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「目を覚ましていなさい」コロサイ4:2~4

説教者:ラルフ・スミス牧師


コロサイ4:2~4

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。同時に、私たちのためにも祈ってください。神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢につながれています。また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。

今日の箇所はとてもシンプルで、2節で祈りなさいと命令して、3~4節で祈る内容はこれです、と言う。

とても分かりやすくて何も問題ないと思うかもしれないが、パウロはここでとても特別な表現を使っている。その表現には深い意味がある。コロサイの人々は、この手紙を読んでその表現に気づいて考えさせられたはずだ。

皆さんの経験でも、キーワードを聞くとその内容を思い出せる、というものがあるだろう。

例えば「雨ニモマケズ」というフレーズを聞けば、宮沢賢治の詩を思い出すことができる人はいると思う。多くの日本人が知って詩ではないかと思う。

ここでパウロが使っている特別な表現は、それと同じようにみんな知っていることばで、聞けば気づくことばである。ただし、ギリシャ語と日本語の違いで、気づかない人もいるかもしれない。そのことばはギリシャ語で「グレゴリオ」である。英語で「グレゴリー」という名前があるが、これはこのギリシャ語の「グレゴリオ」からきている。日本語に翻訳すると「目を覚まして」となる。

これは非常に特別な表現である。なぜ特別な意味を持つのかというと、これがイエス様のことばだからである。

「目を覚まして」は新約聖書で23回使われている。そのうち17回はイエス様の口から出ていて、その他はイエス様のことばを指したり借りたりする形で出てくる。だから人々はすぐに気がついて考えさせられるのだ。


イエス様はいつ、どこで、このことばを言ったのだろうか。

福音書の中に14回出てくる。そのうちマタイの福音書に6回出てくる。6回のうち、オリーブ山の説教で3回、ゲッセマネの祈りで3回使われている。

オリーブ山の説教の中で、イエス様は、いつさばきが来るか分からないから、目を覚ましていなさいと繰り返し3回も言う。さばきに対する心の準備をさせている。

ゲッセマネでは、イエス様は非常に苦しいので一緒に目を覚まして祈ってくださいと弟子たちに頼む。イエス様が祈って、戻ってくると弟子たちは寝ているので、誘惑に陥らないように目を覚ましていなさいと言う。

マタイの福音書は、当時一番人気のある福音書だった。AD30年にイエス様が復活して昇天してすぐに書かれた。コロサイ人への手紙はAD60年に書かれたので、マタイの福音書が書かれてから30年たっているので、マタイの福音書はたくさんコピーされて、あちこちに広まっていた。

【使徒の働き19:19】また魔術を行っていた者たちが多数、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を合計すると、銀貨五万枚になった。

これはエペソの町の話である。パウロはエペソで三年間福音を伝えて、多くの人が救われて、彼らは魔術の本を燃やした。こんなにたくさんの本を持っているのはお金持ちだからである。そして本を燃やした人たちが何を買うかというと、マタイの福音書を買う。

マルコの福音書はAD40年ごろ書かれて、ルカの福音書はAD50年ごろ書かれて、パウロがエペソで福音を伝えたのはAD55年ごろなので、エペソの教会にはマタイ、マルコ、ルカの福音書があった。パウロはエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙をAD60年頃に書いた。コロサイはエペソの近くにあったので、福音書を借りたりそれをコピーしたりしただろうと思う。だからコロサイの教会の人も福音書のことばを知っている。人気のあったマタイの福音書を、コロサイの教会でも読んでいたに違いない。

