「長老の条件」テトス1:5~9
説経者:ベンゼデク・スミス牧師
テトス1:5~9
私があなたをクレタに残したのは、残っている仕事の整理をし、私が命じたとおりに町ごとに長老たちを任命するためでした。
長老は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、子どもたちも信者で、放蕩を責められたり、反抗的であったりしないことが条件です。
監督は神の家を管理する者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、乱暴でなく、不正な利を求めず、むしろ、人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。
先週は5節を一緒に学びました。パウロはテトスに長老の任命を託しています。
そこで今日はパウロの教えから、テトスがどのような長老を任命すべきなのかを見ていきたいと思います。
私たちには、教会としてだれが長老にふさわしいかを見抜く責任があります。そしてその基準は私たちみんなに適用されるので、私たちにとって、長老の条件、資格を理解することはとても大切です。
⚫️長老は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、子どもたちも信者で、放蕩を責められたり、反抗的であったりしないことが条件です。(1:6)
6節には三つのことが並べられています。今日はここに集中します。
・非難されるところがない。
これは7節でも繰り返されています。つまりパウロは本気です。もちろん、これは罪がないとか完璧という意味ではありません。もしそうなら、だれもこの条件を満たすことはできません。
ここで言われているのは、告発される点がないこと、キリストの名を汚す大きな罪を犯し続けていないこと、その人のせいでキリストの名が汚されないことです。
では、どういう分野で非難されるところがあってはならないのでしょうか。結婚において、子どもにおいて、つまり家庭においてです。それで、あと二つの条件、結婚と子どもについて見ていきます。
・一人の妻の夫
結婚していなければ長老にふさわしくないのでしょうか。これは何年も前から、いつも教会で話されていることです。ぼくは独身の時に牧師になったし、今も私たちの教会には独身の長老が一人います。長老や牧師は結婚していなければならないのかというと、教会は昔からパウロの言葉をそのように解釈してきませんでした。
有名な牧師であり神学者のジョン・ストッドは、こう説明しています。「この『妻に忠実(一人の妻の夫)』という言葉は、独身の人や再婚したやもめを除外する意味ではありません。むしろ、重婚している人や、離婚してから再婚した人を除外する意味です。」 昔から、長老の条件はこのように解釈されています。
ギリシャ語を直訳すると「一人の女の男でなければならない」と書いてあります。これは「一人の妻の夫」以上に広くて深い意味があります。ただ一人の妻と結婚しているだけではこの条件を満たしていません。忠実な人でなければならない。特に性において非難されるところがなく、情欲を抱いて女性を見たり、心の中で姦淫を犯したりしてはならないということです。
パウロ自身は結婚していませんでした。それどころか、むしろ独身の生き方を勧めていました。だからパウロが自分には資格がないと言っているわけではありませんし、矛盾を言っているわけでもありません。
独身の長老がいることにはメリットがあります。さきほど引用したジョン・ストッド自身も一生結婚しませんでした。また、教会の伝統からの推測ですが、テトスもテモテも一生独身だったと言われています。そしてもちろん、イエス・キリストも独身でした。
ですから教会には、長老たちが100%結婚していなければならないという要求はありません。でも同時に結婚している人が0%というのも良くない状態です。逆にそれは別の腐敗をもたらします。教会のリーダーにとっても民にとっても、結婚している人たちがほとんどだけど、全員ではないという状態が一番健全です。
それでも、時には牧師や長老は結婚していなければいけないという人はいます。しかしこの文章を終わりまで読むと、パウロは「一人の妻の夫であり、子どもたちも信者でなければならない」と書いています。もしこれを長老の絶対条件とするなら、結婚していることと同じように複数の子どももいなければならないことになります。しかし長老の条件としてそこまで主張する人は聞いたことがありません。
パウロが話しているのは、夫として、父親としてその条件を満たすことであり、それは独身者としても満たすことができます。パウロが最初に持ち出すこの大切なルール「一人の妻の夫であり、子どもたちも信者である」は結婚していなければ、そして子どもたちがいなければ無効です、ということではありません。パウロ自身はこの条件を両方とも満たしています。彼は、独身者にも既婚者にも模範です。パウロは性における純潔を守っていましたが、それは、これをしていないこと、あれをしていないこと、ということで定義できません。何を肯定的にしているのか、そこまで含まれます。そして、彼は教会に対して夫のように熱心でした。
【第二コリント11:2】私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。
また、パウロには父親として多くの霊的な子どもがいました。テトス自身もパウロの「同じ信仰による、真(まこと)のわが子(1:4)」です。 どの長老も霊的な父親でなければなりません。子どもがいない男性であっても、後輩たちを主にあって訓練し、霊的に成長するように働きかけているはずです。そうしていなければ、この条件を満たしていません。親たちは、その人が自分の子どもたちと接しているのを見たら喜ぶはずです。「この人なら子どもたちを神につなげて正しく生きるように導いてくれる」と安心するはずです。そう思えるような人であれば、良い長老になるでしょう。
ですから、パウロはこの条件の例外ではなく、条件を満たす模範なのです。
・長老の子どもたちも信者で、放蕩を責められたり、反抗的であったりしない
【第一テモテ3:4~5】自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。
パウロはテモテにも、監督とはこのような人でなければならない、という内容を手紙に書いています。家庭とは、教会というスケールの大きな家族を導くための訓練の場なのです。ですから、長老は家庭の中で非難されることがあってはならないとパウロは教えています。
