説教者:ラルフ・スミス牧師
ピリピ1:9〜11
私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉が現されますように。
クリスマスの4週間前から待降節が始まる。主イエス・キリストの誕生を祝う心の準備をする期間でもあるし、私たちのところに来てくださる神、私たちを求めてくださる神であることを覚える季節でもある。イエス様の誕生は、神が私たちを求めてくださるお方であることを表している。永遠なる創造主なる神が人間となってくださった。このようなことは非常に不思議で他の宗教や他の哲学には見られないものである。創造主が私たちを愛して求めてくださる。人間が神になったのではなく、神がマリアから生まれて私たちと同じような人間になったのである。
イエス様はご自分を「人の子」と呼ぶ。これはエゼキエルのような預言者であるという意味もあるが、アダムの子という意味もある。イエス様は私たちと同じように100%人間なのである。
⚫️歴史の中で来てくださる神。
神様は人間を造ってくださった時から、人間に近づき、祝福してくださった。歴史の中で、神様は繰り返し近づいてくださっている。さばくために「近づく」ということばが多いが、すべてのさばきは救いのためである。
旧約聖書の中で最も大きなさばきの一つはノアの大洪水である。ノアと妻と3人の息子とその妻たちの8人だけが救い出されて、他の人類はすべて滅ぼされた。でもそれは人間を救うためのさばきであった。神様がそのさばきを行ったので私たちは今ここにいる。その時代があまりにひどいので取り消して、ノアたちから新しいスタートをした。
神様はたださばいて終わりなのではない。旧約聖書の中で、神様はご自分の民に近づいて繰り返しさばきを行い、救ってくださった。そしてさばきを行うたびに神様の方が積極的に新しいスタートを与えてくださった。さばき自体も恵みであるが、さばいた後でさらに恵みを与える。例えば、出エジプトでは大きなさばきをエジプトに行って、イスラエルをエジプトから救出してくださった。そしてシナイ山まで連れて行って、律法を与えてくださった。その後で、天幕も与えてくださった。エデンの園から追い出されたアダムとエバの子孫たちはまた神様の住まいに来ることができるようになった。
大祭司は年に1回至聖所に入って神に近づくが、他の祭司たちは聖所まで入ることができる。一般の人は天幕の庭で礼拝をささげる。イスラエルが望んでそうなったのではない。神の方から積極的に、罪に満ちているイスラエルをエジプトから救出して、シナイ山で大きな恵みを与えられた。イスラエルが神に逆らって偶像礼拝をしても、神様は続けて恵みを与えてくださった。さばきは恵みを与え、さばきの後でさらに恵みを与えてくださるものである。私たちに近づいて私たちを求めてくださる神である。そのことを歴史の中で見ることができる。
イエス様の誕生、イエス様の受肉は神がどのようなお方なのかを教えてくれる。
【ヨハネ15:16】あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。
恵みなる、罪を赦してくださる、私たちを求めてくださる神が、このみことばの通りに私たちを選んでくださった。私たちが今ここにいることは神の導きであり神の恵みなのである。神が恵みの招きをしてくださる。
⚫️キリストの目に備える(ピリピ1:10)
キリストがさばきに来る日に備えるという意味である。
イエス様は弟子たちに警告する。マタイ23〜25章、マルコ13章、ルカ21章は同じオリーブ山の説教である。
イエス様は神殿でイスラエルのリーダーたちを厳しく叱って、繰り返し偽善者であると言う。そして説教を聞いた弟子たちは、外に出て神殿を見てこの建物が美しいと言う。
【マルコ13:1】イエスが宮から出ていかれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
イエス様はこの神殿は崩れて残らないと言った。
【マタイ24:9〜13】そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。しかし最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
あまりにも試練が激しくて兄弟がお互いを裏切ったり信仰から離れたりする。そして愛が消えてしまうという警告である。パウロは、ピリピの教会の愛が冷めることがなく、愛において続けて成長するように祈っている。
パウロはイエス様の警告を覚えていて、AD62年ごろにこの手紙を書いている。AD60年から62年までパウロはローマ帝国で逮捕されて軟禁されて鎖に繋がれていた。ピリピ人への手紙は裁判が近くなってから書かれた手紙なので、AD62年に近いところで書かれていると思われる。イエス様が警告した、ひどい、大変な、裏切りの時代はAD64年から始まる。
64年にヘロデ王がやり直している神殿が完成する。ユダヤ人は大喜びで、この神殿があるので自分たちは神様に守られると思っている。そろそろメシアが来てローマ帝国を倒すと思っているユダヤ人もいた。同じ64年に皇帝ネロがローマの街に火をつけた。自分の計画通りに街を作り直したいからだったが、その火事をクリスチャンのせいにしたので、ローマ帝国が初めてキリスト教を迫害するようになった。それまではユダヤ人が教会を迫害してもローマ帝国が助けてくれていたのに、ついにローマ帝国も教会を迫害し始めた。ユダヤ人もローマ帝国も教会を迫害した。それがあまりにもひどいので、たくさんの人が信仰から離れてしまった。
【マタイ24:21〜22】そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。
これまで歴史の中でなかったような大きな試練が来る。そしてその後ではこれほど大きな試練は来ないとイエス様は言う。64年から70年までにクリスチャンが書いた歴史の本は無いので、この時代について聖書から学ぶしかないのだが、ヨハネもペテロもユダも多くの偽預言者が出てくることを警告している。彼らが人々を惑わして堕落させる。それが艱難の一番大変なところであった。だまされて信仰から離れること以上に大きな試練、さばきはない。たくさんのクリスチャンが偽預言者にだまされた。