マルコの福音書のオリーブ山の説教で、イエス様は3回「目を覚ましていなさい」と話す。さばきはいつ来るか分からないので目を覚ましていなさい。

ゲッセマネの祈りでも3回「目を覚ましていなさい」と弟子たちに話す。

コロサイの教会の人々は、「目を覚まして祈りなさい」と聞けば、オリーブ山の説教やゲッセマネの園でのことを思い出すはずである。ただ単に、過去にこのようなことがあったというだけではない。オリーブ山の説教は、エルサレムや神殿に対するさばきの預言の説教である。イエス様は、この世代が過ぎ去る前に預言は成就されると言っていた。それからすでの30年たっている。もうさばきは来ないだろうと言ってイエス様の預言をばかにする人もいた。しかしパウロもペテロもコロサイの教会のクリスチャンたちも、さばきは自分たちと関係ないとは思っていない。だから「目を覚ましていなさい」と言えば通じる。そろそろさばきがくる。何年何月何日かまではわからないが、さばきの準備だとわかる。いつ来てもいいように神様の前に正しく歩むように祈って求める。

ゲッセマネで誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさいとイエス様は弟子たちに言ったが、弟子たちは肉体的にも精神的にも疲れていたので、目を覚ましていることができなかった。そして弟子たちは誘惑に陥ってすべって失敗した。

イエス様が十字架上で死なれた翌日は土曜日で、安息日を守ってみんな休んでいた。日曜日の朝、女性たちがイエス様の復活を証言しても、弟子たちはだれも信じなかった。目を覚まして祈ることをしなかった弟子たちは、信仰を失ってしまった。試練は大きすぎて耐えられなくて、迷ってしまって、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。イエス様は、オリーブ山の説教で、自分が戻ってくるときに、信仰をもっている人は果たしているだろうかと言っている。試練のためにたくさんの人が信仰から離れるとも言った。ゲッセマネの警告と弟子たちのその後の失敗は、エルサレムのさばきを見る人たちのための警告でもあった。信仰が失われないように、目を覚まして祈りなさいとパウロはコロサイの人たちに言う。自分たちもそろそろ大きな試練に会う。時代の大きな変化はすぐに来る。エルサレムがさばかれて神殿がなくなる。歴史が始まったときから、イエス様が復活して昇天した時までの時代が終わり、新しい時代が始まる。キリストの教会の時が決定的に始まる。イエス様が生まれた時から始まったと言ってもいいし、バプテスマを受けた時から始まったと言ってもいいし、イエス様が十字架上で死んでよみがえった時から始まったと言ってもいいが、神殿がある限り古い契約のシステムは残っている。イエス様ご自身が古い神殿をさばいて、その時代が終わる。でも教会にとって、これは非常に厳しいときであることが、オリーブ山の説教にも出てくるし、黙示録の中にも出てくる。迫害があまりにも激しくて、人は信仰から離れる。その警告を受けた人たちは、目を覚ましていなさい、という手紙を読んだときに、イエス様のことば思い出して、そろそろさばきが来るだろうという認識をもつと思う。



パウロは、自分たちが試練にあわないように祈ってください、と頼んでいるのではない。この状態から解放されるように祈ってください、と頼んでいるのでもない。パウロが頼んでいる祈りは、門がみことばのために開かれることである。コロサイの教会のためでもなく、パウロ自身のためでもない。みことばが門から出て広まることである。


コロサイ人への手紙を書いたとき、パウロは友人であるルカと一緒にいた。パウロがみことばのために門が開かれるように祈ってくださいと頼むとき、ルカが書いた使徒の働きの内容について一緒に語っていたかもしれない。この手紙を書き終わったときはパウロがまだローマにいたので、ルカと話していたかもしれない。ルカが書いた使徒の働きの中で「みことば」は34回使われている。みことばについて何が書いてあるかというと、みことばが広まった、みことばが盛んになった、みことばが実を結んだ、みことばは生きていて力があるなど、すべてみことばが主語になっている。パウロたちの働きはみことばの働きである。パウロは今回はローマから多分解放されるだろうとピリピ人への手紙で言っているので、多分これで私は死ぬという思いではないと思う。でもまだ軟禁状態で、鎖につながれている。

