「生きたささげ物として生きる」ローマ12:1~8
説経者:ギャレット・クロウ牧師(Garret Craw, アメリカ テキサス州 キングスクロス改革派教会 主任牧師)
ローマ12:1~8
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。
皆さん、おはようございます。
いけにえというものは、今でもあるのでしょうか。
今朝の説教箇所はローマ人への手紙12章です。
祈りましょう。
天の父よ、あなたのみことばの宣教を祝福してください。
あなたに従う者になるために、私たちに聞く耳を与え、信じる心を与えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン。
私の父は、自分の仕事が好きではなくて、自分が選んだキャリアを後悔していました。部下は父のことを尊敬しないし、父の手柄を自分のものにする上司もいました。しかし、彼には養わなければならない妻と子どもたちがいたし、家のローンもあったので、頑張って働き続けました。彼は家族への愛ゆえに、自分の人生をいわば「生きたささげ物」としてささげていたのです。彼は自分の家族の祝福のために、自分自身をささげ続けました。
だからキリストの十字架と復活の後でもいけにえというものはあるのです。
ローマ人への手紙12章は驚くべきことを教えています。皆さんがその「生きたささげ物」なのだというのです。
⚫️ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ12:1)
・ですから
パウロは、ローマ書1章から11章までで、人類の滅びを堕落を通して述べて、そして神の信じられないほどの恵みによる救いを述べています。実際、神の恵みの頂点まで見せてくださいました。だから、12章の初めは「ですから」ということばで始まります。
・生きたささげ物
パウロが、私たちに「自分を生きたささげ物として献げなさい。」と言うのには理由があります。旧約聖書では、ささげ物とは死んだ動物でした。しかし、私たちは自分のからだを「生きたささげ物」としてささげます。なぜなら、私たちのからだはキリストにあって、神に喜ばれる聖なるものだからです。
だから罪を治めて自分をコントロールすること、そして自分のからだを義のために用いること、これらは自分を霊によっていけにえとして神にささげることです。新約聖書には他のささげ物もあることを知っていますか。
【ヘブル13:15】それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。
賛美をささげることも、霊のささげ物だと書いてあります。
【第一ペテロ2:5】あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。
私たちは霊の家であり、霊的な生きた石で建てられた存在です。私たちは聖なる祭司の民であるので、神に霊のいけにえを献げる者なのです。
⚫️この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:2)
・この世と調子を合わせてはいけません。
私たちは、この世と調子を合わせて、この世に変えられてはならないのです。「世」とはギリシャ語で「時代」と同じ言葉です。
【ガラテヤ1:4】キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。
ガラテヤの手紙では、この時代は「悪い時代」だと書いてあります。
では「調子を合わせる」とはどういう意味なのでしょうか。ギリシャ語の意味は、この時代のかたちを自分のものにして、そのかたちに変えられてしまうという意味です。私たちはこの悪い時代のかたちに合わせてはならないのです。
ここで、私たちが考えるべき問いがあります。
皆さんの子どもたちが通っている学校では何を教えていますか。
また、目や耳から入ってくるエンターテイメントは、何を教えているでしょうか。
もしそれが聖書の教えに合わないなら、そのかたちを捨てなさい。いけにえになるということは、つまりかたちが変わるということです。自分の考えや思いが新しくなることによって、私たちは変えられます。
私たちはこれを、すごく霊的なもので、何か実体のない、霧のような霊の世界のもののように考えがちです。しかし、神様は皆さん一人ひとりに脳を与えておられます。私たちは、聖霊の力によって、教会という教育機関を通してその脳を訓練しなければなりません。生きたささげ物となることは、自制を育てることです。ただオートパイロット(自動操縦)について行って、自分のからだの欲に引っ張られてはなりません。
・心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。
そうするとどうなるか、気づいてください。
神のみこころが何なのか、それを見分けることができるようになります。
【第一テサロニケ5:21】ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。
すべてのものを試して、良いものを保ちなさいとパウロは言います。
⚫️私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。(ローマ12:3)
この世に合わせるのではなく、自分が変えられること。それは、実際に目の前にある現実を正しく見ることができるようになるということです。
この時代は私たちに「あなたが手に入れたいと思うものは何でも手に入れるべきだ」「あなたには限界はない」と嘘をつきます。しかし、私たちは自分の欲しいものが手に入らない時に怒ります。実際に手に入れるのが不可能なものを追い求めることによって不満ばかりになってしまいます。例えば、自分の性別を変えようとすること、若さゆえの無知を美化すること、聖書や伝統を無視すること。
パウロは私たちに、自分を低くして冷静になりなさいと言います。神の国において自分はどういう存在なのか、それを悟るべきです。私たちは自分を高くするのではなく、自己犠牲的に、つまり「生きたささげ物」として生きる必要があるのです。
