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「棕櫚の日曜日」ルカ22:14〜23

説教者:ラルフ・スミス牧師


ルカ22:14~23

礼拝で朗読する新約聖書の箇所は、一年ごとにマタイ、マルコ、ルカの順番で繰り返している。この三つは共観福音書と呼ばれている。共通する記述が多く、同じような表現も見られるからだ。今年はルカの福音書を読んでいる。

毎年、イースターの前の週はイエス様の十字架を瞑想することができるように長い箇所を朗読している。

今日は、この長いルカの箇所を、十の部分に分けて考えることにする。


ルカ22:14〜23

その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」そしてイエスは杯を取り、感謝の祈りをささげてから言われた。「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」

それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。しかし見なさい。わたしを裏切るものの手が、わたしとともに食卓の上にあります。人の子は、定められたとおり去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。」

そこで弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めた。

イエス様が弟子たちと一緒に過越の食事をしているところから話が始まる。

過越の食事のときに、イエス様は聖餐の命令を通して、弟子たちに新しい食事を与えてくれた。イエス様が弟子たちに聖餐式を与えてくださったのは、それが私たちの毎週の礼拝の中心だからである。イスラエルにとっての過越の祭りは、私たちの毎週の礼拝の聖餐において成就されるものである。さらに、二千年前の十字架のことを私たちに知らせる意味もあるし(第一コリント11章)、この聖餐はイエスが再臨するまで続く。つまり、聖餐式は、イスラエルがエジプトから救い出された三千年以上前の出来事と、イエス様の十字架の前の晩と、イエス様の十字架を指している。このすべては、未来の教会全体が主キリスト・イエスの花嫁となって、キリストと宴会をすることを指している。それを覚えて毎週聖餐をいただく。

この意味は非常に深い。旧約のイスラエルが毎年行う礼拝では宴会が中心だった。過越もペンテコステも仮庵の祭りもイスラエルの一年間のカレンダーの中心。

私たちも毎週礼拝に集まるとき、宴会のために集まっている。聖餐という宴会は私たちにとって一番大切な宴会である。二千年前にイエス様が私たちのために十字架上で死んでくださったことを記念する宴会である。私たちがいただくパンはキリストのからだであり、杯はキリストの血である。この宴会は神との契約をあらたにする宴会である。神様がキリストご自身を私たちに与えてくださったので、主イエス・キリストご自身を意味する宴会をいただいている。

この宴会は約束を含む宴会である。キリストに従って未来の御国を求める者として契約をいただく。主、イエス・キリストとの契約をあらたにする宴会は私たちの信仰を励ます。私たちが堅忍して最後までキリストに従って歩むように励ます宴会である。毎週の礼拝の中心は聖餐の宴会である。毎週私たちはイエス様を意味する宴会のために集まる。非常に深い、意味のある祝福の中心として与えられている。

イエス様が弟子たちと一緒に過越の祭りを行うとき、本当は喜びの宴会である。イスラエルはエジプトの王パロから解放され、それは悪魔から解放されたという意味も含むが、自由を与えてくださって、約束の地を与えてくださった。過越の祭りは神の大きな恵みによる感謝と喜びの宴会である。

私たちの聖餐式も同じである。金曜日の夜に集まっているのではなく、日曜日に集まって礼拝を行っているのは、毎週の日曜日はイースター、復活祭、感謝の日なのである。感謝して喜んで聖餐をいただく。

しかし、最初の聖餐式はイエス様ご自身を裏切る者が一緒にいる。悲劇の部分と悲しい部分と喜びと感謝の部分が一緒に出てくる。



ルカ22:24〜30

また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしがあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。そしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりしてし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。

イエス様が、あなたがたの中に裏切り者がいる、と言うと、弟子たちは互いに議論を始めた。マタイの福音書やマルコの福音書を見ると、弟子たちが「私ですか」と聞いている。弟子たちが自分について心配している面があるが、ここでは、裏切るのはだれかという議論だった。

