説教者:ベンゼデク・スミス牧師
第1サムエル記1:4-20, 2:1-10
そのようなある日、エルカナはいけにえを献げた。彼は、妻のペニンナ、そして彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えるようにしていたが、ハンナには特別の受ける分を与えていた。主は、彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。
また、彼女に敵対するペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられたことで、彼女をひどく苛立たせ、その怒りをかき立てた。そのようなことが毎年行われ、ハンナが主の家に上っていくたびに、ペニンナは彼女の怒りをかき立てるのだった。こういうわけで、ハンナは泣いて、食事もしようともしなかった。夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ、なぜ泣いているのか。どうして食べないのか。どうして、あなたの心は苦しんでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないか。」
シロでの飲食が終わった後、ハンナは立ち上がった。ちょうどそのとき、祭司エリは主の神殿の門柱のそばで、椅子に座っていた。ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にカミソリを当てません。」
ハンナが主の前で長く祈っている間、エリは彼女の口もとをじっと見ていた。ハンナは心で祈っていたので、唇だけが動いて、声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのだと思った。エリは彼女に言った。」「いつまで酔っているのか。酔いを覚ましなさい。」ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえて下さるように。」彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。彼らは翌朝早く起きて、主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家に帰って来た。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。
年が改まって、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。そして「私がこの子を主にお願いしたのだから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。
ハンナは祈った。「私の心は主にあって大いに喜び、
私の角は主によって高く上がります。
私の口は敵に大きく向かって開きます。
私があなたの救いを喜ぶからです。
主のように聖なる方はいません。
まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。
私たちの神のような岩はありません。
おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。
横柄なことばを口にしてはなりません。
まことに主は、すべてを知る神。
そのみわざは測り知れません。
勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。
満ち足りていた者がパンのために雇われ、
飢えていた者に、飢えることがなくなります。
不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。
主は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。
主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。
主は、弱い者をちりから起、貧しい者をあくたから引き上げ、
高貴な者とともに座らせ、彼らに栄光の座を継がせます。
まことに、地の柱は主のもの。その上に主は世界を据えられました。
主は敬虔な者たちの足を守られます。
しかし、悪者どもは、闇の中に滅びうせます。
人は、自分の能力によっては勝てないからです。
主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。
主は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。」
私たちは毎週日曜日に集まって、四つの箇所を朗読します。その四つがすべてつながっていることもありますが、最初の二つと後の二つがつながっていることもあります。今日は最初の二つが第一サムエルでつながっている日です。
不妊に関することは、決して話しやすいトピックではありません。しかし、話づらいことこそ話すのが大事だったりします。そしてこの第一サムエルの箇所は、ハンナが不妊で泣いて苦しんでいるところから始まります。
彼女は愛情深い夫がいるにもかかわらず、悲しんでいました。彼女は不妊だけではなくて、そのせいでいじめられていたからです。じつはごく最近まで、女性の社会に対する主な仕事は子を産むことでした。家族や部族や国の存続のために必要だったのです。昔は、病気や戦争などで死亡率が高く、多くの人が若くして死んでいました。一世紀ごとに世界の人口を見ると、ほとんど変わっていないことに気づくでしょう。ほんの少し増えている世紀もありますが、たまには減っている世紀もあります。だから人口を保つためにも、なるべくたくさん子を産まなければならな世界だったのです。
