「イエスのために日々十字架を負って歩む」マタイ16:21~28
説教者:ベレク・スミス牧師(聖オーガスティン宣教会ACNA、司祭)
マタイによる福音書16:21~28
その時からイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。
まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」
祈りましょう。
どうか私の口の言葉が御旨にかない、私の心の思いが御前に置かれますように。主よ、私の岩、私の贖い主よ。アーメン。
まず、 マタイによる福音書の16章の大枠を少し簡単に話したいと思います。
16章と17章が、同じマタイの福音書の4章と5章と密接に繋がっていることを認識する必要があります。
マタイ4章はサタンのイエスに対する誘惑の箇所ですが、16章にあるイエスの「下がれ、サタン」という言葉を見ても、その関連性は明白であります。 4章でイエスが受けた誘惑と、その後の5章の出来事を簡単に思い起こしてください。
一つ目は、石をパンにするという誘惑。
二つ目は、神殿の屋根から飛び降りて、神様に何らかのしるしを求める誘惑。「神様が自分を愛しているというしるし」「神様が自分のことを気にかけてくれているというしるし」を求める誘惑です。
三つ目は、サタンを拝んで国々を得る、つまりこの世の権力、権限、富という誘惑がありました。
イエスは、その三つの誘惑に打ち勝ったのち、すぐに山に登って人々を教え始められます。誘惑に対して神の律法や神のみことばを解き明かすことが、マタイの5章をはじめとする「山上の説教」と呼ばれる所です。
16章に入りますと、これから受ける誘惑に備えて、イエス・キリストが弟子たちを戒めて、教え始められます。
まずは十二弟子たちだけでなく、民衆全体に目を向けておられます。
16章の最初にはしるしを求める民衆が出てきます。神様からのしるしさえあればその人がメシアだと信じられる、そういったわかりやすいしるしを求める民衆がたくさんいました。
民衆の次に、パリサイ派やサドカイ派たちのパン種の話が出てきます。神の本来のみことばのパンを求めるのではなく、パリサイ派やサドカイ派のパン種を求めてしまう誘惑です。
そして次に天の国の鍵を授かるペテロの話が出てきます。この世的な天の国を求めてしまい、この世の権力、権限、富を捨てたくないというペテロとのやり取りが出てきます。これについては、後で細かくお話をします。
16章の誘惑、サタンとの戦いが終わってからすぐに、イエスは三人の弟子たちを連れて山に登られます。
民衆→パリサイ派とサドカイ派→十二弟子とのやり取り→最後に三人の弟子、というように対象がだんだん狭まっていく流れが16章、17章には見えます。
三人の弟子を連れて山に登ったイエスは、17章においてモーセとエリヤと対談し、そこで律法について、律法には何が書かれているか、ご自分に対して何が預言されていたかという話をします。
この大枠を見ると、さらにマタイが神と人間を対比しようとしています。
神の国の富とこの世の国の富、このテーマが大きなテーマであります。マタイの福音書全体のテーマでもあるし、この箇所のテーマでもあります。
少し余談になりますが、私は日本の文化と、古代ローマ帝国の支配下にあったユダ王国の価値観は、さほど変わらないところがあるのではないかと思います。
日本の文化のすべてに刻まれている「吉祥文様(きっしょうもんよう)」というものがあります。皆さんもご存知だと思いますが、亀甲(きっこう)、扇(おうぎ)、青海波(せいがいは)、七宝(しっぽう)、市松模様(いちまつもよう)などです。これらはただ綺麗だから刻まれているのではなく、それぞれにご利益(ごりやく)があるというのが日本の文化です。だからこそ「こういう時はこういう着物を着よう」とか、「こういう器には青海波を描こう」とか、日本の文化はそのようにしてご利益の価値観を持ってすべてが動いています。 ご利益とは、青海波や扇などはその広がっていく形から末長い幸福が広がっていくことを願っていますし、七宝は富や円満を願っています。そのほかにも長寿、幸運、開運、招福、災難、厄除け、子孫繁栄など、そういったご利益の価値観が、日本の文化のすべてにあります。
古代ローマの支配下にあったユダ王国の人々も、すべてそのような価値観を持って生きていたのではないかと思います。そして、その価値観がペテロの言葉にも出てきて、それがどうも十字架と相性が悪い、ということになったのだと思います。このことはまた後で話します。
