説教者:ベンゼデク・スミス牧師
今日は復活節第七主日で、復活節の最後の日曜日になります。
来週の日曜日は、聖霊降臨日です。
今日の朗読箇所は、復活がもたらす生き方と結末について私たちに教えてくれています。復活によってストーリーがどのように変わるのか、最終的に私たちのストーリーがどのように終わるのかを、イースターの文脈から見て考えたいと思います。
まず、三つの箇所を簡単にみて、最後に黙示録の箇所に注目したいと思います。
⚫️使徒の働き16:16〜34
さて、祈りの場に行く途中のことであった。私たちは占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させていた。彼女はパウロや私たちの後について来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫び続けた。何日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り向いてその霊に、「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と言った。すると、ただちに霊は出て行った。
彼女の主人たちは、金儲けする望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人たちのところに引き立てて行った。そして、二人を長官たちの前に引き出して言った。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、受け入れることも行うことも許されていない風習を宣伝しております。」群衆も二人に反対して立ったので、長官たちは、彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた。そして何度もむちで打たせてから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた観衆は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはねた。
真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。それから二人を家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ。
パウロとシラスはピリピにいました。そこでむちで打たれて、牢に投げ込まれました。そこから彼らがどのように救い出されて、さらに看守をどのように救い導いたのでしょうか。
看守とその家族はその夜のうちにバプテスマを受けて、証しした人々の傷を洗い、癒しました。
最終的な状態は、救われた人々がバプテスマを受けた人々とともにみんなで宴会をして喜んでいます。この小さなストーリーを通して私たちは歴史を見ます。証し、苦しみ、救い、新しいいのちと宴会の喜びの状態です。私たちはパウロとシラスがやったようにその良い知らせを全世界に知らせなければなりません。
イエスが苦しんで十字架にかけられてから復活するなら、イエスについていく私たちも当然苦しんで生きるはずです。私たちはその苦しみから逃げてはいけないのです。正しい者の苦しみは、最終的にイエスの勝利につながるからです。群衆に打たれないように黙ってはいけません。牢から逃げてしまうと、神様が私たちに与えようとしている大きな機会を失うことになります。だから私たちは苦しみから逃げないことが大事です。
イエスが復活したなら、私たちは常に勇敢で喜びをもって生きるべきです。このからだに害を与える者たちを恐れてはいけません。
【ルカ12:5】恐れなければならない方をあなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。
イエスが復活したなら、私たちはバプテスマを通して新しいいのちに加わることができます。私たちはいのちの木を手に入れることができます。そして神の都に入ることができます。私たちは家族とともに喜びの宴会に入ることができるのです。それがこの短いストーリーが話していることの一つなのです。復活したイエスを信じて生きるのなら、このような生き方になります。
⚫️詩篇97篇
主は王である。地は小躍りせよ。多くの島々は喜べ。
雲と暗黒が主を囲み 義とさばきが御座の基である。
火は御前に先立ち 主の敵を囲んで焼き尽くす。
私の稲妻は世界を照らし 地はそれを見ておののく。
山々は主のみ前にろうのように溶ける。全地の主の御前に。
天は主の義を告げ 諸国の民はその栄光を見る。
すべて偶像に仕える者 偽りの神々を誇る者は恥を見る。すべての神々よ 主にひれ伏せ。
シオンは聞いて喜び ユダの娘たちも小躍りしました。主よ あなたのさばきのゆえに。
主よ あなたこそ全地の上におられる. いと高き方。すべての神々を超えて 高くあがめられています。
主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は 主にある敬虔な者たちのたましいを守り 悪者どもの手から 彼らを救い出される。
光は 正しい者のために蒔かれている。喜びは 心のすぐな人のために。
正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。