子どもが多ければ、その分働き手があり、軍人も多く、母親も多かったので、子どもが産めない女性は役割を果たせない者という目で見られて、自分自身も自分をそのように見ていました。今の個人主義の時代にとって、これはとても不思議なことです。私たちは部族主義から解放された社会に住んでいるので、結婚も出産も個人の自由だと思われています。結婚はしたいからするもので、結婚したくなければしなくてもよいものになっています。それにもかかわらず、今の時代でも不妊であることはつらいことです。夫婦が生物学的に子どもを産めない場合もあれば、結婚する機会もない人もいます。あるいは、あえて独身を自ら選ぶ場合もあります。たとえ自分で選んだ道だとしても、男性でも女性でもその犠牲は大きいものなのです。そして女性のからだが子どもを産むためにデザインされているので、どちらかというと重荷が大きいのは女性の方かもしれません。しかし、男性でも女性でも、子どもがいないことは辛かったりします。
その一つの理由は、自分がだれのために生きているか、という問いに対する簡単なわかりやすい答えがないからです。それで自分のために生きるという空しさから逃れるのが難しかったりします。私たちは、自分より大きい者のために生きたいのです。意味のある人生を生きたいと思っているのです。そして自分が死んだあとも、それが人であっても組織であっても何かを残したいという思いがあるのです。私たちは何かを生み出す者として造られているからです。
【創世記1:25】神は地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、地面を這うすべてのものを種類ごとに造られた。
神はそれを良しと見られた。
神は天と地を創造して、その中にあるすべてのものを造りました。
【創世記1:26~27】神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
神は人をご自分のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
世界を造ったばかりの神は、ご自分に似たものとして人間を造ります。
【創世記1:28】神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」
人間も神のように創造していのちをつくりなさい、という命令です。それが私たち人間の深いところにあります。
また、私たちの周りを見ると、生きているものがすべて続くように機能しています。生きているものはすべてまた新しいいのちを生み出すために生きています。目や鼻に入ってくる杉の花粉はそのためですし、耳に入るセミの声もそのためですし、口に入っているイクラもそうですね。
アダムのからだは、エデンの園を耕し、美しく、実を結ぶ働きをするために与えられています。それ以上にエデンの園はエバ自身なのです。その二人で実を結ぶためにデザインされています。
しかし、すべての人類にこの機会が与えられているわけではありません。神様はハンナの胎を閉じられました。そしてそのせいで彼女は苦しんで、泣いて、食事をしようともしませんでした。
●ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にカミソリを当てません。」(第一サムエル1:10~11)
そこでハンナは祈ります。
イスラエルには、ある特別なミッションを果たすために聖別された人たちがいて、彼らは一時的な祭司のようなものでした。そのミッションを果たすまでは頭にカミソリを当てず、ぶどう酒も飲まないとか、いろいろな決まりがありました。彼らは祭司と戦士を合わせたような特別な人たちでした。普通は時期が決まっているのですが、ハンナは自分の息子を生まれたときから一生のナジル人として神にささげることを誓います。「私に子どもを下されば、あなたに一生のナジル人としてささげます。」彼女はこのように祈ったのです。
一見すると、これはまるで神様との取引のように見えます。ハンナは、神が私に私のほしいものを下さるなら、私も神に良いものを与えます、と祈っているのでしょうか。私たちは神との利害関係はありません。神様は何か私たちからほしいものがあるから私たちにものを与えるのではないのです。人が二人いたら、より相手を必要とする方が力のない者となります。相手を必要としない方が二人の間では力があります。
神様は私たちから一切何も必要としないので、私たちは神と交渉するために何の力もありません。
ハンナが息子がほしくて実際に神と交渉しているなら、「神様が私に息子を与えてくださるなら、何か別の良いものを神に与えます」と祈るはずです。しかしハンナはそのように祈りませんでした。ハンナは、神が息子を下さったら、その子を神に渡そうとしています。四世紀の聖人がハンナについてこのように言っています。
「私は神が賜ったものをすべてあなたにお渡しします。私の長子、祈りの子」
ハンナはじつにアブラハムの娘でした。アブラハムは神に息子を要求されて、それに従いました。ハンナは要求される前に息子をささげました。ハンナが自分のために息子を求めていたなら、不妊という呪いや侮辱から逃れることができるし、愛する子がそばにいて育てる喜びもあります。さらに自分が年をとってから面倒みてくれる子になります。しかしハンナは祈りにおいてそのすべてを手放しています。
神様は彼女の願いを聞いてくださいました。彼女は身ごもって男の子を生みました。その子が乳離れしたら、すぐにシロにある神の家に連れて行きました。乳離れした子なら三歳ぐらいでしょうか。一番かわいい時期です。このときはハンナには子どもはまだサムエルしかいませんでした。そのたった一人の子を宮へ連れて来て、これから彼女は年に一回しかサムエルに会うことができないのです。
そしてサムエルを預ける家はエリの家でした。ひどい二人の息子のいる家です。これはとても大きな犠牲です。
彼女はいったい何を考えていたのでしょうか。
その答えは、2章の彼女の祈りを見るとわかります。彼女は常に神様を見つめていて、神様が何をなさっているか、そこに注目しています。彼女自身の人生で神様が何をしていたのかを見るだけではなく、それ以上に世界で神様が何をしているのか、イスラエルの救いのために祈っていました。
神様が世界をひっくり返して、低い者を引き上げて高い者を引き下ろすように祈っていました。
【第一サムエル2:4~5a】勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。
満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。