この大枠を念頭に入れ、今日の箇所をもう少し細かく見ていきたいと思います。 今日のマタイの箇所は三つに分けることができます。
メシアが受ける苦しみ 死と復活の預言(21節)
ペテロがイエスを脇に引き寄せていさめることと、それに対するイエスの返答(22~23節)
弟子たちへの教え(24~28節)
となります。今日はこの三つのことについて話そうと思います。
⚫️その時からイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。(16:21)
この直前でペテロはイエスがメシアであると告白したばかりでした。
【マタイ16:16】シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
そのペテロや弟子たちが、メシアであるイエスがエルサレムに入場し、ユダの王としてダビデの座にすわり、この世の権力を手に入れるという期待を持っています。 今、イエスと弟子たちはエルサレムに上って、これから入場しようとしています。その時に、イエス・キリストがダビデの子として王になれば、自分たちもそれなりに偉い人になって、富と権力、権限を手に入れられるという期待を持ってついて行っているのでしょう。イエスがそのような権力を握れば、一番弟子である彼らも、権力や富、この世的なもの、さっき言ったような「ご利益」で求めているようなものがすべて手に入る、と考えていたことがわかると思います。
しかし、彼らの心に抱かれていたそのような思いをイエスは知っておられたからこそ、その後すぐに、メシアが多くの苦しみを受けて殺されるということを彼らに伝えました。 つまり、イエスがメシアであると告白した時に、彼らは「自分たちも偉くなる」と色々な期待を持ち始めたので、すぐにイエスが「いや、そうではない」と言われたのです。
⚫️すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(16:22~23)
ペテロはイエスが無駄に死ななければ復活の必要もないだろう」と思たのでしょう。だからペテロは復活のことについては口にも出しません。そもそも死ななければ復活もいらないからです。ペテロは「死ぬ」「十字架にかかって苦しむ」というところで引っかかっています。ペテロの言葉を見てもわかる通り、復活のことは考えておらず、苦しんで死ぬことしか耳に入っていませんでした。
そして、人間的な感覚からすれば、一見むちゃなことを言っているイエスに対して、良かれと思い、少し調子に乗ったイエスを落ち着かせようとしたのでしょう、というのがわりと一般的な解釈になります。
それに対するイエスの返事は必要以上に厳しいものでした。イエスの答えは厳しすぎると言う人はそれなりにいます。 どうしてこれほど厳しく戒める必要があったのか、神学者の間でも議論となっています。イエスはペテロではなくサタンを叱っていたのだと言う人もいます。原語のギリシャ語では文法上そのように訳すことは可能です。つまり、イエスはペテロに対して「下がれ」と言ってから、次に「サタン」と呼びかけており、ペテロ自身をサタンと呼んでいるわけではない、という解釈も古代からありますが、前後の文脈を見るとそれはなかなか厳しいと思います。そして私もそれはないと思います。
一般的にはやはりこの「サタン」というのはペテロ自身を指す言葉であり、サタンの側についてしまったアダムのように、ペテロも誘惑に負けてしまったという解釈が正しいと思います。「その理由は明白であり、ペテロをみんなの前で厳しく叱責することによって、すべての人を戒め、情にとらわれないようにするためであった。」とカルバンはこの箇所の説教の中で述べています。しかしカルバンにとって明白であったとしても、すべての人にとって説得力のある説明ではないと思います。もちろんカルバンが言うように、他の弟子たちもペテロと同じような考えをしていたことをイエスは知っておられたと思います。そのことはまた後に触れます。
イエスがこれほどに厳しく、いかめしい態度を取ったのは、4章でサタンと向き合った時以来です。サタンの誘惑を念頭に置くことで初めてこの箇所の説明がつくと思います。ペテロはサタンの誘惑にすでに負けていました。この世の国々の権力がイエスに与えられるという誘惑にペテロが負けてしまっているから、イエスはペテロをサタンと呼ぶのだと思います。
⚫️それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。
まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」(16:24~28)
