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「平和の挨拶」テトス1:1~4

7月25日
読了時間: 14分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


二月の教会員総会で、家庭についての説教シリーズが終わったら、次はテトスへの手紙を一緒に学びますとお伝えしていましたので、今日からテトスへの手紙を始めます。

まず、連続講解説教について説明します。

「連続」というのは、聖書の書を一つ選び、それを最初から最後まで順番に見ていく説教のスタイルです。

「講解」というのは、そのみことばの意味を説明することを指します。

そもそも新約聖書の手紙は、だれかが会衆の前で声を出して読み上げるために書かれています。読み上げられた時に、当然その意味も説明していたはずです。実際に新約聖書をあちこち見るとそのように行われていたことがわかります。

今回、私たちがこのようにテトスの手紙を選んで読み上げ、そのみことばにどのように聞き従うべきかを学ぶことによって、神様が私たちにこの聖書を与えた本来の目的を果たすことができます。

もちろん、主題説教や聖書日課に沿った説教でもそれは可能ですが、どのスタイルにも長所があります。連続講解説教の強みは、その文脈に深く入り込めることです。だれが話しているのか、だれに話しているのか、なぜ、どういう状況だったのか、といった点に時間をかけて深入りできるのが強みです。

一方で、長所があれば短所もあります。例えば、説教者が毎回聖書箇所を選んでいると、内容が限定されやすくなります。有名な説教者にデイヴィッド・マーティン・ロイドジョンズという人がいました。彼はローマ人への手紙について12年半、366回の説教をしましたが、それでもまだローマ書は終わっておらず、そこで中断してしまいました。このようなやり方をすると、ローマ書には深く入り込めますが、聖書には他にも学ぶべきたくさんの書があるのです。

また、書によっては連続講解説教に向いていないものもあります。例えば、歴代誌、哀歌、雅歌、黙示録などはあまり連続講解説教に選ばれません。そのため、連続講解説教だけをやると扱いに偏りが出る傾向があります。また、聖書の文脈に深入りできる反面、目の前の会衆の必要性に適応させるのが難しくなることも多いです。特に聖書に聞き慣れていない人にとっては、内容が難しく、ついていくのが大変になりやすいという面もあります。

実際に、他の説教スタイルにも良さがあります。例えば、聖書日課からの説教です。聖書日課はキリストを中心に据えるために箇所が選ばれています。イエスの人生、働き、教えを中心に一年間を過ごすことができます。さらに、旧約聖書と新約聖書の中から説教に向いている箇所がバランスよく選ばれています。

また、主題説教は具体的な状況について話すことに向いています。聖書に出てくる神のことばや説教を見てみると、実はそのほとんどが主題説教です。ある主題について話し、過去に書かれた聖書箇所の意味を解き明かしながら、特定の状況に適用するスタイルがほとんどです。必ず特定の人たち、特定の状況に対して話すという特徴があります。

例えば、ステパノが自分を殺そうとするユダヤ人に対して説教をする時や、パウロがアテネで説教をする時も、彼らに合わせた説教でした。また黙示録でイエスがアジアの七つの教会に手紙を書く時も、それぞれ具体的で異なる状況に向けて書かれています。

聖書的な説教とは、聖書のことばを説明するだけでなく、聖書の模範に従う教えでなければなりません。私たちは聖書を読んで理解しようとするだけでなく、聖書のように語る必要があります。この手紙がある特定の個人や教会にメッセージを与えるものであるなら、今の場面の説教もそうでなければなりません。だから説教者が主題説教をしても連続講解説教をしても、目の前にいる人たちに神のみことばを届ける必要があります。それは家庭というテーマであっても、テトスへの手紙であっても同じです。

私は多くの優れた説教者の模範に従って、教会の暦の季節(クリスマスやイースターなど)には聖書日課からその季節に合った説教をして、それ以外の三位一体節と呼ばれる時期には、主題説教シリーズや聖書箇所を選んで連続講解説教をしたいと考えています。これによって、三鷹福音教会のニーズに合わせた説教をすることもできるし、私が普段選ばないような箇所について説教することもできます。このようにして一年を通して、続けてキリストの人生を中心に据えることができるのです。


では、なぜ今回はテトスへの手紙を選んだのでしょうか。この手紙は、ある教会の指導者がもう一人の指導者に対し、どのように教会を導くべきかを指示した手紙です。あと約三ヶ月で、私たちの教会は初めてもう一つの教会を開拓します。この時期に、教会とは何か、どのように治められ、運営されるべきかをよく考えることは、非常に良いタイミングだと思います。

その理由の一つは、私たちは、「がんばって教会にならないようにしている教会」に囲まれているからです。ピンとこないかもしれませんが、「教会にならないようにしている」というのは、教会であることよりも支え合うコミュニティになろうとしていたり、気軽な交わりの場であることを目指したり、あるいは良くない例としてブランドを作ろうとしたりする傾向のことです。