勇士とはだれなのでしょうか。力ある者、満ち足りている者とはだれのことでしょうか。そのときイスラエルに何が起きているのかを考えなければなりません。この前後関係を見ると、強いのはペリシテ人です。ペリシテはイスラエルの隣に住んでいる強い国で、イスラエルを抑圧して占領していました。それに対してイスラエルには何の力もありませんし、ちゃんとした武器もありませんでした。ダビデがゴリアテとたたかったところを思い出せば、力の差は歴然としていることがわかるでしょう。しかしハンナは神様が力のないイスラエルに勝利を与えることを見ています。
【第一サムエル2:9~10】主は敬虔な者たちの足を守られます。
しかし、悪者どもは、闇の中に滅びうせます。
人は、自分の能力によっては勝てないからです。
主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。
主は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。」
じつはサムエルはこのあとイスラエルを導くさばき司になります。そしてイスラエルをペリシテ人から救います。第一サムエル7章を読むと、サムエルがイスラエルを導いてペリシテ人を倒し、サムエルが治めていた間は神様がずっとイスラエルを守っていてくださいました。しかも神が雷鳴によってペリシテ人を混乱させて、それでイスラエルが勝つので、神様は本当にハンナの祈りの通りにしてくださいました。
イスラエルの外の敵はペリシテ人でした。では中の敵はだれかというと、一番悪質なのはエリの二人の息子、ホフニとピネハスでした。2章を見ると、彼らは礼拝者がささげている肉を奪い、彼らこそ腹を満たすために人を抑圧している者たちでした。他にもひどいことをして神の家を汚していました。ハンナは毎年シロに行っていたので、その状態がわかって苦しんで救いを求めていました。
じつは同じ2章にある預言者がエリのところに来ます。
【第二サムエル2:36】あなたの家の生き残った者はみな、銀貨一枚とパン一つを求めて彼のところに来てひれ伏し、『どうか、祭司の務めの一つでも私にあてがって、パンを一切れ食べさせてください』と言う。」
つまりエリの家に対する呪いの一つは空腹です。そのすぐ後に二人の息子は殺されて、エリも死んで、サムエルが神の家を導く者になります。つまりハンナの祈りはすべての意味において成就されました。彼女は神様に、息子が民の救いに用いられるように祈っていました。これから来るイスラエルの王、油注がれたメシアまで彼女は見て望んでいたのです。
実際にダビデ王はサムエルによって油注がれます。ハンナの祈りの答えとして、ダビデが王となり、最終的にダビデの子キリストが王となります。ハンナはその祈りと犠牲を通して世界を変えました。
しかし彼女はじつはマリアの影に過ぎないのです。マリアこそ神にささげられた子の母でした。マリアが子どもを身ごもった時、ハンナと同じような祈りをするので、マリアもこのことがよくわかっていました。
あと数週間でアドベントが始まるので、マリアの祈りもその時に学びましょう。
マリアこそまことの母です。ミケランジェロのピエタ像がバチカンのサンピエトロ大聖堂に入ってすぐ右側にあります。マリアとイエスの像で、死んだイエスをマリアが座って抱いている像です。これこそまことの母の姿なのです。御父の愛は、その子を世のいのちためにささげることです。その同じ心をもって、マリアも母としてその子を世のいのちのためにささげています。自分が親なら、是非このピエタをインターネトで検索してください。そしてハンナの祈りをささげてください。なぜなら私たちも、自分の子は世のいのちのために神にささげる神様の賜物だからです。
じつは子どもをたくさん産んでも、不安や絶滅から自分を救うことはできません。愛情深い夫がいたとしても、自分を悲しみから救うことはできません。
自分が救われるためには、自分が一番愛しているものを御国のためにささげなければなりません。子どもの洗礼のとき、その意識なのです。子どもを求めるなら、神に用いられる器として求めましょう。神様が世を救うためにこの子を用いて下さるように求めましょう。その機会が与えられているクリスチャンにとって、結婚は選択ではなく、使命です。そして機会が与えられた人にとって子どもも選択ではなく使命です。完璧なロマンを求めてさまよいながら自分の幸せを追求するのはやめましょう。神の御国のために実を結びましょう。
この形で実をむすぶことを、神様はすべての人に与えていません。結婚しない人もいれば、子どもがいない人もいます。ではこの人たちはどのようにこの救いに加わることができるのでしょうか。
【マタイ19:12】母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者にまった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」
「独身者」は「宦官」という言葉です。イエス様にも妻や子はいませんでした。イエス様こそ、天の御国のために自分から独身者になったお方です。イエスこそ無限の実を結んで、だれよりもいのちを作り出した方なのです。
【イザヤ56:3b】宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。
自分が独身者であるなら、または子どもがいないのなら、神の御国のためにその人にしかできないこともあります。私たちは、洗礼を受けているなら、みんなナジル人です。みんな一生神に仕えるためにささげられました。それならみんな、イエスやハンナの後についていきます。私たちの全てをささげて神に用いられるように。これが聖餐式の意味なのです。これが私たちのいけにえの時なのです。
イエスのからだは十字架上で世のいのちのためにささげられました。私たちはそのからだを受けてキリストと一つとなって、キリストとともに死んでキリストとともに復活します。キリストが生きたように私たちも生きるためです。
説教ブログは教会員により作成されております。ご質問やご意見などございましたら、お問い合わせよりご連絡お願いいたします。
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