「健全な教えと叱責」テトス1:9~16、2:1
説教者:ベンゼデク・スミス牧師
テトスへの手紙1:9~16、2:1
(監督は)教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。
実は、反抗的な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多くいます。特に、割礼を受けている人々の中に多くいます。そのような者たちの口は封じなければなりません。彼らは、恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、いくつかの家庭をことごとく破壊しています。
クレタ人のうちの一人、彼ら自身の預言者が言いました。「クレタ人はいつも噓つき、悪い獣、怠け者の大食漢。」この証言は本当です。ですから、彼らを厳しく戒めて、その信仰を健全にし、ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている人たちの戒めに、心を奪われないようにさせなさい。
きよい人たちには、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた不信仰な人たちには、何一つきよいものはなく、その知性も良心も汚れています。
彼らは、神を知っていると公言しますが、行いでは否定しています。彼らは忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。
しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを語りなさい。
今日の箇所は、聞いていて気持ちがいいような話ではありません。隣にいる人が叱られているだけでも、気持ち悪くなります。そのような感じの聖書箇所です。
⚫️教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。(テトス1:9)
「教えにかなった」というのは、自分が受けた教えにかなったという意味です。教えにかなった信頼すべきみことばを守っていくのは、健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。なぜ長老はこのような人間でなければならないのでしょうか。
その大切な理由の一つが、この後に続きます。
⚫️実は、反抗的な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多くいます。特に、割礼を受けている人々の中に多くいます。(テトス1:10)
「実は」という10節の始まりは、「なぜなら」ということばです。
そして「割礼を受けている人々」とは、別の箇所で「割礼派」と翻訳されています。キリストの教会の中にいる一つの派閥で、ほかの人たちも割礼を受けなければならないと主張する人たち、これが割礼派です。パウロはこの割礼派の人たちを反抗的な者たちと一緒にしますが、彼らはパウロに反対している人たちで、ほかの人たちもパウロについて行かないように妨害しようとしています。人がキリストを信じるなら、ユダヤ人にならなければならない、ということを主張しているのです。
じつは、テトスは割礼を受けていない異邦人です。彼らはテトスのような人たちを見下して軽蔑しているのです。
そしてユダヤ人たちはパリサイ人が教えていたような清めについてのルールを守り続けていました。特に、汚れた食べ物を食べません。そして、そのようなものを食べる人たちと一緒に食事もしません。ですから、たとえば豚肉やタコ、イカなどを避けます。この人たちが日本に来ると大変なことになると思いますが、このような食べ物を避けます。そして、これを食べる異邦人やクリスチャンを避けるのです。これが割礼派です。
彼らは結果として、パウロが教えている福音そのものを否定しています。
パウロは次のように言いました。
【エペソ2:14~16】実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
イエス・キリストにあって、ユダヤ人と異邦人の隔ての壁が打ち壊され、十字架によって神と和解して、敵を滅ぼした、とパウロは言います。
彼らはそれを否定しています。これはパウロの人生の中で最も大きな神学的戦いの一つでした。このことについてはガラテヤの手紙や使徒の働きにたくさん出てきますが、じつはパウロの手紙の大半に、これが何らかの形で出てきます。
⚫️ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている人たちの戒めに、心を奪われないようにさせなさい。(テトス1:14)
じつはイエスもパリサイ人たちと戦っていました。
【マルコ7:5~8】パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」
イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』
あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」
マルコの7章は、今日のテトスの箇所にとても響いています。
続けてマルコの7章18節から読みます。
【マルコ7:18~19】イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。
何を食べてもいいのか、という議論にもつながります。
【マルコ7:20~23】イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」
⚫️きよい人たちには、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた不信仰な人たちには、何一つきよいものはなく、その知性も良心も汚れています。彼らは、神を知っていると公言しますが、行いでは否定しています。彼らは忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。(テトス1:15~16)
彼らは口先では神を知っていると言いますが、行いでは否定しています。
つまりパウロも、イエスの戦いをそのまま受け継いでいるのです。
パウロがこのような問題を起こしている人たちの話をするときに、最初に使うのは「反抗的」ということばでした。そして最後に「不従順」ということばを使っています。
このような問題を起こす偽教師、人を惑わす教師とはどういうものなのでしょうか。
まず彼らは自分の権威を教会の中で主張します。自分の権威を主張しながら、自分を超える権威を認めません。教会においても自分の上に権威はないと主張します。そしてキリストが自分の上に置いた権威に従いません。
このような偽教師は、まず明らかにパウロに反抗的です。パウロは使徒なので、彼が何を言っても信じて受け入れるはずです。私たちの周りにも使徒が一人でもいたらよかったのに、と思います。
しかし新約聖書を見てみると、実際に使徒たちは常に反対されていました。何しろイエス・キリストにも反対し、ペテロにも反対したのですから。しかし、パウロ以上に、彼らが何に反対し反抗的なのかというと、クレテの偽教師たちはエルサレムの会議に反対しているのです。
この割礼に関する話、清めに関する話は、すでに教会の権威をもって解決されているものです。使徒の働き15章に出てくるエルサレム会議では、すでに「異邦人は割礼を受ける必要はない」と宣言されています。そして、クリスチャンはどんな肉でも食べてよいということも、すでに定められているのです。それなのに、この地域にいる割礼を受けた人たちは、パウロに対しても、このエルサレムの会議に対しても反対するのです。
⚫️そのような者たちの口は封じなければなりません。彼らは、恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、いくつかの家庭をことごとく破壊しています。(テトス1:11)
それでもはや、どうすればいいのか。ここまで来た時に何をすればいいのか。それはパウロがテトスに教えている通り、そのような者たちの口を封じなければなりません。
「口を封じる」とは、まずは教会の中で教えてはいけないということです。公然の場でほかの人たちに教えることは禁じられます。しかしそれだけではありません。教会の中で自分たちの考えを広めてはいけない、ということです。たとえば、1対1で秘密裏に会ってその思想を教えたり、教会の中で影響力を得ようとすることを止めなければならない、ということなのです。
もちろん、健全な議論や話し合いの場はあります。エルサレム会議の場でも「多くの論争があった(使徒の働き15:7)」と書いてあります。そこでは議論が行われ、そして結論が出ました。だからこそ、その結論に従わなければならないのです。
ですから、教会というのは思想における民主主義があるわけではありません。どの意見も平等で価値があるわけではありませんし、どの意見も等しく聞かれるべきだというわけでもありません。教会はこの世の感覚や思想とは異なるのです。
口を封じなければならない人たちがいるのは、神様が語って真理を示しているからです。そして、教会はその受け継がれたみことばにしっかりとしがみついて、それを守らなければならなりません。
ですから、人を惑わし、真理から人を引き離すような人たちは、その口を封じなければならないし、激しく叱責を受ける必要もあります。
この世の中で、道具としても武器としても最も力のあるものは「ことば」です。神様はことばをもって世界を創造されました。そしてまた、エデンの園にいた蛇も、ことばによって人類を堕落させました。
だから、改革派の教会は、だれが教えてもいいのか、ということにものすごくこだわるし、教える賜物に関してもすごくこだわります。
定期的に説教をすることができる人、みことばを解き明かすことができる人は、改革派の中では地区会で試されて、そして地区会が承認した者でなければなりません。
