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「感謝のいけにえ」コロサイ3:16~17

説教者:ラルフ・スミス牧師


コロサイ3:16~17

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべて主イエスの名において行いなさい。

クリスチャンにとって、感謝は生活の中心で非常に大切である。しかし、ローマ帝国の時代の教会に対する批判は、「クリスチャンは感謝を知らない」というものだった。驚くべきことだが、なぜそのような批判があるのだろうか。


まず、パウロのこの言葉を学ぶ前に、旧約聖書の背景を少し一緒に考えて、それからイエス様の教えを考えて、最後にパウロの言葉に戻る。


⚫️旧約聖書の背景

モーセのトーラーは日本語で「律法」と訳されることが多いが、「教え」という翻訳の方が正しいと思う。しかし教えというと広すぎてややこしいので、モーセのトーラーということばをそのまま使うことにする。モーセのトーラーは神様がイスラエルに与えられた教えで、イスラエルが歩むべき道を教えている。しかし旧約聖書の歴史書や預言書を読むと、イスラエルの歴史において、残念ながらその道を歩まない方が多かった。

イスラエルの歩むべき道を教えるモーセのトーラーの中には感謝の教えがあるが、それはいけにえ制度の話になる。

イスラエルは一年間に三回、天幕や神殿のあるところに上って行かなければならなかった。春の過越の祭り(八日間)、それから五十日後の夏のペンテコステの祭り(一日)、秋の仮庵の祭り(七~八日間)である。イスラエルの過越の祭りは私たちにとってのイースターである。イスラエルは太陰暦なので日付けは毎年違う。イースターに合わせてペンテコステの日もずれる。イスラエルがこの祭りに上っていくときに、昇天のいけにえ(全焼のいけにえ)、洗いきよめののいけにえ(罪のためのいけにえ)を持っていく。そして和解のいけにえも自由にたくさんささげる。和解のいけにえは、神様にささげたすべてのものから祭司に渡す部分を取り除いた後、いけにえをささげた礼拝者にほとんどが戻って来るのが他のいけにえとの大きな違いである。つまり和解のいけにえは、大きな宴会の食事になるということだ。

和解のいけにえには三種類ある。一つは感謝、一つは誓い、一つは自由にささげる和解のいけにえである。

・感謝のいけにえ

和解の感謝のいけにえは少し特別である。というのは、他の和解のいけにえとは違い、ささげたその日に食べなければならないからである。

和解の感謝のいけにえには「告白する」という意味も含まれているので、主が良くしてくださったことを覚え、それを告白してささげるいけにえである。それを、例えば夫婦だけで一日で食べきるのは不可能である。いけにえが子羊であったとしても食べきるのは無理なので、他の家族を呼ぶことになる。旧約聖書の歴史の中で、家族が大勢集まって感謝のいけにえの宴会を行う場面があったりする。祭りの時はお金持ちは雄牛をささげる。それなら何十人もの人がいっしょに食べることができるのである。

動物だけではなく、パンも四種類ささげる。祭司に十分の一渡すので、四種類を十個づつ作るとしたら四十個になって、これも当然一つの家族では食べられない。申命記に書いてあるが、イスラエルの場合は特に貧しい人を忘れてはいけないし、レビ人も忘れてはいけないし、やもめも忘れてはいけない。それで神殿に上っていくときに、雄牛をささげる人は、親戚や貧しい人ややもめや祭司以外のレビ人に与えて彼らと分かち合い、感謝して一緒にいただく。

・誓いを果たした時の和解のいけにえ

誓いを果たした時も、感謝のいけにえと同時にささげてもよいのだが、このいけにえは二日間で食べればよい。三日目は食べてはいけない。

・自由にささげる和解のいけにえ

自由にささげる和解のいけにえも二日間で食べて良い。

だから宴会は長くなる。祭りの期間は7~8日間続くので、いろいろな人がいろいろなタイミングで来て、みんなで分かち合って食べていた。このように祭りの間は神に感謝して宴会が続いた。

