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「成長を遂げた完全な者になるために」ヤコブ1:17~27

更新日:2023年2月11日

説教者:べレク・スミス司祭


「成長を遂げた完全な者になるために」

ヤコブ1:17~27

すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばもって生んでくださいました。私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。

人の怒りは神の義を実現しないのです。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。

自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。

父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。


みなさん、こんにちは。私は、日本聖公会北関東教区の司祭、並びに立教学院チャプレン、そして三鷹福音教会牧師ベンゼデク・スミスの弟で、べレク・スミスと申します。

今日は、先ほど朗読されたヤコブの手紙、マルコの福音書、雅歌を結びつける糸の一つを追って行きながらお話させていただきたいと思います。

【ヤコブ1:4】その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。

ヤコブの手紙は、ヤコブから国々に散らされた神の民への手紙です。その民が成長を遂げた完全な者になるために書かれました。



自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。(1:26~27)

成長を遂げた完全な者になるためには、神のきよさを知ることに続き、自分の口を制御して、行いにおいて宗教心を表すことが欠かせないとヤコブは説明しています。私たちにとって完全な宗教とは何かを簡潔に説いています。

最も弱っている者を助けること、この世の汚れに染まらないよう自分をきよく守ること、ヤコブは、キリスト教にはこの二つが大切だと主張しています。

このどちらかに偏ることが多いと警告する説教をよく聞きますが、それは決して間違いではありません。弱い人や困っている人を助けること一筋でキリスト教生活を成し遂げようとする人もいれば、一方で自分をきよく保つことだけにしぼってイエスの弟子として生きようとする人もいます。ですから、この両方を頑張りましょうという説教でも学ぶことはあると思います。しかしそのような思いだけで、私たちが信じている宗教の神髄に至るのはなかなか困難です。すでにお気づきかもしれませんが、今日のマルコ福音書の朗読でも、口先だけでイエスを敬う宗教がイエスから遠く離れていることを教えています。

【マルコ7:5〜7】パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先で私を敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』

ヤコブと同じく、口先だけではない宗教、真のきよさについてイエスが語っています。

弟子たちがパンを食べる前に手をきよめていないことを、イエスに言いつけるパリサイ人がいました。きよさに関しては、人に見えている上っ面しか気にしないパリサイ人をイエスが厳しく叱りました。本当に困っている人を助けないで、おもに口先だけで宗教を成し遂げようとする人こそ、上っ面の表面的なきよさにとらわれてしまうのではないでしょうか。

ここで覚えなければならないことがあります。熱心であればあるほど、パリサイ人は上っ面のきよさと口先のきれいごとにとらわれていきました。つまり熱心さに欠けていたのではありません。口先では弱い者を助けるように教えながら、それを行いもせず、お金もそれほど動かさないのです。また、自分たちをきよくするだけではなく、人をも熱心にきよくしようとして、手をきよめているか、あれをしているか、これを守っているかなど、自分たちの目で見える他人のきよさを妙に気にかける生活習慣ができてしまっていました。思い当たることはないでしょうか。私自身はあります。

パリサイ派のここでの問題は、熱心さではなく、きよさを求めることでもなく、弱い者や困っている者を口先だけで気にかけることでもありません。パリサイ派の問題は、キリスト教の真髄に当たるところです。言い換えれば愛です。本日の旧約聖書の雅歌からの朗読がこの問題の解決と成長を遂げた完全な者への道を記しています。しかし、単純に愛と言っても、それに正しい理解と行動が伴わなければパリサイ派と変わらないことになります。

少し探っていきましょう。

ヤコブ1:27を愛の律法に変換してみましょう。

「孤児ややもめが困っている時にお世話をすることは隣人を自分のように愛することをことであり、この世から自分をきよく守ることは心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することです。」となります。

しかし、愛の律法に変換するだけでは理解が足りないと思います。パリサイ派の問題は愛がないことですが、ヤコブとイエスが語っている愛のつながりをもう少し綿密に理解しなくてはなりません。

創世記3章の悪魔の誘惑と反対に、ヤコブは次のように言います。

【ヤコブ1:16~17】私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

悪魔は、「神はケチで最高の祝福をあなたに与えない」と言ってエバを誘惑しました。しかし、神は寛大で、すべての良いもの、完全な賜物は神様から来ているのです。それは悪魔の誘惑の反対です。