教える賜物というものは、カリスマで決まるものでもなければ、だれがその話を聞きたいかで決まるものでもありません。むしろ、その教え自体が健全であるかどうか、教えている人がきよい生活をしているかどうか、このようなもので測られます。そして、この教えが健全かどうかをどうやって試すかというと、すでに試されている人たちがそれを試します。そのために、地区会というものが存在するのです。
健全な教えというのは、使徒たちから受け継がれた教えです。パウロは忠実な長老について「教えにかなった(テトス1:9)」と言いました。つまり、自分が受けた教えにかなった信頼すべきことばをしっかり守っている者が、長老にふさわしいということです。
パウロはまた、テモテへの手紙の中でもこう言っています。
【第二テモテ1:13】あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。
【第二テサロニケ2:15】ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。
これらは、じつはキリストのパターン、キリストの模範に従っていることなのです。なぜなら、イエス・キリストご自身も御父に従って、御父から受けたことばだけを語っておられたからです。
【ヨハネ14:10b、24】わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。
わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。
ですから、偽教師たちがパウロやエルサレムの会議の決定に逆らう時に、実は神ご自身に逆らっているのです。そして、そのような人たちは、決して教会の中で教えたり、影響力を持ったりすることは許されません。
しかし、偽教師の口を封じること、あるいは叱責を与える意図は、憎しみではありません。彼らを憎んでいるから止めるわけではないのです。叱責の目的は呪うことではなくて、祝福を与えることです。
⚫️「クレタ人はいつも噓つき、悪い獣、怠け者の大食漢。」この証言は本当です。ですから、彼らを厳しく戒めて、その信仰を健全にし(なさい。)
(テトス1:12b~13)
その叱責はどこに向かうかというと、彼らを助けること、その信仰を健全なものにすることです。ですから、この戒め、この叱責というのは、だまされている人を助けるためにありますし、また、だましている人を助けるため、彼らの救いのために与えられるものなのです。
ここでパウロはクレタ人のことをひとくくりにして話ますが、自分の所属している団体や集団の特徴、特にどういう罪の傾向があるのかを理解することは大切です。それを知ることで、具体的にそれと戦うことができます。
日本人の典型的な罪は何だと思いますか。
東京に住んでいる私たちの典型的な罪は何でしょうか。
私たち三鷹福音教会の典型的な罪は何でしょうか。
これはぜひ話し合いたい話題です。ここで正解は出しませんが、いつか日曜学校で話し合いたい話題です。この後、お昼を食べながら話し合っても結構です。
教会の一つの大切な役割は、特定の人たちを特定の罪のために叱責することです。聖書にはこのような例がたくさんあります。
旧約聖書を見てみますと、イスラエルに対する長い戒めの箇所があります。読んでいると疲れて集中力が切れるくらいたくさん、長々と書かれています。イスラエルに対してだけでなく、その周りのいろいろな国に対する神様からの叱責もあります。
新約聖書を見ても、具体的に読んでいる人たちがわかるように、たとえばヒメナオやピレト(第二テモテ2:17)、デマス(第二テモテ4:10)の名前が出てきます。それらが聖書に残されています。
イエスも叱責を与える時に、人や罪を特定して指摘していました。
黙示録の七つの手紙を思い出してください。
七つの教会はそこまで大きな教会ではありませんでした。だから自分たちに与えられた手紙を受け取って初めて読んだ時、どれほどドキドキしたでしょう。イエスから直接手紙がきて、イゼベルを責める時に、だれのどういう話かわかってしまいます。
教会が罪人に叱責を与えるのは、教会に与えられている預言者としての役割です。今日朗読しましたが、エゼキエルに与えられていた役割は、見張りとして人に警告を与えることでした。
【エゼキエル3:11】さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行き、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう言われる』と彼らに言え。」
この働きは、今はそのまま教会に与えられているのです。
まず教会の中にいる人たちに対して警告を与えること。そして、社会に対しても警告を与えること。その預言的な働き、預言者の役割が教会に与えられています。
まず教会から始まります。そして、もし教会がそれを怠れば、教会から始まって社会全体が腐敗します。
実際に、叱責を与えず、罪を具体的に取り扱わない教会が今の時代はたくさんあります。逆に罪を勧めている教会があるくらいなので、当然社会が腐敗します。教会はこの働きを、神から受けたものとして、勇気をもって忠実にやらなければならないのです。
