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「七つの大罪シリーズ:暴食」

更新日:2023年9月10日

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


七つの大罪のすべての始まりは傲慢でした。そこから始まって、虚栄、妬み、怠惰、強欲、憤怒、色欲を学んで、今日はいよいよ最後の一つ「暴食」です。

暴食を取り扱うことを聞いて、皆さんはほっとしているのではないでしょうか。自分はそんなに暴食の罪を犯していないと思ったり、この罪を犯していたとしてもそんなに大きな罪ではないだろうと思ったりするかもしれません。何でこれが七つの大罪に入るのかと不思議に思う人もいるかもしれません。

確かに暴食は人前で笑いながら認めやすい罪です。なぜこれが七つの大罪に入っているのでしょうか。



●からだの罪

暴食とはたくさん食べてたくさん飲むことだと思うでしょう。

確かに暴食は体に良くないことです。肥満、糖尿、痛風、もしかしたら心臓発作にもなるかもしれません。だから避けるべきだと思うかもしれません。

しかしこれまで学んだ七つの大罪に、からだの問題だけにとどまっているものはありませんでした。つまり罪とはからだの問題だけではないのです。人間の三大欲求は、食欲、性欲、睡眠欲です。これらはからだの欲と思われていますが、その欲求は心から出て来ます。例えば性欲は目で欲して心で罪を犯して、最終的には自分のたましいを破壊して、神の愛に至らない者となります。

また、別の例えでは、怠惰によって睡眠欲に負けて、ベッドから出たくなかったりからだを動かしたくないと思うことがあるかもしれませんが、それ以上に私たちは怠惰によって神の召しにこたえていないのです。神様が私たちにきよくなるように呼び掛けて(聖化)、栄光を受けるように呼び掛けて(栄化)、神のようになるように呼び掛けているのに(神化)、私たちがそれを拒否しているのです。十字架の道は大変すぎるから。これが怠惰の罪です。

暴食もからだの問題と思われています。確かに口やお腹の欲の問題でもあって、食欲を制することができないことから始まるのですが、いくつかの要素があります。例えばみんなが思うのが食べ過ぎです。これは量の問題です。しかしそれ以外にもタイミングの問題もあります。待てないとか、食べるのが早すぎるとか、ふさわしくないときに食べることも含まれます。あるいは食べる時に欲が強すぎて相手のことが考えられず、他の人に食べられないように自分だけ早く食べることも含まれます。子どもたちがよく食べ物で喧嘩するのはこのような理由が多いのではないでしょうか。「ぼくはまだ二つしか食べていないのにお兄ちゃんはもう四つも食べてる!」

しかし大人もこのような罪を犯します。食べ物で贅沢したい。頻繁に贅沢したい。お金が無いのに無理して贅沢したい。あるいはとにかくめちゃくちゃ美味しくなければだめ。そこにこだわるのも暴食の罪です。

暴食の罪にはもちろん食べ物だけではなくて飲み物も含まれます。口やお腹に入るものすべてになります。だからアルコールの飲み過ぎや、このように作ったお茶でなければ飲まない、など作り方にこだわって、これじゃなければうれしくない、いやだ、という思いも暴食なのです。

子どもの時代から考えれば、私たちは全員この罪を犯していると思います。



●霊的な罪

では暴食の霊的な要素は何でしょうか。

暴食の罪の本質は、私たちの霊の飢え渇きによるたましいの穴を食べ物や飲み物で埋めようとすることです。

どういう時に暴食の罪を犯しやすいでしょうか。いろいろな場面があると思いますが、暴食の誘惑になるものの一つは虚しさです。毎日が同じで意味がない。そこから逃げたい。それでアルコールに走ったり、暴食に走ったりします。食べ物や飲み物が現実逃避になるのです。具体的に想像してみると、午後の表参道で、夫も仕事へ行って、子どもも学校へ行って、妻たちはアフタヌーンティーを楽しんでいます。そのときに、次にいつ韓国に行くか、いつイタリアに行くか、そこでどんな美味しいものをたべるかを話しているとしたら、食べ物に囚われている人生です。具体的にだれかを想像してほしいのではなくて、ぼくも含めて私たちみんなを想像すればいいと思います。

