バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者ら中からよみがえらせた神の力を信じたからです。背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。
コロサイ人への手紙全体も今日の箇所も、具体的に神の御国を求める地域教会にとって、とても大切なところだと思う。その観点からこの箇所を考えるとき、二つのことを思い出す。
今日はそのことを一緒に考えたいと思う。
一つは、パウロはなぜ逮捕されているのか。
もう一つは、パウロ自身とパウロが手紙を書いた教会の文化的な環境についてである。
️なぜパウロは逮捕されているのか。
【使徒の働き21:18、21】翌日、パウロは私たちを連れて、ヤコブを訪問した。そこは長老たちがみな集まっていた。…ところが、彼らがあなたについて聞かされているのは、あなたが、異邦人の中にいる全てのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている、ということなのです。
パウロは三回目の伝道旅行からエルサレムに戻り、異邦人から集めた献金をエルサレムの教会に届けた。様々な困難の中にある貧しいエルサレムの教会を覚えて、彼らを助けるために献金を集め、エルサレムに上って来たのである。
しかしエルサレムでヤコブたちに会い、ユダヤ人のクリスチャンたちがパウロについて「子どもに割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている。」と思っていた。エルサレムにいるユダヤ人は、そのようにパウロの教えを誤解していた。
それでパウロはヤコブのアドバイスに従って神殿に入ったが(使徒21:22~25)、ユダヤ人たちはパウロが異邦人を連れて神殿に入ったと勘違いして暴動になり、結局パウロは逮捕されてしまう。そしてカイサリヤに移されて(使徒23:33~35)そこで二年間監禁されていた。そこからローマに移されて、さらに二年間軟禁され、裁判を待っていた。AD60年ごろのことである。パウロはその二年の間に四つの手紙(エペソ、ピリピ、コロサイ、ピレモン)を書いた。
パウロがこのように逮捕され監禁、又は軟禁されたのは、パウロの教えが誤解されたからである。なぜ誤解されたのかというと、パウロの教えがじつに難しかったからです。
コロサイ書の今日の箇所も誤解されやすい箇所だと思うが、ほかによく引用されている逆説的で誤解されやすいのは第一コリント7章である。
【第一コリント7:19】割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです。
今の私たちはこの箇所を読んでも逆説に思わないかもしれないが、ユダヤ人にとって一番大切な命令は割礼であるので、割礼を受けなければモーセの律法を全部捨てるようなものだった。割礼は取るに足りないと言うなら、アブラハム契約もモーセの律法も取るに足りないと言うのと同じであった。割礼はいらないと言って神の命令を捨てたパウロが神の命令を守りなさいというのは何なのかと思うわけだ。私たちとは受け取る感じが違っている。割礼がユダヤ人にとってどんなに大事な命令だったのかを思い出すと、パウロの言うことは確かに不思議だと思う。
コリントの教会には誤解されなかったかもしれないが、エルサレムのユダヤ人には誤解されてしまった。
今日の箇所はもっと誤解される箇所である。「私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」この債務証書とは基本的にモーセの律法である。明らかにコロサイの教会に影響を与えようとしている教師たちは、旧約聖書の教えに従わなければ本物のクリスチャンになることはできないと教えていたようだ。パウロは、私たちを責め立てる債務証書がモーセの律法であると言う。それを神が十字架に釘付けにして無効にした。まるでモーセの律法は全く関係ないかのように聞こえる。
このようにパウロのモーセの律法の教えは少しだけ複雑だが、神の御国を求める地域教会にとってはとても大切なのである。
パウロがモーセの律法について話しているときに考えなければならないことは、モーセの律法は影で、キリストがその成就であるということだ。パウロはダビデの観点からモーセの律法について考えているのではなく、新しい契約に立って、全ての契約が成就されたという観点から、主イエス・キリストにあってモーセの律法について語っているというのが一つの大切な前提である。
そしてもう一つ大切なのは、モーセの律法が契約の教えであり、その古い契約の時代は終わったという観点と、モーセの律法の教えがイエス様において成就されたという二つの観点からパウロが語っているということだ。