ペテロが誘惑に負けてしまっていたことは、マタイ16章24節以降のイエスの言葉を見ると理解できます。 ペテロは良かれと思い、暴走しているイエスを引き留めようとしたのですが、それもある意味では愛情から生じた言動だったのではないかと思います。同時に、ペテロが自分のいのちを惜しんでいたことも明らかです。このことは古代、中世、宗教改革の時代のだれもが理解していることです。
十字架を背負うメシアの後を追うなら、弟子たちも自ら十字架を負って死ぬことになる。弟子たちの本心は「いやいや、それだけは避けたい」ということでしょう。
しかし、イエスの話は、十字架で死ぬか死なないかで終わることではなく、全世界を手に入れることへと展開されます。
【マタイ4:8~9】悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
だからイエスも「たとえ全世界を手に入れても(16:26)」と言う話になっていたのではないかと思います。
イエスはサタンの誘惑を思い出していたのではないでしょうか。
そしてペテロがその誘惑にすでに負けていたのではないでしょうか。
イエスの叱責はペテロだけではなく、弟子たち全体に対してでした。つまりペテロだけがその誘惑に負けていたわけではありません。弟子たち全員がそのような問題を抱えていたということが、他の箇所を見ればわかると思います。
【マタイ18:1】そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
これは、もっと良い弟子になろうと思って聞いているとは、私は解釈していません。天の御国が来たらもっと偉くなりたいから、どうすればそうなれるのか、という思いで聞いているのだと思います。
【マタイ20:21】イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」
これはヤコブとヨハネの母の言葉です。弟子たちは、私たちが意識する以上に、エルサレムに近づけば近づくほど「いよいよ主が王となられる。そのとき、私たちはどのような栄誉を与えられ、どのような地位に就くことになるのだろう」ということを考えていたと思います。
【ルカ22:24】また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。
マタイだけでなくルカでも、弟子たちはエルサレムに入る直前の道中でこのような議論していたと書いてあります。これからエルサレムに入り、神の国が来てダビデの王国が建てられ、だれがどの役割をして、だれがどこまで偉くなるか、だれが右に座ってだれが左に座るか、という議論をしているのです。
福音書をよく読めばある程度わかりますが、最後の晩餐で座る位置もすべてつながっています。その時だれが右にいてだれが左にいるか、どうしてペテロがヨハネと会話ができるのか、そうしたことがわかるのです。
ですから、この世のことに心を奪われていたのはペテロに限った話ではなく、弟子たち十二人全員が同じ問題を抱えており、そのような誘惑に負けていたのです。
この世の権力と富を手に入れようと考えている弟子たちに対し、イエスは永遠のいのちと最後の審判のことまで話しました。
これまで、マタイの福音書の大枠と、ある程度細かいところも見てきましたが、ここからは「自分の十字架を負って従う」ことに注目したいと思います。
ペテロは、だれが見ても、苦労や困難を避けようとする人ではなかったはずです。ペテロも弟子たちもすべてを捨ててイエスについてきた人たちでした。この時点ですでに何年も苦しい思いをして、イエスについて来たはずです。そのようなペテロが、ただ「苦しみを避けたいから十字架を避けたいのだ」という解釈は、読みとして少し浅すぎると私は思います。 ペテロは、苦難から逃れたいのではなく、さまざまな苦難を乗り越えてきた目的が、そもそも間違っていた、ということです。ペテロは神の国で偉くなるためにがんばってきたのです。このメシアは本当のメシアなので、この人についていけば自分もそれなりに報われる、という思いがどこかに常にありました。一番の問題は、ペテロが信じていた神の国が、人間が考え出すこの世的な国であったということです。
だからこそ、イエスは常に「神の国は、このようなものだよ」と例え話を通して伝えたのです。彼らが考えている神の国とはそもそも違うからです。だから、いちいち「こうだよ、ああだよ」と、いろいろな例えを通して彼らに神の国を伝えようとするのですが、エルサレムに入場する直前でも、彼らは理解できていませんでした。
