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「長老たちの任命」テトス1:5

8月1日
読了時間: 14分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


テトス1:5

私があなたをクレタに残したのは、残っている仕事の整理をし、私が命じたとおりに町ごとに長老たちを任命するためでした。

今日の箇所は短いのですが、非常に多くの内容が含まれている大切な1節です。

まず、この手紙の背景をみたいと思います。

クレタというのは町の名前ではなく、地中海にある島のことです。この島の中にはたくさんの町がありました。

パウロとテトスは二人でこの町を回りました。彼らが伝道の旅でこの島に着いた時には、既にいくつかの町に教会があったようです。それで彼らはそれぞれの教会を訪れてみことばを教えました。しかしパウロがクレタを去る頃になっても、まだ教会に秩序が足りない状態が続いていました。教会として十分に整理されておらず、はっきりとしたリーダーもいなくて、多くの問題を起こす人たちによって苦しめられていました。問題を起こす人たちの中には、間違った教えをする人たちもいれば、怠け者や争いを好む人たちも多くいました。

そのような中でパウロはこの島を離れなければならなかったので、テトスをクレタに残すことにしました。教会のリーダーの基準を満たす人を、どの町においても長老として任命して、教会の問題を解決するためでした。


この手紙はパウロからテトスへの手紙であり、二人とも実在の人物であり、当時の実際の状況に関する手紙です。直接私たちに宛てられた手紙ではないし、私たちの教会の状況でもありません。

ですから、私たちがこの手紙を読み進める前に、まず新約聖書からどのように学ぶべきかを考えたいと思います。

使徒たちが生きていて教会を導いていた時代を使徒時代と呼ぶのですが、この時代の教会から私たちは何を学ぶべきでしょうか。よくある二つのパターンを紹介します。


一つ目は、自分たちと使徒時代の教会との間に距離を置きすぎる問題です。「彼らはこういうことを信じ、行っていたけれど、現代の私たちはついていけない」という反応です。どちらかというと、リベラルな教会の間でよく見られます。例えば、女性の按手や同性愛を認めていないことについて、それはパウロの偏見だとか、1世紀に限られた見方であって、現代の私たちは従う必要がない、と考えます。でもじつは聖書を信じるクリスチャンも似たような間違いをします。自分たちが違和感を感じることを、ただその時代のものだったと捉えて無視することがあります。お辞儀や口づけ、都市単位の教会構造などは、新約聖書によく出てきますが、聖書を信じるクリスチャンでも、今の私たちと当時のやり方は違うと思ってしまうことはあります。


二つ目は、自分たちと使徒時代の教会との間に十分な距離を置かない問題です。当時のことを「こうだったはず」と思い込んでそのまま再現しようとする反応で、これは保守的なクリスチャンの間でよく見られます。ここには二つの間違いがあります。

・初代教会への誤解

新約聖書だけを読むと、二千年前の教会も私たちと同じような価値観を持ち、同じような状況だったと思ってしまい、1世紀と21世紀の大きな違いを十分に学ばず、初代教会を理解していないことからくる誤解です。

・初代教会の再現

初代教会を再現できる、あるいは再現すべきだと思い込んで、新約時代の教会を気をつけて真似していれば大丈夫だと思う誤解です。しかし21世紀は当時とあまりにも違うので、再現することはできません。今の時代には使徒も預言者もいません。当時の都市教会のような一致も足りないので、使徒の単位で教会を統治することは不可能です。

このように、当時の教会について、本来はその模範に従うべきなのにできていないという部分もありますが、一方では再現してはいけない部分もあります。最初の世代のクリスチャンのリーダーたちは神学校に行っていませんでした。また教会堂もなかったので人の家に集まっていました。彼らは始まりであり、私たちはそこから成長していかなければなりません。新約時代の教会は種であり、木になることを目指さなければならないのです。もちろんどの地域教会も始まりは種だと言えます。種から始まった教会はどれも木になることを目指さなければならないのです。この二千年間を、種から木に成長していく過程として見る必要があります。



私たちが新約時代の教会を学ぶとき、どちらの反応もしたくないと思います。偏見をもって使徒時代の教会を見下したくはありませんし、1世紀の教会を最終目的地点だと思ってもいけません。私たちのゴールは、過去にあってそこに戻ろうとしたり再現しようとしたりするものではなく、未来にあります。私たちには、時代が変わっても変わらないものと、発展していくものを区別する知恵が必要です。種と木の区別です。完成された木も種から始まりますし、種には木になるための全ての情報が含まれています。だから私たちはこの種に対して100%忠実な木として育つべきです。

使徒時代の教会は、ある意味で赤ちゃんのような存在でしたが、使徒という偉大な親たちがいました。だから初代教会はある意味で私たちより偉大です。使徒たちが導いていて、聖霊による知識や預言の賜物があり、聖書のことばも直接彼らに書かれていました。キリストから口で伝えられた口承伝承(口から口へ語り継がれたもの)も受け継いでいました。