モーセの教えのどの箇所を見てもイエス様について教えている。だからいけにえ制度を学ぶことが大事なのだ。モーセの律法を契約として考えるなら、いけにえをささげなければならないが、その意味ではモーセの律法は終わった。私たちは血を流すいけにえをささげたりしない。しかし、いけにえ制度は私たちにイエス様の十字架の意味を教えるので、大切な教えである。いわゆる社会のための教えも私たちに知恵を与える。モーセの教えに書かれているすべてのことは、イエス様を指してイエス様を私たちに具体的に教えてくれるものだ。だから御国を求める者は、モーセの教えをイエス様という眼鏡をかけて読み、私たちがキリストにあってどのように歩むべきかを考える。
旧約聖書を読むときに、モーセの律法に従って歩みなさい、神の命令を守りなさい、神の道に歩みなさい、という言い方があることに気づいくだろう。しかしパウロの手紙の中ではそのようなことは一切言われていない。むしろ、愛のうちに歩みさない、キリストにあって歩みなさい、というように書いてある。モーセの教えはイエス様において成就されたので、イエス様にあって歩むのは、新しい契約にある者がモーセの律法を成就された者として守ることになる。契約としてではなく、みことばとして守る。その区別は非常に大切だと思う。
パウロは、契約としてのモーセの律法は終わり、新しい時代になったという観点から話すが、モーセの律法が与えられた時点では、創世記の世界を見て「新しい光が与えられた、素晴らしい教えが与えられた」と感謝して受けていたと思う。
モーセが律法を与えられて、時がたつにつれてだんだん崩れてしまって、天幕システムはだめになり、第一サムエル4章でペリシテ人にさばかれた。
ダビデの時代、ソロモンの時代は新しい啓示、新しい光が与えられて、モーセの契約の時代よりはるかに素晴らしい祝福が与えられている。それを感謝して受けて、ダビデたちは新しい光が与えられたことを喜ぶが、これも何百年かたって崩れてしまって、BC586年にバビロン帝国のネブカデネツァルによって神殿が破壊されてその時代が終わった。
しかし神様はまた新しい契約の時代を与えて下さり、エズラたちが神殿を立て直すときからイエス様までの新しい契約の時代を与えて下さった。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言の書物が与えられて、もっと素晴らしい光が与えられた。しかしイエス様の時代になってパリサイ人たちが律法に自分たちの教えをたくさん付け加えてしまった。
【マルコ7:13】このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。
イエス様はこのようにパリサイ人たちを非難する。
しかし新しい契約が与えられたとき、旧約の時代のように繰り返し失敗してだめになって、また新しい契約が与えられなければならないということはもうない。イエス様は十字架上で私たちの罪のために死んでくださって、よみがえって、私たちを律法によって責める人々をさらしものにした。イエス様は十字架上でモーセの教えが要求するすべてのさばきを受けてくださった。その意味でモーセの教えを十字架につけたとパウロは言う。
権威ある者をすべてさらし者にしたのは復活の話である。ローマ帝国の最高の力は人を拷問して殺すことである。それ以上のことはできない。ユダヤ人にとっても同じように死は人を恐怖に陥れる最高の武器である。イエス様は十字架上でこの世の権威、悪魔と悪霊ができることをすべて受けて、拷問を伴う十字架刑を受けて、私たちのために死んでくださった。イエス様がよみがえったことによって、ローマ帝国、ユダヤ人のリーダーたち、悪魔、悪霊たちをさらしものにした。イエス様は勝利を得て、この人たちは何もできないということを公然と表した。イエス様の使徒たちの務めは、全世界にイエス様の勝利を宣言することである。なぜパウロが逮捕されたのかを考えながらこの箇所を読むとき、具体的に考えることができると思う。
私たちはイエス様を信じることによって、すべての背き、すべての罪が赦された。
●パウロの文化的な背景と、パウロが手紙を書いている教会の文化的な背景について
三つある。特にパウロはそうであるが、教会についても言える。
・ユダヤ教の背景
ユダヤ人の背景は異邦人の教会にはないと思うかもしれないが、読んでいる聖書は私たちの持っている旧約聖書なので、割礼について言われているし、周りのユダヤ人もいるし、ユダヤ人の教えやモーセの教えを読んだり考えたりしている。大切な文化の背景の一つである。パウロはもちろんパリサイ人の中のパリサイ人である。
・ローマ帝国の背景
パウロはコロサイ人への手紙を書いている時点でローマにいる。パウロはローマの市民権も持っている。
・ギリシャの背景
ギリシャの哲学、文化の影響を受けている。アレクサンダー大王の時代から、ギリシャの文化を積極的に非常に深く広めたので、パウロたちの時代までその影響が残っていた。それでパウロが新しい文化を築き上げるように教会にみことばを教えている。
