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「待降節第三主日」ヨハネ1:6〜8、19〜28、第一テサロニケ5:16〜24

説教者:ラルフ・スミス牧師


今日は、バプテスマのヨハネについて一緒に考えてから、テサロニケ人への手紙を通してパウロの信仰を学びたいと思う。


ヨハネ1:6〜8、19〜28

神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。

この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。

彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。


さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。

彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは「違います」と言った。「では、あの預言者ですか。」ヨハネは「違います」と答えた。

それで、彼らはヨハネに言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」

ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」

彼らは、パリサイ人から遣わされて来ていた。

彼らはヨハネに尋ねた。「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」

ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。

その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」

このことがあったのは、ヨルダンの川向こうのベタニアであった。ヨハネはそこでバプテスマを授けていたのである。


バプテスマのヨハネはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書すべてに出て来る。そしてかなりエルサレムのリーダーたちの注目を集めていた。なぜエルサレムのリーダーたちは荒野でバプテスマを授ける人を注目しているのか、なぜユダヤ人たちは祭司たちやレビ人を遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせたのか。

その答えの始まりはダニエル9章にある。ダニエルの時から490年後にメシアが来るという預言があった。490年を具体的にいつから数え始めるか、その計算は簡単ではなかったのでメシアが来る年を断言できなかったが、1世紀の初め頃から色々な人が「自分はメシアである」と言ったり、ローマ帝国とたたかったりして負けて十字架にかけられていた。自分はメシアであると言いながら十字架にかけられた人はメシアではないと証明された。しかしこの時代にそろそろメシアは来るはずだとユダヤ人は思っていた。

メシアは生まれた時から特別だといううわさはあちこちにあった。バプテスマのヨハネも父親も祭司であったがヨハネはエルサレムに行かず荒野にとどまっていて、変な祭司だった。来ている服もエリアのような服でおかしかったし、働きも普通の祭司とちがっていた。バプテスマのヨハネはヨルダン川で「悔い改めなさい。神の御国が近づいて来た。」と宣言する。ユダヤ人は、神の御国が近づいて来たというメッセージを喜んで聞く。彼らは、天から落ちて来た小さな岩が、バビロン帝国、ペルシャ帝国、ギリシャ帝国、ローマ帝国を壊して、神の御国がそこで成長するという預言が成就して、神の御国が近づいてきたと思った(ダニエル2章)。私たちの罪がゆるされて、エルサレムが全世界の中心となって、すべての国民(くにたみ)の上に建てられて、エルサレムから御言葉が語られて、全世界はアブラハム契約に約束された祝福を受ける。その時が来た、とヨハネが宣言しているので、人々はヨハネのところに来てどんどんバプテスマを受けていた。


ただ、祭司はヨルダン川でバプテスマを行うことはしない。普通はバプテスマは神殿で行うものである。だからバプテスマのヨハネはだれもやったことのないバプテスマを不思議な場所で行っている。そして「神の御国が近づいて来たから悔い改めなさい」という不思議なメッセージをする。そのうわさは広まって、エルサレムのリーダーたち(神殿のリーダーたち)は祭司とレビ人を遣わした。

パリサイ人たちも一緒だったのか、祭司とレビ人もパリサイ人だったのかはわからないが、パリサイ人たちも興味はあった。

祭司とレビ人は旧約聖書の時代の儀式の専門家で儀式について詳しい知識をもっていたので、彼らがヨハネのところに来て、何をしているのかと尋ねた。

彼らは特別な服を着ているので、ヨハネにはこの人たちが祭司とレビ人だとすぐにわかった。

祭司とレビ人はヨハネに「あなたはだれですか。」と聞いた。


神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。(ヨハネ1:6~8)

ヨハネは神に遣わされて、光について証しするために来た。しかしヨハネ自身は光ではなかった。


さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。(ヨハネ1:19~20)

ヨハネは「あなたはだれですか。」という質問には答えず、「私はメシアではない」と答える。だれなのかをはっきりとは言わなかった。ヨハネは光について証するが、自分は光ではないと最初から言っている。そして彼らが考えているメシアでもない。ヨハネは否定しているのではなく、告白している。


彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは「違います」と言った。(ヨハネ1:21a)

彼らは続けて「あなたはエリアですか。」と聞く。この質問は聖書をよく知らない人にとって不思議な質問だと思うが、マラキ書にメシアが来る前にエリヤが来ると書いてあるので、祭司たちはこのように聞いたのである。

【マラキ4:5】見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。

エリヤは死なないで馬車にのって天に上って行ったので(第二列王記2:11)、ユダヤ人の中にはエリヤは死なずにまた戻って来るという考え方があった。

【第二列王記2:11】こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。

それで祭司たちはヨハネに「あなたはエリアですか。」と聞いたのである。

イエス様もバプテスマのヨハネのことをエリヤなのだと言っていた。

【マタイ11:14】あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人(バプテスマのヨハネ)こそ来るべきエリヤなのです。