しかしそのうちにだれが一番偉いのかという議論に変わってしまった。イエス様がこれほど悲しく寂しい話をしているのに、弟子たちは罪深く愚かだった。

しかし私たちも弟子たちのこの姿を見て、自分たちは違う、私ならこんな愚かなことはしない、と思ったら大間違いである。私たちが弟子たちより賢く忠実だと思ってはいけない。イエス様が弟子たちの議論を聞いて、偉い人はテーブルに座って、下の人は仕えるという話をする。「仕える」は英語では「deacon」で、翻訳すると「執事」という言葉になる。イエス様は弟子たちより遥かに偉く、素晴らしい、永遠なる御子なのに仕える者になった。

【ピリピ2:6〜8】キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死ぬまで、それも十字架の死にまで従われました。

【イザヤ50:5〜6】神である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。

イエス様はへりくだって私たちに仕える者として十字架上で死んでくださった。ここでも弟子たちに仕える心をもっている。福音書を読むと、弟子たちは何回もこのような議論をしている。この時に一回だけこのような議論をしたのではなかった。またか、と思う。イエス様はこの最後の晩に、逮捕されるという認識をもって弟子たちと一緒にいるのに、弟子たちを叱らずに、「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです(22:28)」と言う。この晩、弟子たちはみんな、イスカリオテのユダと違う意味で一人残らずイエス様を裏切ってしまうことをイエス様は知っている。なぜイエス様がこのように言うのかというと、弟子たちを励ますためである。この弟子たちが弱くて愚かな時に、あなたたちは忠実だ、だから神の御国においてイスラエルの十二部族をさばく立場が与えられる、御国を一緒に相続する、と言う。イエス様の方が苦しいのに、弟子たちを思いやって励ましの言葉を語ってくださった。イエス様の語ることばも弟子たちに仕えることばなのである。



ルカ22:31〜38

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

それから、イエスは弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も袋も履物も持たせずに遣わした時、何か足りないものがありましたか。」彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。すると言われた。「しかし今は、財布のあるものは財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。」彼らが、「主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります」と言うと、イエスは、「それで十分」と答えられた。

イエス様はシモン自身に語る。シモン、シモンと言うが、シモンはペテロが弟子になる前の名前である。弟子になったときに、ペテロという新しい名前が与えられた。

イエス様はペテロにサタンが誘惑を与えると警告する。その時イエス様は「サタンがあなたがたを…」と言う。弟子たちみんなにサタンの誘惑、試練が来るということだ。でもイエスはペテロに「あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言う。つまりイエス様はペテロのために特別に祈って、ペテロが悔い改めたら他の兄弟を集めて力づけて励ましなさいと言う。ペテロは弟子たちが悔い改めるように導くリーダーであり、罪を犯してしまうリーダーでもある。弟子たちは一人残らず誘惑に負けた。イエス様は、ペテロが悔い改めるようにとりなしてくださった。私たちのためにもいつもとりなしてくださる。

【ローマ8:27】人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

これは私たちが絶対にが試練に合わないためのとりなしではなく、試練の中で負けないためのとりなしである。試練は絶対に来る。その試練の中で、イエス様を信じ、私たちがイエス様に従う忠実な弟子として歩むようにとりなしていてくださる。

イエス様がかつて弟子たちを旅に送り出したときには足りない物はなかった。しかしこれからは普通の旅の準備をしなければならない。当時は旅に剣を持つのが普通だった。旅の準備をすることの意味は、その時の弟子たちには意味がわからないかもしれないが、全世界に行って福音を伝えなさいという命令になるので、イスラエルの中で町から町へ福音を伝えるのとは違い、もっと大きな意味を持っていた。しかし、弟子たちは剣が二本あると言う。イエス様はそれで十分と言うが、弟子たちはわかっていないけどいいや、というニュアンスがあると思う。ここでもイエス様は弟子たちを励ましている。