これを元にしてヤコブは、弱い者や貧しい者に対する私たちの寛大さ、時間、お金、行動はすべて、神様から生じているものとして教えています。

きよく守ることも同じです。きよく守るという言葉はギリシャ語で直訳すると「世の汚れに触れていないもの」ということばです。

言い換えれば聖別されることと基本的に重なることばです。つまり、このことばは聖であること、きよくあることとらえることができます。そうであるなら、レビ記の中で繰り返されること、そしてそれをペテロが第一ペテロの手紙で引用しているように、私たちのきよさが神との関係において生じるものであることを理解しなければなりません。

【第一ペテロ1:15~16】むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。

つまり、隣人に対して寛大であることも、この世から自分をきよく守ることも同じく神との関係に基づき、そこから自然に生まれてくるはずのものなのです。

神との関係から生じるからこそ、そこには無限の可能性、時と場所を超えた愛ときよさが生じるのではないでしょうか。同時に人間の目で見るうわべだけのきよさと、人間の口先だけにとどまる上っ面の隣人愛とは違った本物の宗教が生じるのです。

仏教や神道にもなかなかない価値観ですが、キリスト教には必ず、神がこうだから私たちもこうである、という教えがあります。神様に似ること、神の性質と私たちの性質はつながっていること、これがキリスト教の神髄の一つなのです。神が貧しい私たちに寛大であるからこそ、私たちも寛大であり、神が上っ面のことより心のきよさを見る神であるからこそ、私たちも成長を遂げた時にはそのようにきよくなるのです。この神との関係がポイントです。そして、神の寛大さから私たちの寛大さが生じていないのなら、すぐに私たちの寛大さも尽きることでしょう。また、神様のきよさと聖であることから私たちが自分をきよく保つ心が生じていなければ、心もからだもきよく守ろうとする心もすぐに薄れてしまうのではないでしょうか。

神に愛されていることを深く実感しているからこそ寛大になり、その寛大さは尽きることがなく、きよくなってそのきよさが増していくのだと思います。


ここまで、今日朗読したヤコブの手紙とマルコの福音書を通して、上っ面の宗教ではなく、心からのきよさと行動による宗教を教えていること、そしてその両方が神との関係から生じていることをお話してきました。ここで終わっても良いのですが、ここで説教が終わったら、肝心なところに気づかずに終わってしまうかもしれません。神に愛されていること、神との関係から行いが生じることから、さらに一歩踏み込んで、成長を遂げた完全な者の姿は、本日の礼拝で朗読した雅歌でまたちがう角度から私たちに伝えられているのではないかと思います。今日は雅歌2:8から朗読しましたが、その一つ前の7節から読みたいと思います。

【雅歌2:7】エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。

雅歌を通して、愛している人が目覚めるまで揺り起こさないでください、という表現が三回も繰り返されています。王様と妻の話ですが、キリスト教の伝統ではキリストと教会の関係、つまり私たちと神様との関係に直接つながる、その象徴であると理解されています。教会、或いは妻が夫(イエス)を愛している中で、彼が寝ているところを起こさないでください、という前提で8節が始まります。そしてどこかで彼女も眠ってしまったのだと思います。

【雅歌2:8】私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。山を飛び越え、丘の上を跳ねて。

彼女も眠ってしまいましたが、先に眠った夫が起きて、妻が彼の声を聞いたところから今日の朗読の箇所が始まります。

【雅歌2:9~10】私の愛する方は かもしかや若い鹿のようです。

ほら、あの方は私たちの壁の向こうでじっと立ち、窓からうかがい、格子越しに見ています。

私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。

そして夫は彼女の寝ている部屋に来て、起きてくださいと言い、二人は起きます。

この雅歌で三回繰り返されている、彼を寝かしておきなさい、という彼女の呼びかけに、少しだけ注目したいと思います。

成長を遂げた完全な者として神を愛すること、神様との関係を築くことは、もしかしたら、この休ませること、寝かせることが一つのヒントなのかもしれません。

神の愛がこうであるから私もこうです、というのではなく、ここでの妻は自発的に自分から動いている愛です。このような愛が成長した成熟した愛ではないでしょうか。神様の愛に気づくことが大前提なのですが、それをもとに、今度は自分の愛が湧き出ること、それが成熟した完全な愛の姿だと思います。