しかしヨハネは、自分はエリヤではないと答えた。その意味はあなたがたが期待しているエリヤではない、ということである。イエス様は、旧約聖書でエリヤについて書かれていることを成就する預言者という意味でヨハネをエリヤと呼んだ。

ヨハネが着ている服はエリヤを思い出させるし、エリヤと同じように荒野で働いていたので、ヨハネは象徴的なエリヤである。


「では、あの預言者ですか。」ヨハネは「違います」と答えた。(ヨハネ1:21b)

これは申命記に書かれている預言のことである。

【申命記18:15】あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。

モーセは自分のような預言者を神様がイスラエルに与えると言う。メシアの前に預言者が来ることについて、ユダヤ人の中にはいろいろな説があった。「あの預言者ですか」という質問の意味は、モーセが言ったあの預言者ですか、という意味である。これはもちろんメシアのことであるが、彼らは十分にわかっていなかった。バプテスマのヨハネの答えは「いいえ。」


あなたはだれですか。 メシアではありません。

エリヤですか。      違います。

あの預言者ですか。   違います。


ヨハネの答えはすべて「いいえ」であった。


それで、彼らはヨハネに言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」(ヨハネ1:22~23)

祭司たちは自分たちを遣わした人たちに答えなければいけないので、協力してくださいとヨハネに言う。この人たちはどちらかというと位の高い人なので、ヨハネが自分について何を言うのか気にしていた。


それに対してヨハネは「主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声」だと言う。これはイザヤ書で預言されている。

【イザヤ40:3〜5】荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。

すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。

曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。

このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる。」


イエス様はバプテスマのヨハネについて、預言者で、エリアについて言われた預言を成就する者で、旧約聖書で一番偉大な預言者であると言う。

【マタイ11:9〜11a】そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。

この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした


彼らは、パリサイ人から遣わされて来ていた。

彼らはヨハネに尋ねた。「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」(ヨハネ1:24~25)

なぜヨハネが荒野でバプテスマを授けているのかというと、荒野でバプテスマを授けるように神様に遣わされたからである。荒野で叫んでいるヨハネは、主の道をまっすぐにする。つまり主イエス・キリストの道をまっすぐにするということである。

メシアが現れる前にヨハネが預言して、ユダヤ人たちが悔い改めて神の御国を求めるように働きかけている。ヨルダン川でバプテスマを授けるということは、ユダヤ人たちはまるでイスラエルの始まりに戻るかのような感じであった。

イスラエルはエジプトを脱出して海を渡り、四十年間荒野をさまよい歩いてヨルダン川を渡って約束の地に入った。だからヨルダン川でバプテスマを受けるということはイスラエルの再スタートである。神の御国を求める人たちは悔い改めて、新しくスタートしなければならない。ヨハネはそれを象徴的に表して、神の御国が近づいたから悔い改めてバプテスマを受けなさい、と叫んでいたのである。

ヨルダン川でバプテスマを授けるのはイスラエルの歴史の中で一度もなかったことだ。バプテスマのヨハネは特別な人ではなく、メシアでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもない。それならヨハネがバプテスマを行う権威はどこから来たのだろうか。


ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」(ヨハネ1:26~27)

ヨハネの答えは興味深い。あなたがたの中にあなたがたの知らない方が立っている。じつはヨハネは彼らに少し厳しいことを言っている。パリサイ人たち、祭司たち、レビ人たちは、宗教の専門家である。イスラエルについて、宗教について、全て知っているはずの人たちなのである。それなのに彼らの知らない方が立っていると言うのだ。その方はヨハネのあとに来る。ヨハネはその方のくつひもを解く価値はない。つまりじつに偉い人があなたたちの中にいるのに、気づいていない。私のところに来て質問するのではなくて、あなたがたの知らない人を探しなさい。

ユダヤ人の習慣で、だれかが家に来たら足を洗う。そのように足を洗うのはしもべの仕事であるが、ユダヤ人のしもべに足を洗う仕事はさせなかった。だからヨハネがその方のくつひもを解く価値がないと言うとき、異邦人のしもべ以上に自分を低くしているのである。そこまでへりくだった心をもったヨハネ。自分は荒野の中で預言する単なる声に過ぎない。そしてただ単に水でバプテスマを行っているに過ぎない。

祭司たちはヨハネの証を聞いて、答え無しにエルサレムに戻らなければならなかった。

この人はヨハネのあとに来るがじつはヨハネの前にいた。

【ヨハネ1:30】『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです。』と私が言ったのは、この方のことです。

私たちが読んでいるヨハネの福音書は、バプテスマのヨハネの死後に書かれたものなので、ヨハネが読むことはなかった。だからヨハネが語っているのは自分の理解を超えることである。

【ヨハネ1:1】初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

つまり創世記1:1の永遠に存在している御子のことをヨハネは話している。ヨハネはヨハネ自身が知らなかったことを語っている。ヨハネの六ヶ月後に生まれたイエス様は、じつに永遠の昔から存在していた。