野菜の話は出てこないが当然食べていたと思う。冷蔵庫はないので旬のものを食べていただろうと思う。


モーセのトーラーの中で、宴会は非常に強調される。ダビデの時からは歌いながらいけにえをささげることになった。朝と夕の昇天のいけにえをささげる時も、祭司たちは歌いながらささげていた。いけにえをささげるときには音楽も満ちていた。詩篇の中の、感謝して主の門に入るとか、感謝して主の家に入るという表現は、祭りのことだと思ってほしい。いけにえをささげて、感謝して歌って宴会をするイメージをもってほしい。もしイスラエルが神から与えられた素晴らしい祭りの制度を守っていたら、一年の始まりは出エジプトの記念である過越の救いの感謝から始まっていた。過越は一年間の感謝の歩みを決める祭りである。ペンテコステは律法が与えられたことを記念して祝う祭りで、感謝いっぱいで神を賛美する祭りである。収穫の時は、神様が約束の地を与えてくださったことを記念して感謝して行う仮庵の祭りである。一年間、感謝いっぱいで神様を賛美するはずだった。

(一年に一回だけ贖いの日がある。この日は宴会はしないで断食のような感じで自分の罪を覚える日である。)

毎週の安息日も地域に集まって祝っていた。みことばを読み、歌って感謝して一緒に食べる。このように、イスラエルの一年のカレンダーは、お祝い、感謝、宴会いっぱいのカレンダーである。神がご自分の民を喜んでくださり、民がそれを受けて喜びに満ちている一年間を過ごすことができるように与えられたカレンダーである。詩篇の中で主の門に入るると書いてあるところは、いけにえを携えて入ることをイメージしておいてほしい。


⚫️イエス様の教え

イエス様の時代には、人に物をあげたりもらったりするのは霊的な戦いだった。なぜそのように変わってしまったのかというと、アレキサンダー大王のせいである。

BC330年頃、アレキサンダー大王がシリアを含めてイスラエルの領地を取った。領地を取るだけではなく、ギリシャの建物を建てたり、スポーツの競技場を建てたりしてギリシャ文明をイスラエルに持ち込んで、それを広めた。アレキサンダー大王はBC323年に死んだが、その文明はローマに支配されるまで(BC60年頃まで)ずっと続いたので、イスラエルは300年近くギリシャ文明に支配されていた。さらにローマ帝国になってもその影響は続いたので、イスラエルは300年以上人々はギリシャ文明に支配されていた。それでイスラエルの人々はその影響を受けて妥協してしまった。パリサイ人はギリシャ・ローマ文明に反対していたつもりだったが、知らず知らずのうちにその影響受けてしまった。当時のユダヤ人がどこまで影響を受けたかわかる恥ずかしい例がある。ギリシャはスポーツが盛んだが、競技に出る男性は、走るのも戦うのも裸であった。だから割礼の有無は明白になる。ユダヤ人は割礼を恥ずかしがって割礼を取り消す手術を受けて競技に参加した。ここまで妥協してしまっていた。

これがイエス様の教えにどのように表れてくるのかというと、宴会の話である。旧約のイスラエルの宴会ははっきりとやもめや貧しい人々を招くように命じられていたが、ローマ人やギリシア人の宴会はそれとは違う。自分と同じ様な地位の人が呼ばれた。ローマ人やギリシャ人は貧しい人ややもめを呼ばない。自分の地位が高ければ高いほど同じような人を呼ぶ。

しかしイエス様は、お返しのできない貧しい人を宴会に招くように教えた。ギリシャ人やローマ人は、宴会に呼ばれたらお返しに自分たちの宴会に呼んでいたので、イエス様の教えと逆である。

【マタイ6:1~2】人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

イエス様の山上の説教の教えの一つである。ギリシャ・ローマの社会は自分に人から早く報いが来るように考えている社会である。だから彼らはすでに報いを受けてしまったことになる。