あるいは、金曜日の夜の新橋を想像してください。たくさんの男性たちが焼鳥屋で飲んで、路上で倒れて始発で頭をかかえながら帰ります。飲み食いするために働いて、今度はその働きから逃避するために飲み食いする。こんな虚しい人生だと、たくさんたべてもたましいが飢えてしまいます。私たちの本当の飢え渇きは神様に対する飢え渇きです。地上にあるものでは最終的に満たせないので食べ続けてしまいます。それで暴食に走るのです。

【伝道者の書6:7】人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。



●聖書の中の暴食者

聖書はこの罪に関して何と言っていますか。また、聖書に出て来る暴食者はだれでしょうか。暴食者ということばは聖書にはありませんが伝えやすくするために使っています。

モアブの太った王エグロンを思い出す人もいるかもしれません。エグロンはベニヤミン人エフデに刺されました。(士師記3章)

確かにエグロンは罪人ではありましたが、太っていることは罪ではありません。同時に痩せているとか健康を保つこと自体は善行ではありません。からだではなく心に集中しなければならないのです。



・じつは、最初の暴食者はアダムとエバでした。

【創世記3:6】そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実をとって食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫もたべた。

原罪というすべての罪の種がここにあります。おいしいものを見たときに手を出さないでいられないのは暴食の罪です。だから暴食の罪は原罪に含まれています。じつは暴食者が食べるものは、単に食欲を満たすためのものではなく、心のどこかで今を超越する経験を求めて食べています。「幸せを求める」だと言い方が簡単すぎますが、つまりこの世の日常を超えたものを探しているのです。アダムとエバもこの実を見た時に、ただ食べ物をお腹に入れるだけではなく、神のように賢い者になることを求めて手を出してしまいました。そして彼らが食べたことによって全世界が呪われてしまいました。



・もう一人の有名な暴食者はエサウです。エサウは、神の相続人になるよりも、いま目の前のにある食べ物を選びました。

【創世記25:34】ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。

神の約束があなたを通して成就されるというのが長子の権利です。エサウはそれを侮りました。エサウの暴食の罪はお父さん似だったかもしれません。父イサクもおいしいものが大好きだったので、それもあってイサクはエサウが好きでした。



・荒野にいたイスラエル全体が暴食の罪を犯しました。エジプトから出て間もないうちにこのようなことがありました。

【民数記11:4~6】彼らのうちに混じって来ていた者たちは再び激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」

神様は、彼らを奴隷の家から連れ出して、ご自分の民として選んで約束の場所に導いて、そこで彼らは神の祭司として働くことになっていました。世の救いが彼らを通して与えられるのです。その祝福が待っていたのに、それよりもにんにくたべたい、と言いました。

【申命記14:2】あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。主は地の面(おもて)のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。

これが神の与えようとしていた祝福でした。おもしろいことに、このすぐ次の節にこのように書かれています。

【申命記14:3】あなたは、忌み嫌うべきものは、どのようなものでも食べてはならない。

すぐに、何を食べないか、という話になっていました。

結局荒野にいたイスラエルは、神を礼拝せずに自分の腹を自分の神としてしまいました。自分のからだの欲を満たそうとして、それを助けてくれる神々を求めて、偶像礼拝に走りました。

【第一コリント10:7】あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座って食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。

荒野のイスラエルは姦淫の罪を犯していました。食欲と性欲の罪のつながりが見えます。どちらも肉の欲を満たしています。一つを犯せばもう一つを犯しやすくなります。自分のからだの欲を制することを捨てているからです。暴食はこの地上のものを求めることなのです。神はこれを死で罰します。

