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「御国の福音」コロサイ3:9〜13

説教者:ラルフ・スミス牧師


コロサイ3:9〜13

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちに従って新しくされ続け、神の知識に至ります。

そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。

互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

パウロが伝えている福音は御国の福音であり、キリストの王国の福音である。

そのことを今日一緒に考えたい。

王国の福音について考える時、創世記の歴史を思い出すことは役に立つと思う。創世記1章から11章には全人類の歴史が書かれている。

神様が全世界を創造し(1~2章)、アダムが堕落し(3章)、その堕落がどんどん広がってエバの子孫と蛇の子孫のたたかいに発展していく(4~6章)。

エバの子孫はノアとその家族だけになってしまったので蛇の子孫の勝利に見える。それで神様が全人類をさばいて、ノアとその家族だけがエバの子孫として生き残る(6~7章)。ノアの洪水の後でノアの子孫がどんどん増えるが(8~10章)、バベルの塔を作ってまた神様に逆らう話になる(11章)。

エデンの園でアダムが神様に逆らったように、ニムロデはバベルの塔を作って人類を導いて神に逆らった。それで神様は人類をさばいて言葉を混乱させたので、人類は地の全面に散らされて、その一致は失われた。創造、堕落、洪水、バベルの塔のストーリーである。


創世記12章から聖書の終わりまではアブラハムとアブラハムの子孫の話である。

バラバラになってしまった人類の中から、神様がアブラハムを選び、アブラハムから新しいスタートをする。アブラハムとその子孫は神の祭司の働きをするために、特別に選ばれた民である。聖書は黙示録までずっとアブラハムとその子孫について教える。私たちもアブラハムの子孫である。

ペンテコステの時からアブラハムの子孫の定義は非常に大きく変わった。

創世記17章の時点ではアブラハムの子孫は割礼を受けた者ということだったが、使徒の働き2章からはアブラハムの本当の子孫はバプテスマを受けた者ということになった。バプテスマを受けた者がアブラハムの子孫として養子にされるのである。だからユダヤ人であってもイエス様を信じてバプテスマを受けなければ、アブラハムの子孫ではなくなる。アブラハムの本当の子孫は、イエス様を信じてその信仰を告白してバプテスマを受けた者たちである。

ペンテコステの時から御霊が与えられて、主イエス・キリストの弟子たちは様々な国の言葉で話し、バベルの塔のさばきは取り除かれた。イエス様の十字架と復活によってエデンの園のさばきとバベルの塔のさばきが取り除かれ、御霊が与えられて人類は新しく一つになった。イエス様が御霊を通して神の御国を建て上げる働きをしている。


パウロの福音は御国の福音であることを強調して考えてみる。

私たちは前回、コロサイ3:5と3:8で罪に対してたたかうことを学んだ。

⚫️ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。(3:5)

十戒の第七戒が特に強調されている。

⚫️しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。(3:8)

十戒の第六戒が特に強調されている。


そして今日の箇所では、罪に対してたたかうことではなく、互いに偽るなとパウロは教える。

⚫️互いに偽りを言ってはいけません。(3:9a)

この話のあとで、ユダヤ人もギリシャ人もなく…と続くが、それは何を意味しているのだろうか。そのヒントはガラテヤ書にある。

【ガラテヤ2:11〜14】ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。彼らが福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないのを見て、私は皆の面前でケファにこう言いました。「あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば、どうして異邦人に、ユダヤ人のように生活することを強いるのですか。」

ペテロ(ケファ)は、エルサレムからユダヤ人が来るまでは異邦人と一緒に食事をしていたのに、ユダヤ人が来ると異邦人から離れて、ユダヤ人だけのグループと一緒に食事をしてしまった。それでパウロは皆の前でペテロを叱らなければならなかった。ペテロは真理に従って歩まずに偽っていた。しかしもはやギリシア人もユダヤ人もない。主イエス・キリストの教会は新しく生まれ、一致が与えられている。ユダヤ人とギリシア人の区別をすることが偽りなのである。パウロはそのことをコロサイの教会に強調して話していると思う。


⚫️あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。(3:9b~10a)

これはバプテスマの話である。

【ガラテヤ3:27】キリストに着くバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。

バプテスマを受けた者は新しい服を着ているようなものだ。じつはこれはレビ記にその背景がある。

【レビ8:6~7】モーセはアロンとその子らを近づかせ、彼らを水で洗った。そしてアロンに長服を着せ、飾り帯を締め、その上に青服をまとわせ、さらにその上にエポ手を着せた。

祭司が任命されるときに、洗い清められて新しい服を着る。バプテスマは私たちが主イエスキリストにあって祭司になる任命式である。だからパウロはここでバプテスマを指していると思う。古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着ることがバプテスマの大きな意味である。古い人はアダム、新しい人はキリストである。

⚫️新しい人は、それを造られた方のかたちに従って新しくされ続け、神の知識に至ります。そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(3:10~11)

キリストがすべてのうちにおられると言うのもバプテスマの話である。バプテスマを受けることによって御霊が与えられ、キリストが私たちのうちに住んでくださるのである。

⚫️ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。(3:12)

3:12は「ですから」で始まる。3:5も同じように「ですから」で始まった。「ですから」で始まる時はいつも、「ですからこのように歩みなさい」とパウロは教えている。

神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」はイエス様のバプテスマを思い出す。イエス様がバプテスマを受けた時、御父が天から「これはわたしの愛する子」と宣言をした。この言い方はイザヤ書42章を指している言い方である。