そしてペテロは三度もイエスを否定した。ペテロが実際に失敗して罪を犯す前からイエス様は話しておられたので、これは神のご計画の中にあることは分かる。しかしペテロは決して裏切らないと言ってしまった。ある意味でそれはもっともで、忠実な弟子の心である。しかしそれと同時にペテロは自分の弱さや罪深さを全然悟っていなかった。自信はあるが、本当の意味でのイエス様への深い信仰はまだもっていなかった。

このペテロのストーリーは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのすべての福音書に書かれていて、昔から教会を励ましてきた。教会の中で、失敗してイエス様を否定して、試練の中で負けてしまうクリスチャンは昔からいるし、今もいる。

それでも悔い改めて戻る。それを繰り返す。毎週の礼拝は放蕩息子が父親のところに戻ってくるような礼拝である。ペテロの話は他人の話ではない。私たちもこのストーリーを通して自分を見て、自分のことについて読んでいるという思いをもつべきである。弟子たちが一人残らずイエス様を否定して、イエス様を裏切ってしまったように、私たちも何かの形においてイエス様を裏切る思いをもったり行動をしてしまったことがある。しかしそれでも私たちがイエスのもとに戻ると、イエス様は赦してくださることを確信できるように、このペテロのストーリーは強調されている。



ルカ22:39〜53

それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちもイエスに従った。いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。そして、ご自分は弟子たちから離れて、石を投げて届くほどのところに行き、ひざまずいて祈られた。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」

[すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。]

イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。そこで、彼らに言われた。「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」

イエスがまだ話をしておられるうちに、見よ、群衆がやってきた。十二人の一人でユダという者が先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして近づいた。しかし、イエスは彼に言われた。「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか。」イエスの周りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そして、そのうちの一人が大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。するとイエスは、「やめなさい。そこまでにしなさい」と言われた。そして、耳にさわって彼を癒やされた。それからイエスは、押しかけてきた祭司長たち、宮の守衛長たち、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って出て来たのですか。わたしが毎日、宮で一緒にいる間、あなたがたはわたしに手をかけませんでした。しかし、今はあなたがたの時、暗闇の力です。」

イエス様の苦しみを表す祈りの箇所である。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」

十字架の死はイエス様にとってどんなに恐ろしいか。その恐ろしさは、御父の怒りの杯を飲むことである。死が怖いのではないし、痛みが怖いのでもない。イエス様は天の父に杯を取り去ってくださるように祈ってから、「しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」と祈っている。

「御心のままにしてください」は英語では言いやすい

Not my will but thy will be done.

自分の思いや願いではなく、御父のみこころを求めている。これがイエス様の祈りの本質。神の怒りの杯を飲むことは本当の人間、正しい人間として恐ろしいこと。しかしこの時でも、イエス様はなによりも父のみこころを求めている。主の祈りの中で「みこころが天で完全に行われるように、地でも行われますように」と祈るが、イエス様がこの祈りを弟子たちに教えてくださったように、本当の祈りの心は神の御国と神の義、神のみこころを求める祈りである。

弟子たちは疲れて一緒に祈ることができなかったが、イエス様が弟子たちに話している時に、イエス様を逮捕しようとする人が集まってきた。彼らはこの世の偉い人たちである。しかしイエス様はこの人たちを一切恐れていないし、そのようなことばもない。

「わたしが毎日、宮で一緒にいる間、あなたがたはわたしに手をかけませんでした。」

つまり、なぜ公のところで逮捕しないのかと叱って、彼らをさばいている。イエス様は決してこの人たちの暗闇の力を怖がったり心配したりしない。





ルカ22:54〜62

彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした。すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました。」しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。しばらくして、他の男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。

それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。そして、外に出て行って、激しく泣いた。

みんなよく知っている箇所である。ペテロは三回もイエス様を知らないと言う。

【マタイ10:33】しかし人々の前でわたしを知らないと言うものは、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないといいます。