ペテロはともかくとして、「自分を捨てて、自分の十字架を負いなさい」とイエスがおっしゃるとき、それはどんな意味なのでしょうか。 この会場の皆さんも、私も含めて、実際に物理的な十字架にかかった人はいないと思います。では、イエスの言う「自分の十字架を負って行く」というのは、どういう意味でしょうか。 まず、間違った十字架の理解というのを、少し考えなくてはいけません。十字架を負うというのは、色々な人の思い込みが含まれますが、「イエスのために苦しんでいる」ということでなければ、十字架を背負っていることにはなりません。
人間の苦しみには、さまざまな理由があります。自分の愚かさや罪、周りの人の愚かさや罪、災害や困難から生じる苦しみ、そのすべてがあります。しかし、それはどれも「十字架の苦しみ」ではありません。 私のように、好きな飲み物を飲みすぎて無責任なことを言ったり、軽率な行動に走ってしまったりする人は、その結果苦しむことになってもそれは決して十字架の苦しみではありません。すべて、自分の愚かさと罪のための苦しみです。ですから、自分が本当に苦しい思いをしていても、それが十字架の苦しみであるかどうかは、また別の話です。それをよく自分に言い聞かせる必要があります。
「私は正しいのにだれかが私の悪口を言っている」とか、「私は正しいのに避けられている」と言って、「私はこれほど正しいのに、何でこうなるんだろう。私は正しいから苦しんでいるんだ」と思う人もいるかもしれません。しかし、少し他の人に相談してみるといいと思います。人に常に避けられているなら、もしかしたらあなたにもその理由があるのかもしれません。あなたが横柄な態度を取っていたのかもしれません。自分だけで考えて、思い込んで、「私はいつも正しいのに苦しんでいる」と思う必要はありません。 「常に人のために働いているけれど、なかなか感謝もされない。こんな苦しい思いを何でしなきゃいけないんだ」と、夫婦の間や、子育て、あるいは教会でも、よく働いているけどだれも気づいてくれない、ということが色々あると思います。「何でこんなに苦しい思いをしなきゃいけないんだ」と、だんだんと人を恨むようになると、これも十字架を負っていることにはなりません。少なくともカルバンはそう言います。
カルバンは驚くことを教えてくれます。カルバンは、生き生きとしてキリストのために死ぬ人が十字架を負っていると言うのです。喜びを持っている人が十字架を負っているのです。
逆に、ぶつぶつ言いながら四十年間モーセの後についてきたイスラエルはどうでしょう。彼らは常に不平不満を言っていました、モーセについていきましたし、荒野も通りましたし、たくさんの苦しい思いをしました。水がない時も、食べ物がない時もあり、その苦しみをすべて経験しているのですが、それに対して常に不平不満を言い、「モーセのせいだ」「死ねばよかった」「エジプトに帰ればよかった」と、神様が悪いと思いながら言われた通りに苦しい道をたどっていきました。 しかしカルバンは、それは十字架を負っていることにはならないと言います。
十字架を負うというのは、イエスのように、苦しい中でも生き生きと喜びながら歩むことです。それが「十字架を負う」ということです。
また別の問題として十字架を避けている人がいます。「私は苦しんでいるから十字架を負っている」という勘違いや思い込みではなく、「そんな苦しいことなら、私はちょっとごめんです、嫌です」という人もいますし、だからクリスチャンになりたくないという人もいると思います。 裕福な生活を楽しみ、自分に不自由が出ない程度にしか他人を助けようとしない人たち、そうした人々が、十字架を負いたくない人たちだと思います。その人たちは、自分が楽になり、自分が苦しまない環境を整えて、余った分で生活の水準を変えない程度に人を助けるだけ。お金や富、この世のものを欲しがる人たちです。そうした価値観は、十字架で死なれたイエス・キリストとの相性が悪く、どちらかと言えば、日本の神仏や吉祥文様のようなご利益の価値観との相性の方が良いのではないかと思います。
【マタイ19:21】イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
完全になりたいという人たちに、イエスが言った言葉があります。「自分の持っているものをすべて売り払って貧しい人に分け与え、そして私についてきなさい」と。
富や長寿や健康であることが何よりも大事で、良いものを食べて、ちゃんと運動して、ちゃんと寝て、それを何のためにやっているのですか。十字架は負わなくてもいいのでしょうか。もちろん健康が悪いわけではありませんが、何がより大事なのでしょうか。