【使徒20:35】主イエスご自身が「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。

パウロがイエスのことばを引用する際、パウロ自身がイエスから直接聞いたものではなく、福音書に書かれているものでもなく、口で伝えられたものが残っているのです。

【ローマ9:4〜5】彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。

初代教会に集っていたのはおもにユダヤ人たちでした。彼らはモーセの時代から始まった制度も、自分たちの知識や経験としてもっているのです。だからヘブル書のような手紙が存在するのです。彼らは旧約聖書から受け継いだものをしっかり持っていました。その意味で使徒時代の教会は偉大です。


しかし、使徒時代は決して過去の黄金時代ではありません。実際に、聖書において過去の黄金時代は存在しません。聖書の黄金時代は常に未来にあります。これから来る、そして今くだって来ている神の御国にあるのです。

【伝道者の書7:8、10】事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。

「どうして、昔のほうが今より良かったのか」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。


新約聖書は真理を語るだけでなく、物語、手紙、人物、具体的な状況を通して模範を見せてくれます。1世紀の人たちは、この真実をどのように適用しようとしていたのか、そのような例がたくさん残されています。それはその後に続くどの時代のクリスチャンも、そこから学ぶためです。私たちも教会としてどのように生きるべきなのかを、一世紀の教会を見て学びたいと思います。

私たちが気をつけるべきなのは、すでに信じていることを制度化するために聖書を読んでしまうことです。私たちが聖書に従うなら、聖書によって形作られなければなりません。聖書の実際のことばの意味を正しく学ぶ努力をし、自分を変えなければならない時を知るために謙遜になっていなければならないと思います。このような姿勢でテトスの手紙を読みたいと思います。

それでは、テトスへの手紙1章5節を読みます。

テトス1:5

私があなたをクレタに残したのは、残っている仕事の整理をし、私が命じたとおりに町ごとに長老たちを任命するためでした。

とても短い箇所で、さっと読むこともできてしまいますが、先ほども言ったようにここに出てくる詳細はとても大切です。一つ一つのことばのすべてに意味があります。

⚫️残っている仕事の整理

ここでパウロがいう整理とは、書類の整理のようなことではなく、クレタでの福音の働き全体に秩序をもたらす仕事のことです。クレタの教会に秩序を与えて、パウロがやり残したことを行い、福音の働きを確立させなさいということです。

その第一歩として最も大切なのが、長老を任命することでした。


⚫️町ごとに長老たちを任命する

「長老」という言葉はギリシャ語で「年をとった者」という意味ですが、このことばを少し説明したいと思います。

私たちの教会にも治会長老がいます。長老という言葉が使われていますが、新約聖書で「長老」ということばが使われるとき、それは治会長老のことを指しているのではありません。新約聖書では、教会を治めるすべての役職を指す包括的な用語が「長老」です。

【使徒の働き15:4】エルサレムに着くと、彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。それで、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告した。

エルサレム会議で話し合うためにパウロたちがエルサレムに向かいました。彼らが到着すると、教会の人々と「使徒たちと長老たち」に迎えられました。エルサレム会議には使徒たちと長老たちがいました。このような表現は6回くらい出てきます。でも使徒たちもある意味で長老なのです。

ヨハネも第三ヨハネの手紙で自分を長老と名乗っています。

【第三ヨハネ1】長老から、愛するガイオへ。

皆さんを混乱させたくはないのですが、聖書の学びをしているときに、「長老」ということばを使わせていただきます。しかし厳密に言えば、教職長老と治会長老、つまり牧師と長老を区別している教会であれば、テトスへの手紙の「長老」は牧師を指します。なぜなら、新約聖書の長老は牧会と教えることの両方を行うからです。

【エペソ人への手紙4:11〜12】こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

この「牧師」ということばは、「羊飼い」という意味のことばです。

イエスは良い羊飼いです。ご自分の羊に牧者がいることをイエスは望んでいます。

【エペソ4:8】そのため、こう言われています。「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。」

キリストは人々に贈り物を与えました。その贈り物とは11節にあるような人たちのことです。イエスがまず教会に与えたリーダーは使徒たちでした。

【マタイ9:36〜38、10:1】また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。

イエスは群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てているのをあわれに思われました。それに答えるように十二弟子を任命して、権威を与えて送り出したのです。だから使徒たちの働きはイエスの働きを継承することでした。使徒としてパウロはこの良い羊飼いの心を受け継いでいました。

クレタの教会も羊飼いのいない羊のように苦しんでいました。だからテトスに与えた最初の働きは長老を任命することでした。教会に秩序を与えることに欠かせないことだったからです。