ペテロのような罪は非常に大きな罪である。神の御前に捨てられるほどの大きな裏切りの罪であることを福音書の中で教えられる。ペテロがイエス様を否定した後で、イエス様がペテロを見つめられた。他の福音書を読むと、これはイエス様が最初に裁判を受けたところから移されて、別のところに連れていかれる場面である。その移動途中でイエス様が庭にいるペテロを見ている。イエス様とペテロの目が合って、ペテロがイエス様に言われたことを思い出して激しく泣いた。

ペテロは出て行って激しく泣いて悔い改めた。ペテロのストーリーはイエス様を裏切るストーリーである。これがイスカリオテのユダの裏切りとどう違うのかというと、悔い改めが違う。裏切ったことは両者は根本的に変わらない。悔い改めなければ救われない。悔い改めるなら救われる。このペテロのストーリーはそれを私たちに教えて励ましてくれるストーリーである。


ルカ22:63〜23:1

さて、イエスを監視していた者たちは、イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして、「当ててみろ、おまえを打ったのはだれだ」と聞いた。また、ほかにも多くの冒涜のことばをイエスに浴びせた。

夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まり、イエスを彼らの最高法院に連れ出して、こう言った。「おまえがキリストなら、そうだと言え。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」彼らはみな言った。「では、おまえは神の子なのか。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」そこで彼らは「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と言った。

集まっていた彼ら全員は立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。

このユダヤ人リーダーたちの裁判は、裁判としては公には成り立たないはずだ。正しいさばきを一切していないからだ。

そしてこの裁判は、本当はイスラエルが受けるべきさばきだった。それをイエス様が代わりに受けてくださっているストーリーの最初の部分である。ここでイエス様は打たれて侮辱されて、まるで愚か者のように扱われている。イエス様は愚か者が受けるさばきを、まるでご自分が愚か者であるかのように受けているが、イエス様は冷静で、ご自分をさばく者たちに正しい言葉で語って、この人たちをさばいている。リーダーたちは、これ以上証言が必要だろうか、と言うが、本当は彼らの方が悔い改めるべきだったのに、イエス様を冒涜してピラトのところに連れて行った。



ルカ23:2〜25

そしてイエスを訴え始めて、こう言った。「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分はキリストだと言っていることがわかりました。」そこでピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは答えられた。「あなたがそう言っています。」ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には、訴える理由が何も見つからない」と言った。しかし彼らは「この者は、ガリラヤから始めてここまで、ユダヤ全土で教えながら民衆を先導しているのです」と言い張った。

それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころ、エルサレムにいたのである。ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いて、ずっと前から会いたいと思い、またイエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちはその場にいて、イエスを激しく訴えていた。ヘロデもまた、自分の兵士たちと一緒にイエスを侮辱したり、からかったりしてから、はでな衣を着せてピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは親しくなった。それまでは互いに敵対していたのである。

ピラトは、祭司長たちと議員たち、そして民衆を呼び集め、こう言った。「おまえたちはこの人を、民衆を惑わす者として私のところに連れて来た。私がおまえたちの前で取り調べたところ、おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった。ヘロデも同様だった。わたしたちにこの人送り返して来たのだから。見なさい。この人は死に値することを何もしていない。だからわたしは、むちで懲らしめたうえで釈放する。」しかし彼らは一斉に叫んだ。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」バラバは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入れられていた者であった。ピラトはイエスを釈放しようと思って、再び彼らに呼びかけた。しかし彼らは、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは彼らに三度目に言った。「この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていた。それでピラトは、彼らの要求通りにすることに決めた。すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願い通りに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。

ピラトは三回も、「この人は死に値することを何もしていない」と言ったのに、人々が「十字架につけろ」と叫んだので、ピラトはその声に負けてイエスをイエス様を十字架につけて、バラバ(Barabbas)が代わりに釈放されることになった。Barは息子、Abbaは「アバ、父」のアバなので、バラバの名前は「父の息子」という意味がある。本当の父の息子であるイエス様が、父の息子バラバの代わりに死刑にされる。バラバの方が死刑を受ける立場にあったのに、その罰をイエス様が代わりに受けてくださった。私たちが死刑を受ける立場だったのに、イエス様が代わりに受けてくださった。