自分の健康に影響が出るから人を助けられないのでしょうか。スケジュールが狂ってしまうから、睡眠のタイミングが狂ってしまうから、これができない、あれができないと言うなら、もしかしたらキリストとは違う優先順位や価値観を持って生きているかもしれません。富、長寿、健康、安全、すべてこの世の神仏が我々に与えようとしているもの、それを十字架よりも大切にするというのが、ペテロの考えでした。
【ルカ9:23】イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
ルカは「日々」ということばを追加しています。マタイとマルコには日々ということばはありませんでした。もしかしたら、ルカが後に書いたときに、誤解が生まれないようにしたのかもしれません。つまり、ローマ時代なので、「実際に十字架にかからなければいけないんだ」という誤解が生じないように、そのような解釈ができないように「日々」ということばを追加したのかもしれません。
そうすると、実際に物理的な十字架ではなくて霊的なものを負っているという解釈をしなくてはいけなくなります。
もう一つ、「日々」ということに関して言えば、日曜日は良い顔をしているのに、月曜日や火曜日にはまったく違う生き方をする人もいます。これだと「日々、十字架を負う」ということとぶつかります。日曜日から土曜日まで、同じ自分でいるべきです。それなのに平日の夜の顔と日曜日の顔が何で違うのか、ということです。何で教会の関係者には自分のインスタグラムをフォローさせないのでしょうか。その人には見られたくないものがあるのでしょうか。だれと繋がっているか、何に「いいね」しているか、何をシェアしているか、知られたくないのでしょうか。
本来は, 日曜日も他の曜日も同じように十字架を負う「日々」であるはずです。それが嫌だったら、ペテロのようにイエスから叱られてしまうと思います。
十字架を避けたいとか、すべての自分の苦しみは十字架なんだと思い込むタイプなど、色々な十字架を負うことに対する問題や勘違いがあると思います。
あなたがイエスのために日々負っている十字架とは何でしょうか。
他の人にあなたの負っている十字架について説明できますか。
日々背負っているはずの自分の十字架を正しく認識していますか。
イエス・キリストが全世界の罪を贖うために十字架のいけにえとしてご自分をささげたこと、それまでのご自分を捨てた三年間の働き、これがイエスの十字架です。
私たちにはそれとは少し違う働きがそれぞれあると思います。私たちは世界のすべての罪を負う必要はありませんが、自分には自分の十字架はあるはずです。その十字架を負い、自分のためでも、配偶者のためでも、子どものためでもなく、イエスのためにいのちを失う者が、後に永遠のいのちを得ることになります。
少し語弊があるかもしれませんが、イエスのために負うべき十字架が何であるかわからない人は、まだ一人前のクリスチャンになっていないと思います。クリスチャンとして子どものように生きているのだと思います。自分の十字架があるからこそ、一人前の大人の弟子としてイエスの後について生きていくのです。
そのためにも、もし自分の十字架を正しく認識していなければ、また、正しく認識していると思っていても、信頼できるだれかとその話をしてみるのが良いでしょう。「私の十字架はこれだと認識しています」と夫婦の間でも、信頼できるクリスチャンの友人の中でも、あるいは牧師のところに行って話をしてみる必要があります。「自分が苦しんでいる」=「十字架を負っている」ではありません。自分の十字架、日々負うべき苦しみが何であるかを、説明できるように、人に伝えられるようにする必要があります。
イエスのために十字架を負う人は、いのちは失いますが、決して神に見捨てられることはなく、復活へと導かれます。
今日は福音書の16章と、4章5章との兼ね合い、それぞれの箇所におけるある程度込み入った話、そして自分の十字架を負うことの意味についてお話ししてきました。 聖餐式を通して、イエスの死と復活を覚える私たちは、自分を捨て、富や財産やご利益を求める心、思い込みや高ぶる心、怒り、嫉妬、神よりも優先してしまう何か、それらをすべて死なせ、イエスと共に神の国の一人として、いのちを再び得ることに専念しましょう。
父と子と聖霊の御名によって。
アーメン。
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