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「生きることはキリスト」ピリピ1:18b〜21

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ1:18b〜21

そうです。これからも喜ぶでしょう。

というのは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、私が切に期待し望んでいるとおりに、このことが結局は私の救いとなることを知っているからです。

私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。

私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

パウロはローマに連れていかれて軟禁状態であった。ローマ兵と鎖で24時間つながれ、兵士は4時間ごとに交代するので、1年間で約千回、2年間で約2千回ローマ兵が交代する。それでパウロはたくさんのローマ兵に福音を伝えることができた。ローマの教会もパウロが逮捕されたことによって励まされて一生懸命福音を伝えている。それらのことをパウロは喜んでいる。


パウロはこの軟禁状態がそろそろ終わるとわかっている。ピリピ人への手紙には「生きるにしても死ぬにしても」と書かれているので、もしかしたら死ぬかもしれないと思っている。コロサイ、エペソ、ピレモンの手紙の中にはそのような言い方は出てこないので、ピリピ人への手紙は4つの手紙の中で最後に書かれた。そろそろ判決が言い渡されるときである。そのような中でパウロは福音が伝えられることを心から喜んでいる。これからも喜ぶ。これらが全てパウロの救いとなると言う。


⚫️というのは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、私が切に期待し望んでいるとおりに、このことが結局は私の救いとなることを知っているからです。(1:19)

「救い」はあいまいな言い方である。

パウロはどういう意味で救いと言っているのだろうか。

1つは、軟禁状態から解放されて普通の生活を送りたいという意味があると思う。解放されたらピリピの教会を訪ねたいのだ。

【ピリピ2:24】また、私自身も近いうちに行けると、主にあって確信しています。

一方では、「生きるにしても死ぬにしても」と言っているので、もしかしたら死ぬかもしれないと思っている。なにか重い病気になって死ぬということではなく、死刑になるということだ。パウロにはその覚悟もある。牢から解放されてピリピの教会を訪ねるにしても、死刑にされても、キリストがあがめられることを切に祈って求めている。それがパウロがこの手紙を書いた時の状態である。


⚫️私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。(1:21)

・なぜ死ぬことが益になるのだろうか。

もしパウロが死刑になったら、何のための死刑なのかを人々が知ることになる。この2年の間、親衛隊やカエサルの家のしもべたちもほとんどパウロの話を聞いている。だから死刑になってもキリストの御名があがめられる。何のために死刑になるのかみんな知っているからだ。だから死刑になってもキリストの福音が宣べ伝えられる。それで生きるにしても死ぬにしてもパウロは喜んでいる。

・生きることはキリスト。

この意味はわかる。パウロはダマスコで責任を与えられて、クリスチャンを逮捕してエルサレムに連れて来る働きをしていた。そのような大きな責任が与えられたので、パウロは30歳位だと思う。AD30年頃に30歳と考えると、だいたいイエス様と同じ時に生まれていたようだ。

パウロがダマスコに行く途中でイエス様が現れて「なぜ私を迫害するのか」と聞く。その後いろいろなことがあって、パウロは自分の罪を悔い改めてダマスコのアナニヤのところに行ってバプテスマを受けた。

最初、アナニヤはパウロにバプテスマを授けるのを恐れていた。パウロは多くのクリスチャンを捕まえる権威を祭司長たちに与えられていたからだ。

【使徒の働き9:15】行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、私の選びの器です。

パウロはイエス様の御名を運ぶ器となった。

パウロがピリピ人への手紙を書いたのがAD62年頃なので、AD30年にパウロが救われてから30年たっている。パウロにとって「生きることはキリスト」であるというのは、使徒の働きを読めばわかる。こんなに熱心でクリスチャンとして素晴らしいパウロが、あちこちでクリスチャンに反対されたり誤解されたりするのは不思議だが、それが特にコリント人への手紙に出てくる。

【第一コリント3:4】ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。

この教会には確かに分派が起こっている。コリント人への手紙第一はAD55年頃に書かれているが、その中でパウロは自分を最も小さい者と呼んでいる。

【第一コリント15:9】私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。

パウロは他の使徒たちより多く働いて、生きることはキリストであることを疑わない。


コリント人への手紙第二はAD56年に書かれたが、パウロに直接反対している偽教師が大胆にパウロに反対したので、その人たちに手紙を書いている。パウロはコリントの教会に自分の苦労を話したが、偽教師たちの誇りに対して自分も誇らなければならなかった。

【第二コリント11:21〜31】言うのも恥ずかしいことですが、私たちは弱かったのです。何であれ、だれかがあえて誇るのなら、私は愚かになって言いますが、私もあえて誇りましょう。

彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。

彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。

ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。

何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。

ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。

だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。

もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。

主イエスの父である神、とこしえにほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないことをご存じです。

キリストのために何年働いたか、いくつの教会を設立したか、何回説教したか、何回奇跡を行ったか、パウロはそのようなことを誇らなかった。(パウロによるエペソでの奇跡はすごかった。パウロのハンカチにさわっただけで病気が癒された。)