次の6節は来週学びますが、パウロはテトスに良い長老の選ぶための指示を出します。

パウロがこのままクレタを離れて、テトスが長老を任命しなかったら、導く人は現れないのでしょうか。いいえ、人は必ずだれかについて行きます。必ずリーダーが現れます。しかしそのリーダーは、カリスマ性がある人や人前で話すのが上手い人、金持ち、権力者など、何らかの形で成功していて、影響力のある人がリーダーになってしまうかもしれません。下手をすると権力欲のある人がリーダーになってしまうかもしれません。しかし秩序なく任せてしまうと、神様の基準に従った長老が選ばれないことになってしまいます。つまり試されて訓練されて、ある役職に任命された人が教会をリードすることになりません。

しかし面白いことに、パウロはクレタの町の長老を、すぐに急いで任命するわけではありませんでした。パウロはテモテにこのように教えています。

【第一テモテ5:22】だれにも性急に按手をしてはいけません。

パウロがこのように言うのは、人格を見極め、訓練するには時間がかかるからです。来週は、実際にどのような人を選ぶべきかを学びますが、一言でまとめると、イエス・キリストのような人格を持つ人が選ばれなければなりません。

長老を任命しなさい、というテトスへの指示を読んで「せっかく兄弟同士の交わりがあったのに、上下関係を作ってしまうの残念だ」と思わないでほしいと思います。このパウロの指示には私たちの牧者であるキリストの愛があるからです。イエスは、ご自分の羊たちに良い羊飼いがいることを望んでおられます。その羊たちに仕えて、イエスのように羊たちのためにご自分のいのちをささげる羊飼いが教会に与えられることを望んでおられるのです。

【ヨハネ10:11】わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。


長老について、二つポイントを述べさせてください。

一つ目のポイントは、テトスがすべての地域教会ごとに長老を任命するわけではないということです。1世紀の教会は、町ごとに長老を任命していました。つまりクレタの教会は都市単位で治められていました。そしてどの町にも複数の長老たちがいました。そしてどの町も長老たちの会議によって導かれていました。

この数十年後、テトスの頃より少し発展していた頃のことですが、アンティオキアのイグナチオが、どの町にも長老たちの会議があったことを描写しています。その会議がその町の教会を導き、さらにそれをまとめる監督がいました。その監督がテトスの立場です。複数の長老たちは互いに協力できる人たちで、憐れみ深く、へりくだっていて、会議の決断に従える人でなければなりません。自分勝手な独裁者や、分離主義者であってはだめなのです。


現代の東京で都市教会の長老会はありません。つまり東京の教会をすべて見守って導いている一つの長老会はありませんし、それができるという状況も考えにくいことです。不可能に近いです。しかしそれぞれの地域教会で複数の牧師や長老の会議をもつことはできます。地区会で地区の牧師の会議をもつこともできますし、そのような形もあります。私たちの教団は地区がバラバラで今のところは東京にもう一つの教会しかありませんが、都市教会のように、同じ地域にある教会を大事にし、彼らとの交わりを求めて、できる範囲で共に福音の働きをしたいと願っています。なぜなら、彼らは主にある私たちの隣人だからです。


二つ目のポイントは、イエスから始まるはっきりした流れを見ることができるということです。

まずイエスがパウロを使徒として任命しました。

【テトス1:1】神のしもべ、イエス・キリストの使徒パウロから。

次にパウロがテトスを任命します。

【テトス1:5】私があなたをクレタに残したのは、残っている仕事の整理をし、私が命じたとおりに町ごとに長老たちを任命するためでした。

そしてテトスが各町の長老たちを任命します。そしてさらに2章や3章を見ていくと、教会員がどのように長老たちについていくべきかも語られています。

このようにすべてがキリストから始まっているのです。イエスが私たちの面倒を見ていることがわかります。イエスはこの使徒たちを通して、ご自身が常に教会とともにいて、教会を導き、教えておられることを保証しています。


クレタのたくさんの地域教会がバラバラだから、それぞれが長老を選ぶことを勧めているのではありません。パウロはテトスに公に手紙を書きました。テトスがクレタの諸教会を回って秩序をもたらし、整理していくときに、この手紙を携えて行き、どの教会にも渡します。パウロに任命されたテトス自身が、使徒の権威をもって教会を導くことができるようにするためです。そのようにして、この手紙は私たちの手元まで届いています。

だから私たちはパウロの教えに聞き従う者として、自分たちを使徒の教会と呼びます。イエスは自分の教会を、使徒たちを通して設立しました。私たちはその教会に従って、使徒たちの教えに聞き従って生きようとしています。


毎週の日曜日、パウロが教会を導き、他の使徒たちも教会を導いてくれたから、今日もイエスが私たちとともにいてくださいます。キリストが立てた羊飼いの働きを通して、良い牧者であるイエスが今も私たちとともにいてくださいます。


イエスは私たちの罪を赦し、ご自分の食卓に集めてくださいました。

【第一ペテロ2:25】あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。

私たちがこの監督者のもとに帰ったので、キリストは私たちを養い、癒し、たましいを生き返らせてくださいました。その良い牧者の愛と導きのおかげで、私たちはキリストから決して切り離されることがないのです。牧者のいない羊ではないことを感謝します。



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