【 コロサイ2:16~17】こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。 これらは来るべきものの影であって、本体はキリストにあります。
ユダヤ人の場合は、安息日や食べ物について人をさばくことはある。私たちの場合はない。日本ではだれも割礼について私たちをさばかないし、安息日についてもさばかない。日本には日本の色々な習慣があって、場合によっては守っても守らなくても問題にならないこともある。
【第一コリント9:20】ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。
律法の下にある人たちにはー私自身は律法の下にはいませんがー律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。
律法を持たない人たちにはー私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですがー律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。
弱い人たちには弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。
すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。
私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。
ユダヤ人と一緒にいるときに、パウロはユダヤ人の食べ物のルールを守る。
異邦人と一緒にいるときに、ユダヤ人が食べない物でも食べる。
日本人の家では靴を脱ぐ。アメリカで人の家に入るときはほとんどの場合は靴を脱がない。それはどうでもいいことである。
しかし日本の習慣で、偶像礼拝につながることがある。そのところでは私たちは妥協してはいけない。その所に従ってはいけない。教会のお葬式のやり方は日本の普通のやり方とかなり違う。それはとても大切なことである。
新しい文化を築き上げることは、みことば、キリストに従って歩むことである。その新しい文化を簡単にまとめて言うなら、私たちの新しい文化の中心は毎週の日曜日の礼拝である。このように毎週集まって、いっしょに祈って神を賛美してみことばを求めるのは、新しい文化の中心である。これより大切なことを私たちはしていない。その認識は十分に深くないかもしれないし、人間の観点から見れば大したことはないかもしれないが、みことばの観点から見ればこれ以上に大切なことをやっていないと思う。実際にここに来ることができなくて、インターネットで見ている人たちも、いっしょに礼拝に加わっていると思って良い。礼拝を行うことはクリスチャンにとって一番大切なことである。人間は神を礼拝する者として創造されて、私たちは永遠に一緒に歌いながら、食べながら、交わりをもって主を礼拝する。
新しい文化は、パウロの時代はローマ帝国の文化に逆らっているし、ギリシャ哲学の文化に逆らっている。当時のユダヤ人のモーセの教えを曲げて作っている文化に対してもパウロは逆らっている。私たちは新しい文化を築き上げるために、アメリカの文化、ヨーロッパの文化、日本の文化に逆らって歩むが、毎週の礼拝を守ることは、その意味が非常に大きい。新しい文化の土台はキリストの十字架と復活である。イエス様とともに死んで、イエス様とともによみがえって、私たちは罪が赦された者としてお互いを赦し合う。イエス様が私たちを愛して、十字架上で私たちのために死んでくださったその愛を与えられた私たちは、お互いを愛し合う文化を築き上げなければならない。そのために罪の赦しは非常に大切である。
キリストにあって私たちは自由にされた。
自由にされた者として歩んで、神の愛を求めて、そして新しい文化を築き上げる者にはイエス様から祈りが与えられる。それは主の祈りである。
永遠なる神様を父と呼ぶことができるのは私たちの特権である。
神の御国が来ることは私たちが地域教会として求めていることである。
みこころが成就するように。
私たちがお互いを赦し合うように、私たちの罪を赦し、悪魔から守って、毎日のパンを与えて下さい。御国を築き上げるために、日ごとのパンと罪の赦しと悪魔から守られることは大切である。
私たちが御国を求める者として、新しいキリストの文化を求める者として、このローマ書のみことばが大切だと思う。
【ローマ12:1~2】ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
このように、自分を神にささげて、神のみこころを真剣に求め、心を新たにすることによって求める者は、キリストにあって歩む。周りの文化と調子を合わせたり、圧倒されたりしない。イエス様がすべての権威あるものをさらし者にしたように、私たちがキリストにあって歩むなら、この世に対して勝利を得るのである。
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