【イザヤ42:1】見よ。わたしが支えるわたしのしもべ。わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。

私たちのバプテスマはイエス様のバプテスマの型に従って与えられるものである。バプテスマを受けた者は、イエス様が「私の愛する子」と宣言されたように、神に愛される。

聖なる者になったというのは、罪が洗いきよめられて赦されたということである。それでパウロはクリスチャンのことを聖徒と呼ぶ。キリストにあってきよくされた者だからである。「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」になったのがバプテスマの本当の意味である。

そのようになった者として「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。

3:5に偶像礼拝の五つのリストがあるように、3:12には愛されている者としての五つのリストがある。愛されている者の五つのリストは、主イエス・キリストのこととして考えて良いと思う。

・深い慈愛の心

文字通りの訳は「深い慈愛の内蔵」である。日本語では通じない。パウロの時代、気持ちは内臓から来ると考えられていた。自分の中から本当のあわれみをもって互いを愛する。ユダヤ人もギリシア人もない。

・親切、謙遜、柔和、寛容

この言葉ひとつひとつを考え、瞑想するのは良いと思うが、ピリピ書の中にこのように書かれている。

【ピリピ2:3】何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。

イエス様ご自身がへりくだって、本当の親切や寛容の模範を私たちに示してくださっている。

【ピリピ2:6】キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

イエス様は私たちの罪を負って十字架上で死に、そしてよみがえった。私たちをご自分よりも大切だと思ってくださった。イエス様こそ親切でへりくだっていて、柔和で寛容である。

そのイエス様のように歩みなさい。それはバプテスマを受けた者としてふさわしい歩みである。

⚫️互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(3:13)

ユダヤ人と異邦人が一緒に礼拝し、一緒に生活するのは、お互いに非常に忍耐が必要である。

異邦人とユダヤ人は食べる物が違うし、食べ方も違う。スキタイ人と書いてあったが、スキタイ人は未開人の中の極端な未開人である。スキタイ人が私たちの教会に来たら、目に入るより前にまず鼻に入る。遠くからでもわかるような非常にきつい臭いがあるからだ。多分コロサイの教会にスキタイ人がいたので、パウロはこのように言っていると思う。他のところでスキタイ人の話は出てこないし、コロサイの教会にいないのなら、わざわざこの話をする必要もないと思う。教会の中に、ユダヤ人、異邦人、スキタイ人などがいて、お互いに忍耐し合う必要がある。忍耐の意味を広く考えると、習慣の違いもあるので、罪の話だけではない。互いに不満を抱いても、それを赦し合わなければならない。

主イエス・キリストの御国は罪の赦しの御国である。罪が赦された私たちなので、互いに赦し合わなければならない。

【コロサイ1:13〜14】御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

「暗闇の力」の文字通りの訳は「暗闇の権威」であり、「愛する御子のご支配」の文字通りの訳は「愛する御子の御国」である。御父は私たちを暗闇の権威から解放し、愛する御子の御国に移してくださった。出エジプトの話である。

バプテスマを受けたことにより、私たちの国籍は変わった。暗闇の権威ではなく、愛する御子の御国に移された。そして私たちはエジプトから出て、神の約束の地に入ることができた。罪の赦しの王国である。罪が赦された私たちは、キリストに愛され、キリストの王国に受け入れられた。だから、パウロが王国の福音と言うとき、異邦人とユダヤ人の区別はあってはいけない。日本人とアメリカ人も、ロシア人とウクライナ人の区別もあってはいけない。ロシアの教会もあり、ウクライナの教会もある。どのような状態にあってもお互いを受け入れて、イエス様を信じる者はイエス様を信じる者らしく歩んで、一緒に聖餐をいただき、神様の御国を求める。御国は一つ、神様の民も一つである。だからお互いを愛し合って受け入れて、お互いの罪を赦さなければならない。私たちは神様に赦されているからである。

【マタイ18:21b~22】「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。…」

赦すのは490回ではなく、数えないという意味である。そしてこのあとイエス様は主君に一万タラントの負債を赦された家来の話を続ける。主君は家来をさばくつもりだったが、家来がひれ伏して主君に憐れみを乞い求めたので、その家来を赦した。

【マタイ18:27】家来の主君がかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。

しかしその家来は主君に赦されたのに、自分に負債のある仲間を赦さず、憐れみを乞い求めたのに彼を牢に放り込んだ。

【マタイ18:30】彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。

彼の仲間たちがこれを見て心を痛め、主君に話したので、主君は怒った。

【マタイ18:32〜34】

「悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。」こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。

そしてイエス様はこの話の最後にこのように言う。

【マタイ18:35】あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。

私たちは、自分たちに罪を犯す者を赦さなければならないことをイエス様は非常に強調する。主の祈りの中にも「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」という祈りがある。

山上の説教の中でそのポイントが強調されている。神様に赦されたので、私たちはキリストの王国に受け入れられる。だから私たちはお互いの罪を赦し合わなければならない。お互いを忍んで、耐えて、愛して、イエス様の御国を第一に求める者として生きる。私たちは深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身につけた者として歩むように神様に招かれている。そのことを覚えて聖餐を受ける。

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