しかし、教会とは何でしょうか。それは、みことばと聖礼典によって形作られるキリストのからだです。教会が存在する理由は、まずみことばを教え、そして聖礼典を執り行うことです。教会はその働きを純粋かつ力強く行うために形成され、治められていなければなりません。教会がどのように形成されて導かれればそのミッションを果たせるのか。それがテトスへの手紙のテーマです。


テトスへの手紙1:1~4

神のしもべ、イエス・キリストの使徒パウロから。──私が使徒とされたのは、神に選ばれた人々が信仰に進み、敬虔にふさわしい、真理の知識を得るためで、それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。

神は、定められた時に、みことばを宣教によって明らかにされました。私はこの宣教を、私たちの救い主である神の命令によって委ねられたのです──

同じ信仰による、真のわが子テトスへ。父なる神と、私たちの救い主キリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。


⚫️テトスとはだれか。

テトスへ手紙の内容に入る前に、テトスについてお話します。じつはテトスについては詳しく分かっていません。

分かっているのは、彼が異邦人であり、おそらくパウロによって回心したということです。

でもパウロによって訓練され、パウロと共に旅をして働いていたのは確実です。エルサレム会議にもパウロとともに参加しました。パウロはテトスを特に信頼しており、難しいミッションを何度か彼に任せました。例えば、コリントの教会に厄介な問題を起こす人がいた時、パウロは手紙を書いてテトスに託し、コリントに送りました。テトスはその教会に秩序をもたらし、きよめて和解を成立させました。

またパウロがクレタで宣教の働きをしていた時もテトスと一緒でした。クレタの教会も多くの問題を抱える人たちに苦しめられており、状態は良くありませんでした。クレタは一つの島ですが、そこにはたくさんの町があり、町ごとに教会がありました。クレタ全体の教会にある乱れを正し、秩序をもたらすために、パウロはクレタを離れる際にテトスを残し、その働きを任せたのです。パウロが彼を信頼していたからこそ、この困難な仕事を任せました。教会の伝統によれば、パウロの死後、テトスは監督として死ぬまで(90歳以上まで生きたと言われています)クレタで働いたとされています。


⚫️神のしもべ、イエス・キリストの使徒パウロから。──私が使徒とされたのは、神に選ばれた人々が信仰に進み、敬虔にふさわしい、真理の知識を得るためで、(1:1)

今日読んだテトスへの手紙1:1~4は冒頭の挨拶です。

まず「使徒パウロから」で始まり、テトスとの関係性についても触れていますが、一番長い部分は、パウロの使徒としての働きについてです。

・神のしもべ

パウロはまず、自分を神のしもべと呼んでいます。ここでパウロはへりくだった姿勢を示しています。21世紀に住む私たちにとってしもべ(奴隷)という言葉は概念でしかありませんが、当時の人々は実際に奴隷に囲まれて生活していたので、その言葉を聞いてすぐにイメージが湧く、きつい言葉でした。パウロは自分のことを、神のしもべと言っています。神以上の主人はおらず、神よりも偉大な主人はいません。ですから、パウロが神のしもべというときに、同時に自分に偉大な働きが与えられていることも意味しています。

・イエス•キリストの使徒

パウロはまた、自分をイエス・キリストの使徒であると言っています。自分を奴隷と呼ぶ一方で、特別に選ばれた者としての権威があると言っているのです。それがどれほど特別なものなのかが伝わりますが、しかしパウロは自分の言葉を話すわけではありません。王(キリスト)であるイエスの代わりに話す者、遣わされた使徒に過ぎないという意味も含まれています。パウロは自分を低くし、イエス・キリストを偉大なお方として示しているのです。


パウロはテトスの友人であり、親密な関係でした。そしてガマリエルに教えられた学者として高い立場から語っているのではなく、神から使徒という役職を与えられた者として話しています。だからテトスも私たちもパウロの言葉に聞き従う必要があります。パウロがだれなのかということではなく、彼を遣わしたイエス・キリストがだれなのかということに注目します。イエスと聖霊がパウロを通して話しているからこそ、私たちはパウロの言葉によく聞き従わなければならないのです。

【ヨハネの福音書20:21】イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

平安を与えながら遣わすパターンは、テトスへの手紙でも同じように見ることができます。


⚫️同じ信仰による、真のわが子テトスへ。(1:4a)

では、パウロとテトスの関係はどうでしょうか。

父に聞き従い、意図的にまねる子が「真の子」です。パウロは結婚しておらず、子どももいませんでしたが、霊的な子どもはたくさんいました。例えば、コリントのクリスチャンやテモテのことも自分の子どもだと言っています。

【第一コリント4:15~17】たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。

ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。

そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。

テトスもパウロの生き方を真似したのでパウロの子です。そしてパウロはキリストに倣う者でした。だから二人はともにキリストに従う同じ信仰によって結び合わされています。


⚫️私が使徒とされたのは、神に選ばれた人々が信仰に進み、敬虔にふさわしい、真理の知識を得るためで、それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。

神は、定められた時に、みことばを宣教によって明らかにされました。私はこの宣教を、私たちの救い主である神の命令によって委ねられたのです(1:1~3)