【マタイ6:3~4】あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

報いは与えられないわけではないし、受けられないわけではない。

しかし啓蒙運動の時代は、本当の施しは報いを受けない施しであると考えられていた。ローマ人、ユダヤ人、ギリシア人が考える施しは、お互いに招き合う施しであるので、まるで円の上をぐるぐる回っているようである。イエス様は宴会をする時も施しをする時も、報いを一切考えるなとは言っていない。それは啓蒙運動の時代の考え方である。啓蒙運動の考え方は線である。施しを与えるだけで報いを求めないからである。それが本当の意味での正しい行いだと啓蒙運動の哲学者たちは教えた。報いを期待する人は、結局自分のためにやっていることになるので、イエス様の山上の説教に反対する。イエス様が天の父から報いが来ると教えたので、哲学者たちは報いを期待して自分のためにやっていると批判したが、イエス様が言ったのは、自分が与えられた祝福はすべて御父から来ているので、感謝の良い行いをすれば、天の父もそれを祝福して喜んでくださるという教えなのである。


四十年前に、私は日本語学校に通っていた。先生たちはみんな女性だったので、先生のためにドアを開けた。一回目はよかったが、二回目にやったときに、ドアを開けるのはやらないでほしいと言われた。その親切によって恩を受けたことになるのでお返ししなければいけない。それが面倒で厄介だからやめてくれということらしい。これにはとても驚いた。昔のアメリカでは男性は女性のためにドアを開けるのが社会のルールだったからだ。


昔の教会は、だれかに宴会に招かれたら、ありがとうと言ってそれで終わり。恩返しをしなくても良い。そうすると、クリスチャンではない人の批判は、クリスチャンは恩返ししないから感謝がないと批判する。日本語の辞書で「恩義」を調べると、アメリカ人やイギリス人はこの意味を理解していないと書かれていた。昔のイエス様の教えに従った教会は「ありがとう」と言って、この祝福が神様から来たことに感謝していた。貧しい人に水をあげること、裸の人に服をあげること、苦しんでいる人を慰めることはすべてイエス様のためにしていることだった。

【マタイ25:35~40】あなたがたはわたしが空腹であったときに食物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」

すると、その正しい人たちが答えます。「主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お尋ねしたでしょうか。」

すると、王は彼らに答えます。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」

私たちは、お互いを祝福する時も、見ず知らずの貧しい人を助ける時も、ウクライナで苦しんでいる兄弟姉妹たちに献金を送る時も、イエス様のためにやっていることで、イエス様を喜ばせていることである。神様は私たちを祝福してくださり、私たちはさらに人を祝福することができる。それで祝福の円は無限の円になる。だから祝福が増し加わるように求める。


⚫️パウロのことば

【コロサイ3:17】ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべて主イエスの名において行いなさい。

これがクリスチャンの歩みである。私たちが日曜日に集まるのは、感謝と賛美をささげるためである。

聖餐式はイエス様の十字架の記念の食事だが、ユカレストと呼ばれる。ユカレストはギリシャ語で「感謝します」という意味である。

なぜ聖餐式をユカレストというのか。それはイエス様がパンと杯を感謝して弟子たちに渡したからである。私たちはこの十字架の記念の食事を感謝していただいて、無限の永遠の愛を感謝する。毎週の歩みは一番深い感謝から始まる。この世の富は消えるかもしれない。健康もだめになるかもしれない。でも、神様はすべてのことを益とされることを私たちは知っている(ローマ8)。

【ローマ8:38】私たちは神確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。

イエス様が水の上を歩いたとき、ペテロが「水の上を歩いてあなたのところに行かせてください(マタイ14:28)」と言ってイエス様の方に行ったが、強風を見て怖くなり、沈みかけてしまった。私たちもそのようになる傾向がある。一週間の初めに、神の愛に感謝して、私たちを神の愛から引き離すものは何もないことを覚えて、告白して喜ぶ。火曜日になって波が大きくなったように感じて、水曜日に強風が吹いたように感じて、木曜日には沈みかけているように感じるかもしれない。私たちは神の絶対的な永遠の愛に対する感謝の心から簡単に離れてしまう傾向がある。しかし毎週毎週感謝の心をあらたにして、永遠なる神様の永遠なる愛を記念する食事をいただく。これが一週間の歩みを決める感謝の食事である。そのことを覚えて聖餐をいただきたいと思う。




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