私たちは神様にいろいろとお願いします。これは必要なことですし、決して悪いことではありません。これをするようにと教えられてもいます。しかし神様に「こうしてください、ああしてください」と祈り求めるだけでは、成熟した完全な者としての神との愛の関係には至っていないと思います。

この雅歌の箇所を読んで、私はイエス・キリストと弟子たちのことを考えました。イエスが眠っていると弟子たちは必ず起こしに来ます。それがこの雅歌と平行しているのではないでしょうか。イエスが疲れて眠っているとき、弟子たちは自分たちの不信仰や焦りのゆえに起こしに来て、どうにかしてくださいと言います。そこでイエスに叱られることもありますが、イエスを休ませようという思いは弟子たちにはないように見えます。私たちにも思い当たることがあると思います。何かをしてほしい、こうしてほしい、こうなってほしいと祈るのは悪いことではありませんが、それだけで神様との関係が築かれるのであれば私たちはまだ未熟なのです。子どもと親の愛にしか至っていないのです。雅歌の中で描かれている愛は大人と子どもの愛ではなく、大人と大人、夫と妻の愛だからこそ、それを超えたそれよりも熟した愛が描かれているのです。パリサイ派の問題は熱心さの問題でもなく、きよくなりたいと思うことでもなく、やもめや貧しい人を口先だけで助けようとするのが問題でもありません。彼らに欠けているのは愛です。愛がないから他の人のことが気になって「こうしろ、ああしろ」という思いにとらわれているのだと思います。神との愛の関係にとらわれること、つまり神様に「こうしてほしい」と願うよりもっと大切なことにとらわれるのが、熟した愛の関係ではないでしょうか。

教会として一番根本的なキリスト教の神髄のところにある儀式と行動は、人を助けることそのものではなく、聖餐式において神様と交わり、神様との愛の関係の中で夫と妻のように対等に一緒に食べること、飲むこと、交わることにあります。ここからすべての良い行動が生まれるからです。他の人のことを気にせずに、自分のやるべきことに集中できるのです。

最後になりますが、雅歌に書かれているような愛は、バッハのマタイ受難曲67番目の中にあります。ソリストがバスからソプラノまで一人づつ歌い、合唱がそれに答える曲です。


マタイ受難曲67番(歌詞対訳:国井健宏)

バス:今や主は眠りにおつきになりました。

合唱:私のイエスよ、おやすみなさい!

テノール:私の罪が彼にもたらした苦労は終わりました。

合唱:私のイエスよ、おやすみなさい!

アルト:おお、聖なる亡骸よ、

見よ!私が懺悔と後悔の思いから嘆き悲しむさまを、

私の堕落があなたにこのような苦しみをもたらしたのです。

合唱:私のイエスよ、おやすみなさい!

ソプラノ:命あるかぎり、

あなたの受難に尽きぬ感謝を捧げます。

あなたは、私のたましいの救いをこれほどまでに大切にしてくださいました。

合唱:私のイエスよ、おやすみなさい!


このようなソリストと合唱のやり取りが四回繰り返されます。

このような呼びかけが、一番成熟した愛の関係を表す一つのヒントではないかと思います。

このような神との関係において、自分をがんばってきよくするとか、がんばって人に仕えること、これが一番の成熟した姿ではなく、それが愛の関係から自然に湧き出てくることが成熟した姿であると思います。自分だけでがんばってやろうとすると、どうしても人のことが気になってしまいます。あの人はどうしてるのか、あの人はちゃんと手を洗ったのかなど、様々なことが気になってしまいます。そうではなくて、神様を休ませて「ありがとうございました」というところから始めて、自分も神様と同じような愛を持てるのだという認識をもって、弱い人や貧しい人を引き上げるような働きができるのではないでしょうか。ですから、ヤコブの教え、イエスの教えは最終的な雅歌の姿によって私たちに最もよく表されていると思います。そのことを覚えて聖餐式にあずかりたいと思います。父と子と聖霊の名によって、アーメン。




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