パウロが自分の弱さを誇ることも生きることはキリストであることを表している。

自分の弱さを誇ることは、キリストのために生きることで、本物の信仰である。強さを誇るのは偽物である。


生きることはキリスト、ということばを聞いて私たちは感動するが、パウロは素晴らしい人だからそう言えるけど、私たちには言えないなと思ったらそれは間違いだと思う。


そしてイエス様にとっても、生きることはキリストである。変な言い方に聞こえるかもしれないが、そのことを一緒に考えたい。

イエス様は30歳でバプテスマを受けて3年間働き、イエス様の生涯は33年間だった。マタイ、マルコ、ルカには、イエス様の生涯の中で最後の3年間のことが一番詳しく書かれている。マタイとルカはイエス様が生まれた時のことを書いているし、ルカだけは12歳のイエス様のことも書いてくれた。しかし30歳までのことはそれほど詳しくはわからないのである。

イエス様は大工だった。イエス様の父親も大工だったので、当然イエス様も大工だったとわかる。

マタイとマルコにはイエス様の兄弟の話が出てくる。イエス様にはヤコブ、ヨセフ、ユダ、シメオンという4人の弟がいる。そして姉妹たちという言い方がマタイにあるので、妹も2人以上いる。3人かもしれない。マリアとヨセフにはイエス様の下に男の子が4人、女の子が少なくとも2人か3人いた。注解書にはほかの意見もある。例えばイエス様の下の子どもたちはヨセフの連れ子だという考えがあったり、いとこだと言う人もいる。なぜならローマカトリックはマリアが死ぬ日まで処女だったのできよいと考えていたからだ。しかし聖書の中でそれがきよいという考え方はないし、ヨセフと一緒にならなかったら罪の話になってしまう。本当にマリアとヨセフは結婚して、理想的な夫婦のように生活していて、イエス様が生まれたあとで少なくとも6人の子どもが与えられた。2年ごとに下の子が与えられたら、イエス様が2歳4歳6歳8歳10歳12歳で6人の兄弟が与えられていたと想像できる。勝手な推測でこのように考える伝統があるわけではないが、イエス様が12歳の時に、下に6人の兄弟がいたことになる。ヨセフは大工で忙しく働いて、マリアは家の仕事をして、イエス様はお兄さんとして手伝わなければならないこともたくさんあった。

イエス様の宣教活動の中でヨセフの話は出て来ないので、もうすでに死んだのかもしれない。その前にナザレの教会がイエス様について話すときにナザレの大工という言い方をする。ナザレは400人から500人ぐらいの小さな村で、イエス様はこの村で大工として働いていたと思う。そしてヨセフはイエス様が10代の時に亡くなったという伝統がある。仮に16歳と仮定すると、それから30歳までの14年間、マリアがアドバイスを求めるときにイエス様に尋ねたと思う。ヨハネの福音書にイエス様の最初の奇跡の話が出て来るが、そのとき母マリアがイエス様に相談していた。何か問題があった時マリアはいつもイエス様に相談していた。イエス様はマリアに夫がするようなアドバイスを与える役割だったし、下の兄弟にとって父親のような役割だった。教えて、働いて、経済的に家族を支えている。イエス様は30歳までみなさんと同じような生活を送っていた。

イエス様にとってキリストとして生きるのは、大工として働き、兄弟たちを教え、マリアを助けてアドバイスを与えて、このように生きるのがすべてだった。やるべき仕事を時間通りやって、一番良い働き人だったということは確信できる。

そのイエス様が私たちに模範を示してくださる。イエス様は律法にしたがって歩んだ。

イエス様こそ、私たちに生きることはキリストであると教えて、普通の生活の模範を私たちに示してくださった。マリアや兄弟たちを愛して助けて、苦労して働いた。そのようにして私たちのことも励ましてくださっている。

へブル人への手紙によると、私たちの大祭司であるイエス様は、私たちがあうような試練を知らないお方ではないと書かれている。たくさんの苦労を経験している。だから私たちが祈りをささげるときに、私たちを中から理解して同情してくださり、心配して、愛して、思いやってくださる。子どもを育てる苦労、経済的な苦しみ、仕事の苦しみを経験している。そのイエス様に、私たちはどのような苦しみでも祈りをささげてよいのである。


ヨハネの福音書13章から16章で、イエス様が弟子たちに最後の話をして、17章で祈ってくださっている。13章ではイスカリオテのユダがまだ一緒にいる。そしてユダが出て行くと、イエス様は「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。(13:31)」と言って、30歳位の弟子たちに「子どもたちよ、(13:33)」と呼びかけて話し始めた。

イエス様が復活して、ティベリア湖の岸辺で弟子たちの前に現れたときも、「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。(21:5)」と話しかけている。イエス様はマリアと一緒に兄弟を育てたので、父親の心をもってそのように弟子たちを見る。

イエス様は私たちのこともそのように見てくださり、私たちの祈りを聞いてくださる。




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