昨日シェイクスピアの講義をしたときに、レンブラントの「キリストの昇架」という絵を見せたが、その中のイエス様の十字架を支える男の一人がレンブラント自身だと伝えられている。レンブラントはオランダ系のクリスチャンで、イエス様が自分のために死んでくださったという認識をもっている。自分の方が十字架にかけられるはずだった。私たちがバラバであるということを、レンブラントはその絵で表現していると思う。


ルカ23:26〜38

彼らはイエスを引いていく途中、田舎から出てきたシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山々に向かって『私たちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって『私たちをおおえ』と言い始めます。生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には一体何が起こるでしょうか。」

ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑っていた。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」兵士たちも近くに来て、酢いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスが頭の上に掲げてあった。

イエス様はじつにユダヤ人の王、全世界の王であることをピラトは正しく告白したかのようだった。

しかしみなイエス様を苦しめて嘲笑った。その時にイエス様は自分を憎んで苦しめる敵のために祈ってくださった。

イエス様は愚かなイスラエルの人のために祈ってくださったので、ペンテコステの日に多くのユダヤ人がイエス様を信じることになった。祭司たちも、パリサイ人たちもイエス様を信じることになった。

【使徒の働き6:7】こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った。

敵のために祈ってくださるイエス様の美しさ、偉大さ、あわれみの深さをここで私たちは見る。

イエス様が犯罪者の一人として十字架にかけられたことも考えさせてくれる。



ルカ23:39〜43

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。するともう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

この箇所で罪の赦しの話が繰り返されている。この犯罪者の一人は死ぬ直前にイエス様に祈りをささげて、罪が赦されて、今日パラダイスにいると言っていただけた。ペテロ、ほかの弟子たち、群衆全体、犯罪者、これらの観点からも、神様は罪を赦すお方であるというポイントが強調されている。



ルカ23:44〜56

さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、これらの出来事を見て、悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った。しかし、イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。

さて、ここにヨセフという人がいたが、議員の一人で、善良で正しい人であった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった。この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。彼はからだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に収めた。この日は備え日で、安息日が始まろうとしていた。イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後についていき、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。それから、戻って香料と香油を用意した。そして安息日には、戒めにしたがって休んだ。

イエス様は、昇天する前に天の父に祈って、ご自分のたましいを天の父に委ねた。これは、いのちが取られたということよりも、いのちをささげたことを意味すると思う。

アリマタヤのヨセフはイエス様を信じているユダヤ人のリーダーであった。

【ヨハネ19:38a】その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。

このヨセフという人は、ユダヤ人の前では信仰告白をしていなかったが、そのヨセフがこのようにイエス様を葬ったことが福音のストーリーの中で大切である、とパウロは言う。

【第一コリント15:3〜4】私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてある通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてある通りに、三日目によみがえられたこと、

死んで、葬られて、よみがえったことは、本当に死んだことの証明である。このプロセスが大切である。そして女性たちはそれを見届けてから、イエス様の香料と香油を用意して安息日には戒めにしたがって休んだ。

毎週の聖餐式はイエス様が私たちのために死んでくださったことを記念する。一年間の中で、今週は特にイエス様の十字架の死を記念する日曜日なので、長い箇所をゆっくり学んだ。

主イエス・キリストがどのような裁判を受けたのか、どのように十字架の道を歩んだのかを思い出して、イエス様のからだと血を意味するパンと杯をいただいて、このような偉大で美しい、神に対して完全な人間であり、ご自分の弟子たちに対してじつに正しくへりくだった主であることを記念して、一週間が始まる。私たちの人生のすべてにおいてイエス様を中心とする心とその誓いをあらたにする。




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