⚫️一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。(ローマ12:4~5)
世界中で秩序がある場所が一つしかないとすれば、そして一人一人に神に定められた居場所があるなら、それは教会であるべきです。実際にこの世は、例えば結婚において、だれが導くべきなのかと常に争っている男女を与えます。また、子どもたちが神の権威や親の権威や聖書の権威に逆らうこと、あるいは女性が牧師になることを要求すること、また子どもたちをみことばをによって導くことを拒む男性たちを通して、この時代は教会を侵略します。だれもが小さくても犠牲を払いたくないからです。
しかし、私たちは慎み深いいけにえであるべきです。私たちはしもべとなった偉大なる王様に仕えるしもべです。キリストのからだは一つしかないのです。
⚫️私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているで、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、(ローマ12:6~7)
私たちが持っている賜物はお互いに違いますし、これらはすべて神の恵みによって与えられるものです。神様がこのすべてを支配しておられます。神様が正しくそれを配ってくださると信頼していますか。
賜物が与えらえたとき、今の状態がそのままただ豊かになるかもしれませんし、あるいは、神様があなたに何か新しいものを与えてくださるのかもしれません。
・預言
預言とは、神がすでに語られたことを伝えることです。説教はその一つですが、まだ起こっていないことを伝えるという預言もあります。大事なポイントは預言の中心が自分ではないということです。
【第一コリント14:3】しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。
預言とは、神の民を建て上げ、慰めるものであるべきだとパウロは言います。
・奉仕
奉仕という言葉から執事という言葉がきています。
・教える
教えるという言葉でこの節が終わります。
ある神学者は、この節でパウロが執事と長老の役割を説明していると考えています。
⚫️勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。(ローマ12:8)
ここで覚えておいてほしいのは、これらはすべて「生きたささげ物」という文脈に含まれていることです。イエス・キリストが私たちのためにご自分をいけにえとしてささげたので、私たちは神の恵みと御霊の力に応えて、自分に与えられた賜物を用います。神に用いられるために、自分自身を神にささげているのです。
・勧め
ここには、びっくりするくらい普通の賜物が書かれています。それは勧めることです。説教にも勧めは含まれていますが、これはもっと一般的なものです。互いに善を行うことについてでしょう。
・分け与える人
皆さんは、他者に貢献することや分け与えることを賜物として考えたことがありますか。貢献する賜物も分け与える賜物も寛大さに含まれています。すべての人が分け与える必要がありますが、ある人たちには特別に分け与える賜物が与えられます。
時々、私の教会にビジネスマンが来ます。彼らは教会の中で教える人や導く人の働きに目を留め、自分にはどんな賜物があるのだろうと考えたりします。しかし神様は、そのような人たちに富を生み出す能力という賜物を与えます。そのような人はエンジンのように教会改革や福音の宣教、教会堂や学校や大学を作る働きを支え、力を与えることができます。それらはすべて神の栄光のためなのです。
・指導する
熱心に指導しなさいとは、つまりよく努力して熱心に指導するということです。この人たちを導かなければならない、会議に出なければならない、と考えて疲れ切ったとしても、教会の指導者であるなら熱心に指導する必要があるのです。のちにはどんな素晴らしい祝福が待っているでしょう。
・慈善
喜んで慈善を行いなさいとパウロは言います。またおばあちゃんのゴミ捨てを手伝わなければいけないのか、とがっかりしないでください。「慈善」のギリシャ語は英語のhilarity(陽気、快活)の語源です。つまり、慈善を行うときに、あなたは喜びや笑いをもって明るく行いましょう。慈善を行うとき、あなたは神に与えられた賜物を用いているのです。
そうすればあなたは神に喜ばれる生きたささげ物となることができます。なぜなら、皆さんはキリストにある大きな犠牲に含まれており、その中に数えられているからです。だから、神に喜ばれる、聖なるいけにえになりましょう。
私がアメリカで、日本のコミュニティで育っていた時、どの家にも仏壇や仏陀の絵や像がありました。そこには仏陀やご先祖様のために、香や食べ物やお花などのお供え物がささげられていました。しかし、その供え物はやがて枯れて、空っぽになって死んでしまうもので、本物には変わりません。
しかし神の子イエス・キリストの生きたささげ物は、それらとは比べものになりません。この生きたささげ物は、堕落の世をひっくり返すほどに力のあるいけにえです。神の民の罪を一身に受けて、全世界を贖う力があります。
テキサスの私の教会の会衆は、このようなことばを聞くと、みんな「アーメン」と反応します。
この偉大なる、唯一無二のいけにえのゆえに、私たちの霊的ないけにえもふさわしいものになります。パウロはローマ12章を通して、自分自身をまことの生ける神にささげなさいと教えます。なぜなら、キリストにあってあなたはそのいけにえだからです。
祈りましょう。
天の父よ、あなたのみことばを感謝します。私たちがそれを見て、聞いて、心に受け入れることができますように。説教者も、聞く者も、みことばを行う者となりますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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