この話をした時に「そうだ、あの罪人を叱ってほしい」と思わないでください。このような叱責はまず私たちから始まります。私たちは罪人の集まりです。だからこのような叱責は私たちにとって必要なものですし、また祝福でもあるのです。私たちはだれでも時々、神から叱責を受けなければなりません。
大人がそれを受けるのは難しいことです。私たちには色々な評判がかかっていますし、プライドもあります。それで、だいたい大人になるとだれも直接話してくれません。だから陰口が多くなるのです。でも、私たちが知恵のある者なら、そのような叱責を受け入れます。受け入れるどころか、それを求めます。
箴言にこうあります。
【箴言 9:7~9】嘲る者を戒める者は、自分が恥辱を受け、悪しき者を叱る者は、自分が傷を受ける。
嘲る者を叱るな。彼があなたを憎まないために。知恵のある者を叱れ。彼はあなたを愛する。
知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵ある者となる。正しい人を教えよ。彼は洞察を深める。
ですから、私たちが知恵のあるコミュニティとなり、清い人たちの集まりになるために、叱責を喜んで受け入れなければなりません。
叱責に関して、二つのことを覚えておいてください。
叱責を与えるのは神様ご自身であるということ。
そしてその叱責の目的は、罪人の回復と和解 (神との和解、人との和解) であるということです。
神からの叱責には、いろいろな形があります。だいたいの場合は、教会から来る正式な戒めではありません。いつでも、どこからでも叱責されたりします。特に、みことばを祈りながら瞑想している時に、神様は私たちに語りかけます。
しかしよくあるのは、戒めが自分の夫や妻から来たりすることです。だから結婚することも祝福なんですね。あるいは、自分の子どもから来たりします。それはただその人の口から出てくるとは限りません。「あなたは何をしているのだ」というような直接的な言葉にならないことが多いです。しかし子どもの振る舞い、彼らの人生の方向性を見た時に、それが自分に対する神の叱責だったりします。あるいは、自分の行い、蒔いた種を刈り取ることも神からの叱責です。
場合によっては、人の行いを見て、彼らがどのような実を刈り取ったかを見た時に、私たちも一緒に叱責を受けたりします。
そして、イエスはまた、私たちをお互いに遣わしておられます。お互いに神の叱責を与えるためです。それが今日朗読したマタイの福音書の話なのです。
【マタイ18:15~17】また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
神様が私たち一人ひとりにみことばを与えているのは、私たちもそのみことばを持って、お互いを教え合ったり、叱責を与えたりすることができるためです。
ですから、私たちは常に神の叱責に耳を傾けていなければなりません。叱責が神から来るものであるなら、それを受け入れないことは、神に対する反抗になるからです。
【ヘブル12:6】主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。
神の懲らしめは愛の現れです。神の懲らしめがあるということは、神様が私たちのことをまだ諦めていないし、手放していないということです。神様は私たちを回復させようとしておられます。ですから、私たちはそれに耳を傾け、叱責を受けた時には悔い改めて、自分の行い、自分の生活を変えなければなりません。
神様は、口先のことだけでは喜ばれないということを忘れないでください。
⚫️彼らは、神を知っていると公言しますが、行いでは否定しています。彼らは忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。(テトス1:16)
私たちが口先だけで、申し訳なかった、悪かった、とんでもないことをしていた、と言ってもそれだけではどうしようもありません。神様が求めているのは、私たちの行いが変わることです。神様は私たちの行いを見て私たちをさばきます。
ですから、私たちは生き方を変えて、きよい生き方を求めるべきです。
聖餐式を受ける時に、私たちの罪のためにイエスが受けた罰を目の前にしています。イエスは私たちを清めるために、私たちが赦されるために、どんなに苦しんで死なれたのか、そこを私たちは覚えるのです。
ここにも神の叱責があります。「あなたたちは、これほど罪深いのだ。わたしの愛する子がここまで苦しまなければ、あなたたちは救われなかったのだ」ということです。ですから、私たちはこの神の愛、独り子を犠牲にする愛を見た時に、そして罪に対する神の怒りを目の前にした時に、善を行うように強く動かされますように。
そして、私たちを神と和解させてくださる、このイエス・キリストの血を感謝していただきましょう。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン。
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