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「殺せ、捨てろ、互いに偽るな」コロサイ3:5〜11

説教者:ラルフ・スミス牧師


コロサイ3:5〜11

ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。

あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。

しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。

そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

パウロは、主イエス・キリストがどんなに尊く、素晴らしい救い主なのかを私たちに教えている。特に2章から、私たちがキリストとともに死んで、キリストとともによみがえったことをいろいろな言い方で繰り返し強調する。


3章5節は「ですから」で始まる。ローマ書に似ていることに気づくだろう。パウロはローマ書1章から11章までで救いや神様について教え、12章を「だから」で始めて「このような生活を送りなさい」と教える。

エペソ書とも似ている。パウロはエペソ書1章から3章で救いや教会について教え、4章を「だから」で始めて4章から6章で実際のクリスチャンの歩み方を教える。

今日のコロサイの箇所も同じである。パウロは3:5を「だから」で初めて、4:6までで毎日の生活をクリスチャンらしく歩むとはどのようなことかを教えている。


今日のコロサイ3:5~11はこの長い箇所の最初の部分である。

パウロは3つのことを命令する。

・殺せ

・捨てろ

・互いに偽るな

聖書の中で「殺せ」とはあまり言われないが、パウロは5節で五つの罪を殺せと言う。

8節で「捨てろ」と言って五つの罪を捨てろと言う。

9節で「互いに偽るな」と言ってまた五つの罪のリストについて話す。

非常に不思議で興味深い構造である。


●殺せ

ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。(3:5)

このリストはモーセの十戒の第七戒の姦淫の罪を取り扱っている。

そしてパウロは貪欲は偶像礼拝であると言う。これはモーセの十戒の第二戒と第十戒を取り扱っている。

モーセの十戒の第二戒と第七戒は旧約ではよく一緒に出てくる。偶像礼拝は霊的な姦淫なのである。


●捨てろ

しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。(3:8)

このリストはモーセの十戒の第六戒の殺人と関係がある罪を取り扱っている。

姦淫の罪が貪りから始まるように、人殺しは怒り、憤り、悪意から始まると言える。


●互いに偽るな

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。

そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(3:9~11)

偽ることがユダヤ人や異邦人とどうつながるのか。そしてこのリストと偽りとの関係は何なのか。そのように思う人もいると思うが、そこには後で戻る。


「殺しなさい。」「捨てなさい。」この二つは、じつは教会の歴史の中で誤解されている。

パウロの手紙を読んだ2~3世紀の人たちの話であるが、彼らは禁欲主義的な解釈をしている。

禁欲主義者は「人間の問題はからだにある」と考えているので、断食が必要だし、肉やワインはいけないし、結婚してはいけないと言う。これは極端な例であるが、ギリシア人の哲学者は実際に金持ちを説得して、罪から解放されるためにすべての富を海に捨てさせようとした。コロサイの教会に、食べるな、飲むな、と言って悪い影響与えようとしている教師たちは、どちらかというと禁欲主義的だ。皮肉であるが、欲を殺すために禁欲主義になる。しかしパウロは一切このように教えてはいない。

結婚は祝福で良いことである。そしてパンやワインも祝福である。イスラエルは神を礼拝するために集まって何をするかというと、宴会である。宴会は旧約聖書の中で非常に強調される。旧約のイスラエルで断食は年に一回のみだが、礼拝では宴会を繰り返している。サムエル記でハンナも和解のいけにえをささげているが、このような個人的な礼拝を行うときにも毎年シロに上って雄牛をささげて宴会を行う。本当の神を信じて礼拝を行って宴会をする。これは決して禁欲主義ではない。結婚も新約聖書でも旧約聖書でも協調されて、聖書はイエス様と教会の結婚のお祝いで終わるがそれもすべて宴会である。禁欲主義的な教えはどこにもないのに、昔の教会の中でパウロの教えを誤解してしまった時代があった。


この手紙をコロサイ教会に届けたのはティキコである。ティキコはパウロと一緒にいたので、彼がコロサイの教会を訪ねてこの手紙をみんなに読んだ。エズラが聖書を読んで解き明かしたように、ティキコもパウロの手紙を読んで説き明かしもしたと思う。パウロの知っているところをティキコも知っていた。コロサイの教会がそのことを知らなくてもティキコが説明することができた。

パウロが、地にあるからだの部分を殺しなさい、と言うとき、イエス様を指している。

「からだの部分」ということばは、マタイ福音書の中で二回、ヤコブ書の中で何回か出て、それ以外はパウロの手紙の中で使われている。

【マタイ5:28~30】しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。

パウロがからだの部分について教えるとき、イエス様の山上の説教の姦淫についての教えのことを考えている。コロサイの教会はここまで罪に対してたたかうべきであるとパウロは言う。


【マタイ5:22】しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきをうけなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