【第二テモテ1:15a】あなたが知っているとおり、アジアにいる人たちはみな、私から離れていきました。
これはイエス様が逮捕されて裁判にかけられたときに、弟子たちがみなイエス様を捨てたのと同じ話である。多くの人は逃げてしまってパウロと共に立たなかったが、悔い改めて戻った人も多かったと思う。64年に書かれた黙示録に出てくるアジアの七つの教会のうち五つは非常に問題が多かった。その中でもエペソは目立つ。エペソ人への手紙では、パウロが教会を叱るところはないが、使徒の働きの最後のところで、パウロはエペソの長老たちに次のように警告する。
【使徒の働き20:29〜30】私は知っています。私が去った後、凶暴な狼があなたがたの中に入り込んできて、容赦なく群れを荒らし回ります。また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分の方に引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。
黙示録2章で、エペソの教会は最初の愛から離れてしまったと言ってイエス様がさばく。
キリストの日までに(イエス様が来て神殿をさばくときまでに)、ピリピの教会の信仰が純真で非難されることがないようにとパウロは祈っている。イエス様の警告のことばがその背景にあるのでパウロはこのように言う。イエス様が来てエルサレムをさばいたとき(AD64~70年)に、たくさんのクリスチャンが殺されたり信仰から離れたりして、非常に苦しんだ。私たちが持っている古い書物は彼らの100年後のものである。教父たちの信仰はすばらしいが、みことばの理解はそんなに深くなかった。教会の迫害があまりにも激しかったので、その次の世代はゼロから始まっているかのようだったと思う。イエス様のイスラエルに対するさばきは、ローマ帝国とユダヤ人が教会を破壊するときであった。イエス様が十字架上で苦しんでよみがえったように教会も艱難の時代に苦しんでよみがえらなければならない。死ぬことによってみことばが広まる。苦しんで実を結ぶ教会になった。
⚫️あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、(ピリピ1:9)
パウロは愛について話しているときに、識別力と知識の話もする。一般的な原則としても言えることである。本当の愛には、知識も識別力も伴う。「何でもいいよ」というのが愛ではない。パウロとバルナバは最初の宣教の旅でマルコと一緒だっが、マルコは途中でエルサレムに帰ってしまった。エルサレムでの会議が終わってから、パウロとバルナバは次の旅の準備をしていた。バルナバはいとこのマルコも連れて行きたかったが、マルコは最初の旅の途中で帰ってしまったのでパウロは反対する。パウロとバルナバはどうしても意見が合わないので、パウロはシラスと、バルナバはマルコと共に別々の旅に出た。どちらが正しかったのだろうか。パウロのようにマルコに対して厳しい態度をとることが正しかったのか、バルナバのようにマルコを励ましてもう一度チャンスを与えることが正しかったのか。私は両方正しかったのではないかと思う。マルコには両方必要だった。厳しく叱られる必要もあったし、励まされる必要もあった。神様は両方与えてくださって、パウロの識別力と知識とバルナバの愛が一つになったと思う。パウロはのちにバルナバと一緒に働いていることをコロサイ書で読んだし、第二テモテを見るとマルコが最後までパウロに忠実だったこともわかる。
たくさんの偽預言者が現れて人々をだましているときに、識別力と知識をもって愛において成長することは、本物と偽物を見分けることができるようになる。どの時代でもそのように言えるが、AD64年から70年までは特に必要だった。その中で識別力をもって愛において成長し、偽預言者にだまされないように、悪い方向に行かないように、たとえ裏切られても、憎まれても、他の兄弟が信仰から離れても、続けて義の実を結ぶように。がっかりして途中でやめないように。試練の中で、教会はすべての人に憎まれる。イエス様と同じである。イエス様の花嫁である教会は同じように憎まれる。
⚫️イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉が現されますように。(1:11)
憎まれる中で、教会は神の栄光と神の誉を表すことができるように。愛をもって実を結ぶ生き方ができるように。
パウロはピリピの教会のためにこのように祈っている。
神様は来てくださる神である。パウロの祈りは特にその時代の教会に大きな意味があると思うが、私たち一人一人も何かの試練に会う。試練に会わない人はいない。苦しみの中ではっきりイエス様に目を留めて、実を結ぶように、神の栄光と誉が表されるように、愛において続けて成長するように、祈り求めなければならない。
神が私たちのところに生まれてきてくださった。そして私たちを救うために十字架上で死んでくださった。最初の世代は大きな苦しみを受けたが、未熟ではあっても次の世代が新しいスタートをした。そして今人類の3分の1はキリストを信じることを告白している。そしていつか全人類がキリストを主と告白する日が来る。すべての国々を弟子にしなさいという命令は成就される。教会は続けて戦って、福音は続けて広まっていく。福音が広まるのに世界で最も難しい国の一つは日本である。迫害されず、苦しめられず、無視されている。偽預言者の完全なな勝利で、みんな惑わされて福音を聞く耳がない。私たちは心を新たにして、クリスマスにイエス様に従って、感謝してクリスマスの季節を過ごす。
毎週の礼拝は神が私たちを招いてくださるところから始まる。御父、御子、御霊の名によって、アーメンで始まり、私たちはここに招かれた。祝福されて、神に近づくことができる。神が常に近づいてくださり、聖餐式でパンと杯を与えてくださるので感謝して歩む。恵みなる神に感謝する。
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