【第一コリント10:8】また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。

【ピリピ3:19】その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。

彼らは欲望を神としました。文字通り、自分の腹を神としたのです。



暴食の罪に陥るといろいろな他の罪もにもつながります。からだの欲望を満たすものを止めない習慣を作るからです。七つの大罪と言っていますが、七つの悪習なのです。

例えば怠けたら最終的には貧乏になりやすいです。

【箴言23:20~21】大酒飲みや、肉を貪り食う者と交わるな。大酒飲みや、貪り食う者は貧しくなり、惰眠を貪る者は ぼろをまとうようになるからだ。

また、食欲を制しないと、金持ちや良い食べ物を与えてくれる人の奴隷になります。彼らにへつらって、彼らの食卓にアクセスできるためになんでもするようになります。

【箴言23:1~2】あなたが支配者と食事の席に着くときは、前にある物によく注意するがよい。あなたが食欲の盛んな人であるなら、自分の喉に短刀を当てよ。

自分の喉に短刀を当てよ、というのは食べ物に魅了されないようにするためです。じつは食べ物だけではなく、からだの欲を考えた時に他にもいろいろあります。砂糖、アルコール、タバコ、そしてゲームもそうです。麻薬も全て同じ罪です。ドーパミンがほしいのです。心地良さや快楽を求めて、それが中毒になって自分を抑えることができなくなります。自分を破壊するものなのにずっと続けてしまい、どこまでも求めていきます。これが暴食の罪です。



・イエスについて行った群衆

新約聖書で暴食者といえばだれでしょう。

究極の暴食者は福音書にいます。

多くの人たちがイエスの奇跡を見て、イエスについて行きました。イエスが荒野に行ったときも群衆はついて来ました。そこには食べる物がなかったので、イエスは彼らに魚とパンを与えました。このようにしてイエスは五千人に食べ物を与えました。

【ヨハネ6:14~】人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。

人間が独裁者を好むのは、パンをくれるからです。パンさえくれれば従いますし、王にします。

彼らはイエスをその理由で王にしようとしました。だからイエスは彼らから去ってボートに乗って湖の反対側に行きました。群衆もボートに乗って湖を渡って追いかけました。そしてイエスを見つけました。

【ヨハネ6:26~27】イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

ここでイエスは彼らに一番良いものを提供しています。それはイエスご自身です。

【ヨハネ6:51】わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

こんな素晴らしいものを目の前にした彼らはイエスを拒否して、石を取って殺そうとしました。彼らの飢え渇きを満たすことができる唯一の人を殺そうとしたのです。自分の腹を満たすことだけを求めていたから。だから暴食は死に至る大罪なのです。

生けるパンであるイエス・キリストを目の前にしても、それを捨てたのです。



私たちも簡単に同じことができてしまいます。

聖書を持っていても、常に棚の上に置いてあって、どんどんほこりがたまっていく。あるいは聖書アプリのスクリーンタイムが貯まらない。私たちが教会に来ても、みことばを聞くためではなく他の理由があったり、耳を傾けていなかったりします。

聖餐式を受けても、外に出て行けば自分の腹を自分の神として礼拝してしまいます。



●この暴食の罪に対する解毒剤は何でしょう。

・断食

アダムとエバの最初の誘惑は食べるか食べないかでした。イエスもメシアとしての最初の試練が食べることでした。

【マタイ4:1】それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えらえた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」

イエスは四十日四十夜断食していたので、罪を犯しやすい状態だったでしょうか。なにしろお腹がすいているのですから。

でもじつはイエスはこの四十日間、神のみことばに対する飢え渇きを覚えるようにご自分を訓練していました。ご自分が誘惑に打ち勝つ訓練を四十日間行っていたのです。

【マタイ4:4】イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」

皆さんにとって断食はあまりピンと来ないかもしれませんが、旧約のイスラエルはみんな年に1回は断食が要求されていました。パリサイ人の伝統では1週間に2回、月曜と木曜に断食していました。クリスチャンはこの習慣を続けて同じように週に2回断食していましたが、パリサイ人と一緒では良くないので、水曜と金曜に断食していました。このほかにレント、アドベントなど他にも断食する時期がありました。断食をするときに、自分のからだを制することを覚えます。そして自分の霊の飢え渇きに集中します。からだの二ーズを無視して、たましいのニーズに集中するのです。食べなければ時間が余りますので、祈る時間が与えられます。

