白に現れる。キリストに対する冒涜が取り除かれて、イエス様の栄光が完全に表れる。私たちが死んだときには今より良い状態になるが、最高の祝福はまだ未来にある。



⚫️私たちがこの世から召されてイエス様のところに行ったら、他のクリスチャンと交わりをすることができるだろうか。

はい、もちろんです。金持ちとラザロのたとえ話にヒントがある。イエス様のたとえ話は寓話などの非現実的なものではなく、現実に起こり得ることを用いている。種のたとえ話などで、蒔かれた種がしゃべったりすると寓話になるが、イエス様のたとえ話は現実的である。

【ルカ16:22〜23】しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。

ラザロが死んだあと、ラザロとアブラハムには交わりがある。金持ちも死んでアブラハムとラザロを見て会話している。これはイエス様の復活の前の状態を表している。イエス様の復活前はだれも天に昇っていくことはできない。復活して天に昇った最初の人間はイエス様である。それで、イエス様より先に死んだ人たちはイエス様の復活、昇天を待っている。ハデスは祝福の場所とのろいの場所の二つに分かれている。ラザロとアブラハムは祝福の場所でイエス様の復活と昇天を待っている。イエス様が昇天してから天に道が開いた。イエス様の昇天前に死んだ祝福の場所にいる人たちとイエス様は一緒に昇って行くことになる。

このたとえ話はイエス様の昇天前の状態を表しているが、ポイントはラザロも金持ちも会話しているということだ。金持ちはこの世のことも覚えている。金持ちは自分の人生において祝福されて、ラザロは苦しんでいた。今までの人生を忘れて、人の名前も忘れてしまうということはない。認識していて、私たちより先に召された人に会って挨拶したり交わりをしたりすることができる。

私たちが天に召されたら他のクリスチャンたちと一緒に礼拝する。黙示録では、天に召された人々が礼拝を行っている。当然のことだが、イエス様を信じる人たちは一緒に礼拝したり賛美したりする。

パウロは死んだらキリストとともにいると言うが、自分たちの罪から解放されて、神を愛して他の兄弟を心から愛することができるようになるので、成長したクリスチャンとなっている。つまりお互いがキリストに似た者となっている。

キリストご自身を見て、キリストご自身に近づいて、自分も兄弟も罪から解放されて、一緒に心から喜び、感謝して、賛美して主イエス・キリストとともにいる。これはこの世にいるよりはるかに望ましい状態である。


行ったことがないのでわからないが、私たちが天に召されたら、そのあとのこの世の有様は分からないのではないかと思う。



⚫私たちの最終的な望みは何なのか。天国なのか。

私たちの最終的な望みは天国ではない。天国は一時的な所である。黙示録で、ヨハネは、新しいエルサレムが天からからこの世にくだってくる幻を見た。主の祈りの中に、御心が天で完全に行われているように地でも行われる日が早く来ますようにという祈りがあるが、天から始まって天で終わるのではなく、新しい復活したからだを持って新しい天と地に住むことになる。

【黙示録14:13】また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ者は幸いである』と。」御霊も言われる。「しかり、その人たちは、その苦労から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」

このみことばのように、肉体から離れている状態は、キリストにあっては悪いことではない。確かに幸いなのであるが、最高の最終的な祝福ではない。復活のからだが与えられて、その新しいからだで神に仕えて、兄弟が互いに祝福し合い、神の御国のために働くことが最高の祝福である。それで私たちは、天国ではなく、新しい天と新しい地を望む。教会全体が復活のからだを得て、新しいエルサレムで主イエス・キリストに仕える者となる。

これは最後のさばきの向こう側である。

【詩篇149:1】ハレルヤ。新しい歌を主に歌え。敬虔な者たちの集まりで、主への賛美を。

このような詩篇は、地上で新しい歌を歌うことを呼びかけているのだが、未来の復活のからだでも私たちは新しい歌を歌い、新しいことを発見し、永遠に成長する。愛、知識、働きにおいても成長し、イエス様に仕える。



●永遠の望みが実現するまでにどのくらいの時間がかかるのか。

黙示録の中に宴会の話がある。新しいエルサレムでも食べる祝福が与えられる。からだを祝福する食べ物が永遠に与えられる。しかし永遠の望みが実現するまでどのぐらいの時間がかかるのかはわからない。教会には二千年の歴史があり、その中で3分の1の人がキリストを告白するようになった。もし同じペースで教会が成長するならあと四千年くらいかかるかもしれない。ただし、教会の歴史をみるとき、急成長することも、伸び悩むこともある。いつまでに福音が全世界に広がるか、いつまでにすべての人がキリストを主と告白するか、それはわからない。でも「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。(マタイ28:19~20a)」と命じたとき、クリスチャンはわずか500人しかいなかった。

すべての国の人々をイエス様の弟子にするのは、じつに大変な命令である。日本は99%イエス様を信じない国である。イエス様が私たちにこの大きな大変な命令を与えてくださったとき、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20b)」と言ってくださった。「ともにいる」ということばは、旧約聖書の中で100回くらい出てくる。ともにいてくださるとは、成功させてくださる、祝福してくださる、という意味である。

【創世記39:2】主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。

【ヨシュア記1:9】わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。

イエス様は私たちに勝利の約束を与えてくださった。その約束は私たちの力や知恵によるものではない。イエス様がともにいてくださるので与えられる勝利である。いつか全世界がキリストを主と告白する日が来る。私たちはその日を待ち望んでいる。「あなたの御名があがめられるように。」と主の祈りにあるとおり、あらゆる国の人々がイエス様をほめたたえ、信じることを告白し、全世界がイエス様を礼拝する者になることを求めている。

私たちは全人類がキリストの命令に従って歩むことを祈り求める。「御国が来ますように」という祈りは、福音の勝利を求めているものである。

そのあとで主イエス・キリストがこの世に再臨して、最後のさばきを行って、私たちに永遠の復活のからだが与えられる。

今からその時までは長いかもしれないが、永遠と比べたら取るに足りない時間である。

【ローマ8:18】今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。

千年、四千年、五千年、一万年は永遠と比べたら取るに足りない短い時間である。そのように思って良いと思う。



●私たちは、そのような望みのある大きな使命が与えられている者としてどうやって生きればよいのか。

【第二コリント5:9】そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

これが私たちに与えられていることである。主に喜ばれることを求めて生きる。毎日の生活の具体的なことにおいても、心からの祈りにおいても、神の御国を第一に求める者として歩む。イエス様が約束してくださった御国の完成を求める。


私にとって生きることはキリスト。それが私たちにとって望ましい生き方である。


聖餐式の時、罪を悔い改めて、ここから遣わされて、神様の御国のために生きる器として用いてくださるように祈る。この心、この思い、このからだを神様にささげる。そのことを覚えて聖餐式を受ける。




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