イエスは復活して天に昇られて、今は王座にすわって栄光と権威と力を得て支配しています。だから全地は喜んで主を礼拝すべきです。この詩篇はイエスが復活する前に書かれているのですが、イエスが復活したからといって、この詩篇が意味を失うわけではありません。逆に意味が深くなります。主の支配を喜ぶ理由が増しました。
この詩篇は、イエスが復活して神の右に座して支配しているならさばきが来る、という約束です。この詩篇を見ると、神が王座にすわって、天使に囲まれて、炎があって、全世界が神の栄光と力を見ています。シナイ山でイスラエルが神の雷や栄光を見た時に恐れたように、全世界がそうなるという約束なのです。
じつはこれが礼拝の場面なのです。神の御前に出た私たちは礼拝せずにいられないのです。
そして神の御前に来るとき、善と悪、光と闇が分けられます。それで聖徒たちが神の燃える火できよめられ、悪者は焼き尽くす火で燃え尽きます。
この詩篇が語っている場面は常に天で行われていることなのですが、同時に私たちが毎週神の御前に来た時に行われることだし、私たちの人生の終わり、歴史の終わりに行われることでもあります。
⚫️ヨハネ17:20~26
わたしは、ただこの人々のためだけではなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたがくださった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」
イエスが私たちのために祈っています。花婿が花嫁のために祈っているのです。そしてキリストの復活のあと、私たちがこのような教会になるように祈ってくれています。
【ヨハネ17:22】またわたしは、あなたがくださった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
神様はイエスにどのような栄光を与えたのでしょうか。この栄光を、今度はイエスが私たちに与えて、それによって私たちは完全に一つになります。その栄光は十字架の栄光です。苦しみと死と復活の栄光なのです。十字架が私たちの栄光だから、私たちはこのように十字架を壁にかけたり、あるいは十字架を首にかけたり、十字を切ったりします。これは私たちがイエスから頂いた栄光です。これによって私たちは一つとされています。お互いはイエスにあって一つです。バプテスマを通して私たちがイエスに入って一つとなります。イエスを通して御父とも御霊とも一つになります。
私たちはここ何週間かヨハネの福音書を礼拝で朗読してきました。ちょうど先週はイエスが御霊を送る約束をしました。今週は三位一体の一致が教会に与えられるように祈っています。来週はこの約束の成就です。御霊が降って私たちを一つとします。どのような形で一つなのかというと、御霊が御父と御子を一つにしてくださるように、同じ御霊が私たちとイエスを一つとしてくださいます。イースターの節に、このようなことを瞑想してほしいと思います。
⚫️黙示録22:12~14、16~17、20~21
「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えてくる。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。
「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。
これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべてのものと共にありますように。
今日、一番注目したい箇所です。
聖書の一番最後のことばです。そして私たちが生きている世界の終わりのストーリーを話しています。
歴史全体の基調を定めることばです。
イエスが復活したら、この世はどのように終わるのでしょうか。イエスご自身が私たちに語っています。このように終わるように祈っていなさい、と言われます。人生の終わりと生きる意味が見えます。私たちは天国を垣間見て、神様ご自身を見て、復活して栄光を受けたイエスご自身のことばを聞きます。イエスは十字架を越えた向こう側で語っているのです。
そのことばを聞いてみると、始まったように終わることがわかります。イエスはご自分のことを、アルファでありオメガである、最初であり最後である、初めであり終わりである、と言います。確かに神様は初めに全世界を御子であるみことばを通してお造りになりました。そして歴史の真ん中でイエスを通してすべてを新しくしました。イエスにあって世界が一度死んで葬られ、よみがえりました。歴史の終わりにはイエスが戻って、イエスを通してすべてが新しくなります。最後が最初につながります。
最初はある木のそばで始まりました。善悪の知識の木で始まったストーリーは、いのちの木で終わります。いつ終わるのかというと、イエスは「すぐに来る。」と言いました。このことばは二千年間教会を大きく混乱させたと思います。これは二千年前に語られたことばで、なぜイエスはまだ帰ってきていないのか、と思っています。そしてどの世代でも、私たちが最後の世代だと思って生きている人たちがいます。
じつは、イエスが戻ってくるのはいろいろな意味があります。簡単に言うと四つあります。
1、私たちの人生の中でイエスは何度も来ます。主の日は歴史の中にたくさんあります。さばきが行われるたびに、奇跡が行われるたびに、救いと恵みが与えられるたびに、イエスが来ているのです。