ここは非常に意味深い挨拶です。私たちが目を向けるべきなのはパウロでもテトスでもありません。この挨拶の中心におられるのは神ご自身です。パウロのミッションが神から来ていることがとてもはっきりしています。その挨拶は論理的で新鮮です。

・神に選ばれた人々が信仰に進み

まず、パウロが使徒として遣わされているのは、神に選ばれた人々が信仰に進むためです。この中に私たちも含まれます。私たちも神に選ばれたから神を信じています。

・真理の知識を得るため

真理の知識と信仰は矛盾しません。逆に、信仰がある者こそが真理を知ることができるのです。神のみことばを信仰を持って受け入れるからこそ、理解することができるのです。

・敬虔にふさわしい

ギリシャ語の順番では「敬虔にふさわしい」が最後にきます。敬虔とは生き方のことです。まことの真理は頭の中だけで終わらずに、実際に行動に移して生き方を変えていくものです。行うところまでいかなければ、実際に分かったとは言えません。

・永遠のいのちの望みに基づく

神に選ばれた信者たちは、永遠のいのちに望みを置いている者たちです。この望みがあるから最後まで敬虔に生きることができるのです。彼らは決して破壊されることのない望みを持っているからです。

どうして私たちはそこまで強い確信のある望みを持てるのでしょうか。それは私たちの信仰が強いからではなく、神様はまことで偽りがないからです。その永遠のいのちはイエス・キリストを通して与えられました。イエスは一度死んで復活したので、私たちも永遠にイエスとともに生きることができるように、私たちを引き寄せておられます。

【第二コリント1:20】神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。

この永遠のいのちの約束がいつ与えられたのかも大切です。いろいろなことが起きたから、歴史のある時点で何かの対応として決められたのではなく、永遠の昔から与えられている約束なのです。つまり、神のご計画の不可欠な要素なのです。そうだとしたら、それが変えられることはありません。

長い間、この希望は知られていませんでしたが、今、その定められた時が来ました。パウロがこの手紙を書いている時が、その定められた時なのです。この時代は、神様が死者の復活を宣言するために、使徒たちを送り出した時です。パウロはアテネでこう語っています。

【使徒の働き17:30】神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。

イエス・キリストが来られるまでは無知の時代でした。しかし今はもう無知であってはなりません。すべての人がこの希望を持つように、福音が宣言されなければならない時代なのです。

実際にパウロはどこに行っても福音を宣言していました。

【使徒の働き23:6】「兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」

パウロはテトスへの手紙の冒頭の挨拶で「私はこの宣教を、私たちの救い主である神の命令によって委ねられたのです(テトス1:3)」と言っています。

この命令は、パウロがダマスコに向かっている時に与えられました。イエス・キリストご自身がパウロの目の前に現れ、ご自分の使徒になるように任命されたのです。それによってパウロはみことばを宣教する使徒となりました。これがパウロのミッションであり、彼のやることはすべてこれに向かっています。旅の行き先も、だれとどのような人間関係を築くのかも、すべてはこのミッションのためです。そしてこの手紙を書いているのもそのためです。パウロのまことの子がテトスなら、これはテトスのミッションでもあります。それでテトスもまた、永遠のいのちの希望を宣言するパウロに倣う者でなければなりません。

実際、私たちも神の奴隷であり、神に遣わされた者です。それなら私たちも神に選ばれた者として神を信じ、真理を求める必要があります。今持っている真理で十分だと思わず、常に神の真理を追求し、敬虔に生きる必要があります。そして永遠のいのちに対する確かな希望を持ち、生き方、話し方、話す言葉においてもその希望を表す必要があります。なぜなら、これは私たちの救い主である神の命令だからです。そして私たちを通してこの世が救われるためだからです。


⚫️父なる神と、私たちの救い主キリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。(1:4b)

・恵み

恵みということばはよく耳にします。人や教会の名前にもなっていたりします。しかし、恵みとは何でしょうか。説明しようとしたことはありますか。あまりにも広くて深いので、説明が難しいのですが、一言で言うと、神の好意から出てくる一方的な賜物のことです。神様が私たちを愛しているから与える、すべての祝福をまとめたことばです。

・平安

平安とはどういう意味でしょうか。このことばは、自分の中にある平安と自分の周りにある平安を区別していません。両方合わせての平安です。一言で言うなら、平安の状態は恵みを受けている状態なのです。不安や不満、争いの状態から救い出されて、神と神にあるすべてとの和解が成立していて、愛し合って一つになっている状態を指します。


私たちが互いに挨拶する時、何を相手に願うでしょうか。「元気?」「気をつけて」「お大事に」という言葉を使います。健康は神様からの良いものでお互いにそれを願うのは良いことですが、それが一番良いものではありません。互いのために願う最も良いものは「恵みと平安」です。だからこそ、私たちはこの後、お互いに平和の挨拶を交わします。


今、私たちの目の前には、神様の永遠のいのちの約束があります。肉となったみことばが目の前にあります。私たちがこのパンを食べ、杯を飲む時に、キリストと一つになることを通して、すでにキリストの永遠のいのちにあずかっているという希望を告白します。

父と子と聖霊の御名によって。アーメン。



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