兄弟に対して理由なしに怒ったら、殺してはならないというモーセの律法を破ることになると、山上の説教でイエス様が教えてくださった。その罪を捨てなさい。


パウロは、ローマでマルコとルカと一緒に交わりをしてイエス様の教えについて話していた。マタイの福音書はパウロの手紙の30年ほど前にすでに書かれて、一番多くコピーされて広くあちこちに送られていた。

パウロが山上の説教を引用して、第七戒の命令を指している。

イエス様の罪に対してたたかう教えを、パウロは別の言い方で繰り返しコロサイの教会に話している。コロサイの教会はイエス様がどのようにモーセの十戒を教えてくれたかを思い出して瞑想することができたと思う。


互いに偽りを言ってはいけない。あなたがたは古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着た。これはバプテスマの話である。バプテスマによって私たちの古い人が死に、イエス様とともに新しい人がよみがえった。

古い人はアダムにある自分だと考えてよいと思う。そして新しい人はキリストである。私たちはバプテスマによってアダムにある自分を捨てて、キリストにある新しい自分になった。バプテスマはキリストととも死んでよみがえることであるとパウロは繰り返し教える。ローマ6章でも同じように教えていることを覚えていると思う。

古い人、新しい人という話をするとき、コロサイの人たちも私たちもアダムの話を思い出すが、アダムの話はじつは少し複雑である。アダムと女(まだエバと名付けられる前なので)は神に逆らい、取ってはいけないものを取って食べて、むさぼって罪を犯してしまった。しかし神がアダムと女を叱って、サタンにさばきを宣言したとき、アダムは神を信じて自分の妻にエバという名をつけた。エバは生きるものすべての母という意味である。そこから人類は分かれて、女の子孫と蛇の子孫との戦いが始まる。女の子孫が蛇をさばき、蛇の子孫は女の子孫に害を加える。アダムとエバはこの話を聞いたとき、そこに救いの約束があることがわかった。アダムは信仰をもって新しいアダムになった。

アダムとエバから生まれる最初の子は蛇の子孫でカイン、二人目は女の子孫でアベルであった。アベルが殺された後で、セツという女の子孫が生まれた。古い人の本当の意味はカインの子孫において見ることができる。カインは人殺しで、神に対して怒って自分の兄弟を殺した。カインの子孫は欲しがって複数の妻を取る。創世記6章になると、カインの子孫とセツの子孫は一緒に堕落して貪欲になり、欲しがってはいけないものを欲しがっている。暴力と殺人と姦淫のストーリーは創世記の4章から6章に詳しく書かれている。

【コロサイ3:6b】神の怒りが不従順の子らの上に下った。

聖書の中で、神の怒りを一番明白に強調しているのはノアの洪水である。心から神を信じて神を愛して命令に従って歩むようにパウロは話す。

古い人新しい人の話をするとき、パウロはギリシア人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、奴隷も自由人もないと言う。これはガラテヤの手紙と同じである。ガラテヤ書の中でパウロがペテロを叱った話を覚えていると思う。ペテロは、ユダヤ人がエルサレムからアンティオケの教会に来た時、それまで異邦人と一緒に食べていたのにユダヤ人のところに行って食べてしまった。キリストにあるならユダヤ人も異邦人もないはずで、一つのキリストにあるからだであるはずだ。ペテロはユダヤ人の伝統に基づいて行動してしまい、福音の真理に従って歩んでいなかった。キリストと一つになっているのであれば、ペテロもそのように歩むべきだった。この食事は聖餐式の話だと思う。当時はユダヤ人と異邦人を分けて聖餐式を行なっていた。


パウロは、殺しなさい、捨てなさい、互いにいつわるな、とコロサイの教会に話して、クリスチャンらしく歩むように教えている。クリスチャンらしい歩みは礼拝から始まる。私たちは繰り返し罪を犯し、悪い言葉を口から出してしまう。私たちは毎週の礼拝で「してはならないことをし、しなければならないことをせず、思いと、言葉と、行いによって多くの罪を犯しています。」と告白して神様に赦しを求めている。キリストのからだとして古い人を脱ぎ捨てた者は、繰り返しその古い人を捨てるのである。私たちは主イエス・キリストにあって新しく生まれた。新しい人を着て、神様の御言葉に従って生きる心をあらたにする。それが毎日の生活においてクリスチャンらしく歩むために非常に大切である。

礼拝の中でモーセの十戒も毎週語っている。それはこのような歩みをするように私たちを励ますためである。


毎週の礼拝で聖餐式をいただく。この聖餐式において、神の恵みによって御霊が働いている。古い人を捨てて新しい人を着て、新しい人として歩むように御霊の力が与えられる。

私たちの時代にはギリシャ人もユダヤ人もいないが、イエス様の十字架によってバベルの塔のさばきは取り除かれ、アダムの罪の問題は解決された。イエス様を信じる者が一つになっている。日本人もアメリカ人もなく、ウクライナ人もロシア人もなく、イエス様を信じる者は一つである。だから一緒に礼拝することができるし、一緒に聖餐式を受けることができるし、神様に感謝をささげて、その感謝の心をもって一週間を歩むことができる。

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