小さい子どもや妊婦、授乳中のお母さんは断食しないほうがいいです。病気で治療中の人も断食しないほうがいいです。それ以外の健康な大人であれば、すべてのクリスチャンは断食をどこかで行うのはお勧めです。一食、あるいは三食断って祈ることができなければ、あなたはもしかしたら食事中毒かもしれません。

食べる時間があるのに祈る時間が足りないとか聖書を読む時間がないのなら暴食の罪を犯しているかもしれません。

どの罪も反対の落とし穴があります。暴食を避けるために禁欲主義に走ってはいけません。食べなければいいのか、と思ってからだに集中して善を行おうとしても良い結果にはなりません。断食がクリスチャン人生の目的ではないからです。だから断食を学ぶだけでは足りないのです。



・宴会

英語では断食をfast、宴会をfeastと書きます。イエスはたくさん断食をしました。それなのにイエスはたくさん飲んでたくさん食べる人として評判になっていました。イエスがどこに行っても、人々はおいしいワインを飲んで満腹になりました。

【マタイ11:19】人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。

これはただたくさん食べる人、ということではなくて、イエスは死に値する罪人だと言っているのです。

モーセの律法を知っているユダヤ人はだれでも、申命記21章がわかっています。

【申命記21:20~21】町の長老たちに、「私たちのこの息子は強情で逆らいます。私たちの言うことに聞き従いません。放蕩で大酒飲みです。」と言いなさい。町の人はみな彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。イスラエルはみな聞いて恐れるであろう。

放蕩にはたくさん食べるという意味が含まれています。

イエスは宴会が上手でした。イエスご自身が宴会でした。食卓に乗る食べ物でした。食卓と祭壇は同じものだと言ったことがありますが、祭壇は神の食卓でそこに神にささげる食べ物である子羊が乗っています。

【ヨハネ6:35】イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

イエスご自身が花婿なのです。だからイエスの周りには常に宴会があります。

【ルカ5:34】花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにできますか。



そしてじつは詩篇にはこのようなみことばがあります。

【詩篇34:8】味わい 見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。

私たちの主が食べ物であることはわかると思いますが、いつくしみ深い方、という翻訳は少し物足りなく感じます。

ヘブル語ではトブということばが使われていて、おいしいとか美しいという意味も含まれていて、すべての意味で良いということです。味わいなさい、というとき神様はおいしい。見つめよ、というとき神様は美しい。私たちはたくさん食べ過ぎてはいけないだけではなく、更に神に対する飢え渇きがなければなりません。

【第一ペテロ2:2】生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたは、主がいつくしみ深い(おいしい)方であることを、確かに味わいました。

【エペソ5:18】ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。

神の霊だけが私たちを満たすことができます。他のものをいくら得てもまた飢えて渇きます。ほかのものは何も私たちを満たすことはできません。

【マタイ5:6】義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。

暴食者の反対はイエスを飲んで食べる人たちのことです。イエスという宴会に加わる人たち。これが歴史が向かっているところです。神の子羊の結婚の宴会。私たちの一番深い飢え渇きはキリストご自身によって満たされます。私たちは正しく断食することを覚えて、正しく宴会することを覚えて、教会に来て、聖書を学んで、食べるためのお金を得るだけではなくて、地上の欲を満たすことだけではなくて、私たちの霊が必要とするものに目をとめて、そのための時間を作る必要があります。断食して祈る時間を作る必要があります。神の口から出るみことばに対する飢え渇きを常に持つようにしましょう。私たちはそのためにここに集まっています。ここでみことばを聞いて聖餐式を受けます。



さあ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。なぜ、あなたがたは 食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。イザヤ55:1~2




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