バプテスマのヨハネの働きを思い出して、その預言を思い出すために、待降節の最初の日曜日にこの箇所を読んだ。

ヨハネが神の御国が近づいて来たと宣言したが、イエス様も同じ宣言をした。ローマで軟禁中のパウロも使徒の働きの最後のところで神の御国について教えている。だからバプテスマのヨハネの働きは私たちにも意味がある。


第一テサロニケ5:16〜24

いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

御霊を消してはいけません。

預言を軽んじてはいけません。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。

あらゆる形の悪から離れなさい。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。

この手紙の背景を少し説明したいと思う。

エルサレム会議(使徒の働き15章)のあと、パウロはバルナバと別れて、シラスを連れてピリピに行ったが、そのときルカもテモテも一緒にいた。パウロとバルナバはピリピで福音を伝えたために大きな騒ぎになったので二人は逮捕されて牢に入れられた。パウロはローマ帝国の国籍を持っているのでこのような扱いは法的に許されないのだが、神様は奇跡を行って地震によってパウロとシラスを牢から出してくださった。牢の看守は囚人が逃げてしまったと思ったのだが、パウロたちは逃げずに看守たちに福音を伝えたので、彼らは救われて、真夜中にバプテスマを受けた。新約聖書の中では、信じたときにすぐにバプテスマを受けていた。だから、新約聖書の中で、信じるとこうなる、バプテスマを受けるとこうなる、とだいたい同じことが書かれている。信じることとバプテスマはだいたい一緒だからである。だから看守たちも真夜中にバプテスマを受けた。

そしてピリピにルカを残して、パウロとシラスはテサロニケに行って福音を伝えたが、テサロニケのユダヤ人たちが非常に怒って暴動を起こしたので、パウロはシラスとテモテをテサロニケに残してベレアに行った。ところがテサロニケのユダヤ人はパウロを本当に憎んでいたので、テサロニケのユダヤ人はべレアまで追いかけて来てパウロをべレアから追い出した。

もちろんパウロは最終的にはテサロニケに戻ったが、その前にべレアからアテネ、アテネからコリントに行き、コリントでAD50年頃に第一・第二テサロニケ人への手紙を書いた。パウロがこの手紙を書いた時に、テサロニケの小さい若い教会が迫害されていると聞いていた。だからパウロはテサロニケの教会に手紙を書いて励ました。

苦しんで迫害されているのに色々なことが十分にわからない状態の教会に、パウロは何を書いたのだろうか。大変な状態にある人に何を書くのだろうか。


いつも喜んでいなさい。(第一テサロニケ5:16)

大変な状態にある人に、「いつも喜んでいなさい。」とパウロは言う。じつはパウロはその模範を示していた。パウロとシラスがピリピの牢に入れられていたとき、神様どうか助けてください、と泣きながら叫んでいただろうか。それは悪いことだという意味ではないが、パウロたちは真夜中に喜んで神を賛美し歌っていた。ローマの牢は楽しい場所ではない。おいしい食べ物も出てこない。光もない。もし私たちがそこに入れられたら死んでしまうかもしれない。とんでもない環境である。

そのようなときに、パウロはイエス様の御名のために苦しみを与えられたことを喜んでいた。

いつも喜んでいなさい。常に、止まらずに喜びなさい、と苦しんでいるテサロニケの教会に言う。


絶えず祈りなさい。(第一テサロニケ5:17)

大変な状態なので絶えず祈らなければならないことはわかる。しかし喜びをもって絶えず祈りなさい、ということである。


すべてのことにおいて感謝しなさい。(第一テサロニケ5:18a)

苦しみの中で、牢に入れられて、大変な試練にあって、すべてのことにおいて感謝しなさい。

私たちの礼拝で「感謝と賛美は私たちの務めです。」と言うところもある。


これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(第一テサロニケ5:18b)

これが神が私たちに望んでいることである。神の御心である。神様が私たちに求めているのは、神様から与えられた務めを果たすことである。いつも喜んで、絶えず祈って、すべてのことに感謝して生きる、ということである。

バプテスマのヨハネは牢に入れられて、苦しめられたときに、なぜこうなってしまったのかとイエス様に尋ねた。私たちも牢に入れられたら涙を流して祈っても大丈夫なのだが、パウロとシラスのように、神を賛美して喜んで神をほめたたえることができればもっと素晴らしい。喜ぶことが義務である。道を歩きながら、お風呂に入りながら、聖書を読むときも祈りをささげたりする。そしてどんな目にあっても、すべてのことにおいて神様の御心は神に感謝をささげることである。


聖餐式も感謝の儀式である。神様が私たちを愛して、主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださり、十字架上で私たちの罪のためにご自分のいのちをささげてくださり、よみがえってくださったことを礼拝の中心として、毎週感謝の食事を一緒にいただく。感謝して聖餐をいただきたいと思う。




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