2、AD70年に神殿が破壊され、古い世界を象徴する建物を破壊して、全世界を新しくしました。それがこの手紙を受けている教会が経験したことなのです。手紙を受け取った人々にとって、主はすぐに来ました。
3、私たち個人にとって、いつイエスが来るのでしょうか。いつかそんなに遠くない日に私たちは死に、天に昇って、イエスが私たちを迎え入れてくださいます。私たちがイエスに出会うのは、そんなに先ではありません。
4、イエスは世界の終わりに来て、すべてを完了させます。最後のさばきを行います。
このような意味で、「すぐに来る」とは1世紀に関することばでもあるし、私たち個人に対することばでもあるし、全世界の終わりの話でもあるのです。でもここで大切なのは、私たちには先がわからないし、謎もいっぱいのストーリーだけど、この闇のストーリーがどのように終わるのかは示されているということです。なぜならこれが大きな恵みだからです。
私たちが今どんな状態でも、終わりが良いのを知っているから、希望と信仰と勇気をもって生きることができます。でもだからといって人生が楽になったりはしません。
私たちは聖書の著者を知っています。この著者が一番素晴らしい著者であると知っています。私たちのストーリーがミステリーだとすると、始めにとんでもない大きな問題が起きて、何がどうなっているか、どのように解決されるかわからないけれど、著者が私たちよりも偉大なので、最終的にはすべての問題を解決してくれることを信じて読むことができます。安心して生きることができます。その意味で、私たちの苦しみは本当の苦しみなのですが、死の向こうにいのちが待っていることを信じながら生きることができます。それが私たちの毎日を変えます。
じつは、人生の中でいろいろなステージが私たちを待っています。次のステージに進むために、何かを失い、それ以上のものを得るのです。
赤ちゃんが生まれる時に新しいステージが始まります。母の胎の中では、赤ちゃんは空腹も暑さも寒さも感じなかったのに、生まれることによって、寒い危険な世界に入って行くのです。何を得るかというと、生きて育つ機会を得ます。赤ちゃんが母の胎にいるのは生まれて来るためなのです。
子どもが大人になるときも失うものがあります。子ども時代ほど笑ったり一生懸命遊んだりする時代はありません。大人になると笑うことが少なくなります。しかし大人になると大切な働きができる機会と喜びを得ます。子ども時代の遊びは働きの準備なのです。
独身の人が結婚する時、喜びはありますが失うものもあります。いろいろな可能性を手放します。そして自分のために楽に生きることも失います。でも私たちが独身として生きる理由は、いつかもう一人と一つになるためです。最終的にはイエスと一つになるためです。
夫婦に子どもが与えられたら、得るものは大きいですが、時間、お金、自由、精神的なエネルギー、体力が減ります。自分の幸せを求める自由も失います。でも弱い者を愛して育てる御父の愛を子どもに与えることができます。その特権が与えられます。
私たちはいつか年をとって引退します。これも苦しいです。徐々にすべてを失います。髪の毛、歯、視力、力、聴力、エネルギーなど、役に立つものをすべて失います。自由も楽しみも徐々になくなっていき、最終的に自分のいのちそのものも失います。後に残る家族と離れます。自分の人生の跡も徐々に薄くなって消えていきます。その先にある復活を信じていなければ、死に向き合うことが辛すぎたりします。だからまるで死なないように生きたり、なるべく長く生きてなるべく苦しみから逃げて生きたりします。
でも、私たちはすべてを失ったとき、どうなるのでしょうか。
私たちが十字架を負って生きているなら、その十字架の栄光、イエス・キリストの栄光を受けます。この長いストーリーの初めに、私たちは園から追い出されました。門が閉ざされて、ケルビムが門を守っているので私たちは入れません。ケルビムは、私たちがいのちの木から食べて、神とともに住むことができないように守っているのです。
でも私たちの希望は、いつか私たちのところにイエスが来て、イエスのところに迎え入れてくださるという希望です。その門から入って、いのちの木の実を食べて、永遠に神とともに住むという希望です。だから私たちは待ち続けます。飢えて、キリストが戻ってくるのを待ち望みます。御霊とともに花嫁として「来て下さい」と祈ります。私たちは全世界のコーラスに加わっています。御霊が私たちの息です。それで私たちはお母さんを呼んで泣いている赤ちゃんのようでもあり、結婚式を待ち望んでいる恋人でもあり、都を探し求めて歩く旅人です。イエスが来るとき、私たちの望みがすべて満たされます。
イエスは聖餐式を通して来てくださいます。今、聖餐式を受ける私たちはイエスとともにいます。イエスはこのパンを通して私たちとともにいます。イエスはこのぶどう酒を通して私たちの衣を洗って白くしてくださいます。
これはすべて未来の約束です。私たちが顔と顔を合わせてイエスに会える日を求めて祈ります。
主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みがすべての者とともにありますように。アーメン。
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