【ピリピ1:12】さて兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。

パウロはこの軟禁生活が苦しくていやだと思っていない。感謝している。門が開かれて、実を結んで神の奥義を語れるように祈ってくださいと言っている。パウロはキリストの奥義を語る。その奥は福音のことであるが、異邦人とユダヤ人が主イエス・キリストにあって一つの新しいキリストのからだを作るということである。救われた人はキリストの花嫁になる。それが奥義。未来の望みの福音である。さばきが来たら、神様がそれを用いて、福音がもっと成長する。

ピリピにいた時、パウロとバルナバは逮捕されて、牢に入れられた。夜12時に二人は喜んで歌っている。これが福音のためになるから喜んでいる。創世記に書かれているように、ヨセフは牢にいたが、よみがえってパロの隣に座って福音が広まった。苦しみは解放の前にくる。さばきを行ってくださる神様は、それを用いて新しい世界を築き上げる。さばきは終わりではなく、神様が歴史を変える手段である。

パウロは、目を覚まして、福音のために門が開くように祈ってくださいと頼んでいる。パウロが語るべきことを語ることができるように祈ってくださいと言う。

エペソ人への手紙でも、次のように頼んでいる。

【エペソ6:19】また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください

パウロが大胆ではないと感じたことはないが、パウロでさえ大胆に語ることができるように祈ってくださいと他の人に頼むのなら、私たちもこの地域教会が大胆に福音を伝えることが出来るように祈るべきだと思う。福音のための門がこの日本で開かれて、私たちは語るべきことを語る機会が与えられるように求めて、その機会が与えられたら喜んでみことばを語ることができるように、私たちが自分の教会のためにそれを祈らなければならない。パウロの時代は大きなさばきが来る時代であった。私たちの時代は大きなさばきはすでに来はじめた時代である。私たちは大きなさばきに向かっているが、さばきはもう始まっている。ローマ1章を思い出してほしい。人間は感謝しないで、思いのままに偶像礼拝の道を歩いたので、神様は彼らを思いのままにその人たちを悪に引き渡した。

【ローマ1:18】というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

世界は暴力的なもので狂っている。さばきが来るからそのようになっているのではなく、さばきがすでに来ているのである。ウクライナの戦争がどうなるか分からない。核兵器を使うかもしれない。中国も台湾と戦争をするかもしれない。経済状態も悪くなる。レビ記26章、申命記28章にある契約のさばきは、戦争や経済的な問題、農業の問題などだと書かれている。私たちはすでにそのようなものを経験し始めている。だからコロサイ人への手紙と同じように祈らなければならない。何を祈るべきか。祈りにおいて何よりも求めるべきことは御国である。神様がみことばを語る機会を与えて下さるように、みことばのために門が開かれて、パウロのように大胆に福音を伝えることができるように御霊の力が与えられるように。

イエス様は、いつでも祈るべきであり、がっかりしてはいけないことをルカの福音書18章で教えてくださっている。裁判官は神を恐れず人を人とも思わない人物だったが、やもめがうるさくて仕方なかったので裁判をした。神様は求める者に与えてくださる。私たちが神様にさばきを祈り求めるならさばきは来る。罪や悪者がさばかれるように神様が動いてくださるように、働いてくださるように祈り求める。目を覚まして感謝をもって祈り、がっかりしないで、失望しないで、試練の中にあっても信仰をもって歩むためには、感謝が必要である。目を覚まして祈ることについてオリーブ山の説教やゲッセマネの祈りを思い出して感謝をもって祈る。感謝をもって祈るということは、神様が恵みを与えてくださって、永遠のいのちを与えてくださったことへの感謝である。だれもこのいのちを私たちから奪うことはできない。


私たちは毎週の礼拝で何回も感謝を口にする。聖餐式そのものは感謝のお祝い、感謝の記念である。イエス様が十字架にかかって、主となって、私たちに永遠のいのちを与えてくださったことを感謝する。その感謝は私たちに試練の中で堅忍する力を与えてくださる。




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