現代人にとって、これは意外なことかもしれません。社会では、たとえ不倫をしていたり家庭をないがしろにしていたりしても、成功している人や権力がある人、例えば社長や政治家などが地位を失うことはありません。利益を上げていれば、社長がどういう家庭生活をしているかはどうでもいいし、クビになることはありません。政治家も党のために票を集めることができていれば権力を失うことはありません。しかし教会ではそうであってはならないのです。
パウロによると、良い長老はまず良い夫であり、良い父親であるべきです。
パウロのテサロニケでの働きを思い出します。
【第一テサロニケ2:7~8、11~12】私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。
また、あなたがたが知っているとおり、私たちは自分の子どもに向かう父親のように、あなたがた一人ひとりに、ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。
パウロはテサロニケの人々を母親のように愛おしく思い、父親のように神にふさわしく歩むよう励ましていました。
【第一ヨハネ2:1】私の子どもたち。
ヨハネもよく、子どもたちを愛情深く子どもたちと呼びました。歴史的に教会のリーダーたちを父と呼んできたのはこうした背景があります。
神様との良い関係、妻との良い関係、子どもとの良い関係、この三つの関係は深くつながっています。人が自分の妻と子どもたちを導く姿は、そのまま教会を導く姿を示します。子どもを素直に従わせることができなければ、どうやって教会の素直でない人たちを従わせることができるでしょうか。子どもたちが放蕩であるなら、どうやって教会をきよく保つことができるのでしょうか。
パウロは長老の子どもたちが信者でなければならないと言います。それは、親が自分に従わせるのではなく、神についていくように育てたということです。どんなに恐ろしい親であっても、信じることは強制できません。子どもたちが神について行くように導くためには、知恵も忍耐も良い模範も、そして何より神の恵みが必要です。時々、どう見ても敬虔な親なのに、その子どもが信仰から離れることがあります。たとえそうだとしても、父親がその育て方において非難されるところがないことが求められます。神様が祭司職から取り除いたエリのようであってはならないということです。
イエスは完全に導いたのに、ユダは裏切りました。だから親が正しく導いたとしても、最終的には神の恵みが必要です。
私たちがこの条件を見た時に、それではだれがふさわしいのかとがっかりしたり絶望したりするかもしれません。だれがふさわしいのか、ふさわしい人はいるのか、自分はふさわしくなれるか、と思うかもしれません。しかし、神様は罪人として、そのようなことで失敗した人でさえも用いてくださいます。ダビデは決して「一人の女の男」ではありませんでした。息子たちも、神に対してもダビデに対しても反抗的で従いませんでした。それなのに神様はダビデを、イスラエルを救うために用いて、メシアが現れるために備えました。私たちはあらゆる面で不完全で、批判されるところがありますが、神様は恵み深く、私たちのような者を通して教会を祝福してくださるのです。
私たちはこの箇所を見た時に、どう反応すべきでしょうか。
まずはこの基準を満たすようにがんばる必要があります。それは長老になりたいから、牧師になりたいから、とは限りません。それ以前にこれはすべてのクリスチャンのための基準です。私たちがこれに従った時、神様は私たちの忠実を通して世界を変えます。
歴史の中で、あまり話題にならない奇跡があります。数百年間に渡って起きた奇跡なのでよく無視されますが、世界中から一夫多妻が消えて、一夫一婦制に向かっていることです。
昔から、どの国でも、権力者がいれば、力がある男性がいれば、その分だけ何十人も何百人も、場合によっては何千人も妻がいました。そのような男性が歴史に残っています。力がない男性には妻がいないということになったりしました。
力がある男性たちが、あえてこの特権を手放すのは、テトス1:6があるからです。キリストには一人の妻しかいませんでした。一人の花嫁、一つのからだです。教会は、このパウロの命令に従って、重婚している人、不倫している人たちが教会のリーダーになることを禁じました。教会は、リーダーがこのようでなければならないなら、一般の信徒もこの基準を守る必要があると決めました。それで最初から教会はすでに結婚している人にもう一人の妻と結婚することを許すことはありませんでした。それで、世界に福音が広まると同時に、結婚における忠実な愛の基準も広まりました。
今では、あるイスラム教徒の国や異教の国以外では基本的にどこも一夫一婦制です。つまりキリスト教の結婚基準が世界の基準になったのです。
今日読んだみことばは、教会をリードする人たちだけの基準ではなく、イエス・キリストの生き方を表すものです。牧師も長老もこのように生きる必要があるし、イエスについていくすべての弟子もこの基準に従う必要があります。
【第一コリント11:1】私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。
【第一ペテロ5:3】割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
長老たちが群れの模範となり、私たちがこの基準に従うなら、私たちは大いに豊かに祝福されて、キリストの諸教会はきよい生き方をする人でいっぱいになります。そして長老になる人の選択肢が多すぎて困ってしまうようになるでしょう。
キリストの義の光が教会から輝いて、この世界を御国に変えていきます。
私たちが聖餐式を受けるとき、イエスが私たちにとってどのような夫であるかを思い起こしましょう。
【エペソ5:25】夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。
キリストは教会を愛し、ご自分をささげられました。イエス・キリストこそが「一人の女の男」としての忠実な夫であり、私たちが不忠実な花嫁であっても、ご自分のいのちを犠牲にしてまで私たちに忠実なお方です。そして、さらにイエス様は良い父親で、良い息子の模範でもあります。地上の親にも素直で、御父にも素直でした。私たちがイエスに近づこうとするとき、イエスは必ず良い父親のように私たちを拾い上げて抱きしめて祝福してくださいます。イエスは聖餐式を通してこのことをしてくださいます。
父と、子と、聖霊の御名によって。
アーメン。
コメント