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「教えと模範に支えられたきよい生活」テトス2:1~14

9月13日
読了時間: 10分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師



今日の説教箇所は少し長めですが、色々な登場人物について話していますので、ぜひどのような人たちが出てくるか考えながら聞いてください。

テトス2:1~14

しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを語りなさい。

年配の男の人には、自分を制し、品位を保ち、慎み深く、信仰と愛と忍耐において健全であるように。

同じように、年配の女の人には、神に仕えている者にふさわしくふるまい、人を中傷せず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。

そうすれば、彼女たちは若い女の人に、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、善良で、自分の夫に従順であるように諭すことができます。神のことばが悪く言われることのないようにするためです。

同じように、若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。

また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。

奴隷には、あらゆる点で自分の主人に従って、喜ばれる者となるようにし、口答えせず、盗んだりせず、いつも善良で信頼できることを示すように勧めなさい。それは、彼らがあらゆる点で、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。

実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。

その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス·キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。

キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。


パウロはここで、教会にいる人々をいくつかのグループに分けて、それぞれがどのように生きるべきかを教えています。

年配の男性、年配の女性、若い女性、若い男性(日本語にははっきり男性とは書かれていませんが)、そしてテトス自身、さらに奴隷たちについて教えています。

このように、教会にいるさまざまな立場の人たちに、それぞれふさわしい生き方を教えたあとで、パウロは、私たちがそのようなきよい生活を送ることは、イエス·キリストの恵みによって可能になる、と語っています。

まず私たちが気づくのは、このきよい生活が教えと模範に支えられているということです。 


⚫️しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを語りなさい。(テトス2:1)

パウロがテトスに命じているのは、健全な教えにふさわしい生き方を教えることです。教会が抽象的な教理について教えることも大切ですが、教えるだけで止まってはいけません。 さらに実践的に、その教理が私たちの生活をどのように導くのか、それも教えなければなりません。実践的な教えが性別や年齢など具体的になると、立場や責任でどう生きるかが変わっていきます。独身なのか、結婚しているのか、子どもがいるかいないか、お金があるかないかなど、どの特定のグループにもステージがあり、フォーカスすべきことや独特なあるいは典型的な誘惑があったり、必要性があったりします。 ですからテトスは、それぞれの必要性に合わせて教えなければならないのです。 

パウロはまず年配の人たちから始まります、なぜなら彼らは若い人たちの模範だからです。 教会には、成長した模範的な人たちが必要です。 神様は、私たちが常に先に歩んでいる人たちを見ながら学び、真似をしながら学び、成長するように造られました。模範的な人たちがいない教会は不安定な教会です。周りを見ると、必ず自分より先にいる人もいれば、後にいる人もいます。 ですから、私たちは常にだれかから学ぶ必要があるし、だれかを教え導く責任もあります。 つまり、この模範のパターンは私たち全員に適用されます。


⚫️また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、(テトス2:7)

 パウロはテトスに「健全な教えにふさわしいことを語りなさい。」と言った後で、「良いわざの模範となりなさい」と言います。ことばだけでは不十分です。なぜなら私たちは耳から入るものだけでなく、目で見ることからも学ぶからです。 ことばと模範の両方をもって教会を教えることが大切なのです。


⚫️慎み深い

ここで各グループへの教えを細かく見ていきたいところですが、その代わりにこの手紙の中で最も頻繁に出てくる重要なことばを一つ取り上げてみます。 それは「慎み深い」ということばです。英語ではよくセルフコントロール(self control)と訳されます。ギリシャ語ではソーフロン(σώφρων)という少しわかりにくく、掴みにくいことばなので、ここに焦点をあてて一緒に考えたいと思います。

「慎み深い」はテトスの手紙の中でとても大切な概念です。

パウロは1章で、「監督は慎み深くあるべきだ(1:8)」と教え、2章でも「年配の男性は慎み深くあるべきだ(2:2)」と教えています。また年配の女性も若い女性に「慎み深く生きるように諭す(2:5)」とあります。若い男性には「あらゆる点で思慮深く(慎み深いと同じ語源をもつことば)あるように(2:6)」と教えますし、私たちにも「イエスの恵みによって慎み深く生活し、イエスの栄光の現れを待ち望むように。(2:11~12)」と教えています。

この短い1章、2章の中で、パウロはみんなに「慎み深くなりなさい」と繰り返し教えているのです。 この「慎み深い」という訳は、元の言葉の広い意味の一部分しか表していませんが、一番しっくりくる直訳は「健全な精神を持ちなさい」かもしれません。英語ではサウンドマインド(sound mind)です。そのほかにも「自制心を持つ」とか「思慮深い」と訳されることもあります。

自制心、思慮深さ、慎み深さが一つのことばから訳されると、どこにつながりがあるかと思うかもしれませんが、自分の感情や欲望を制して、狂わないことが大切なので、健全な精神で自制が利いている状態のことを指して、「慎み深い」とパウロは言っていると思います。クレタ人の反対です。

【テトス1:12】クレタ人のうちの一人、彼ら自身の預言者が言いました。「クレタ人はいつも噓つき、悪い獣、怠け者の大食漢。」

クレタの人たちは怠惰で大酒飲みで大食漢でした。これは自制心が利いておらず、健全でなく、狂った生活を送っていることを表しています。 ですからパウロは、監督は短気でなく、大酒飲みでなく、乱暴でない人、暴力を振るう人であってはならないと言います。つまり慎み深い人なのです。頭と心が健全である状態です。

自分が怒った時に「あいつを殺したいと思ったけれど我慢できた」というレベルの話ではありません。この人は人殺しはしなかったけど、健全な状態まではいっていないのです。むしろ、忍耐して、自分の感情も思いも行動も、神の前にふさわしい状態であること、これが健全な精神を表しています。


なぜこれが若い男性にとって特に大切なのか、イメージしやすいと思います。 若い男性は欲が強く、自分の欲望に支配されやすい傾向があります。 お酒を飲みすぎる、ゲームに夢中になりすぎる、車の運転が早すぎる、怒る時に暴力的になる、言葉遣いが攻撃的になる、性的な欲が強くてその罪に簡単に走ってしまう、あるいはステータスやお金や名誉への執着など、思い当たる節があると思います。 しかしパウロは、この慎み深さは若い男性だけでなく、みんなにとって大切だと言うのです。

もし年をとった男性がこれを学んでいなかったとしたらどれほど恥ずかしいことでしょうか。 今の社会では、歳をとっても若さを失わない男性を称賛し、素晴らしいことのように見せたりします。今の時代は、歳をとっているのに成長がない男性を心が若くて素晴らしいと言ったりします。もちろん良い面もあるでしょう。

しかし、歳をとっているのに品がなく、自制することができなくて、まだ若い頃と同じものを追いかけているような人は模範にならず、若い人たちが健全な精神を保つように導くことはできません。これは恥ずかしいことなのです。


女性の場合はどうでしょう。女性は運転もゆっくりで、自制心があります。

では、ワインを飲みながら長話をしている女性たちをイメージしてみてください。彼女たちは噂話や陰口、妬み、競争心、自分の夫を見下すこと、あるいは子どもの面倒を適切に見ないことなど、様々な衝動や誘惑に心を動かされているかもしれません。

私たちの肉の欲が自分を支配している時、私たちは自制心に欠けています。精神が不完全です。しかし御霊が私たちを制するとき、私たちの精神は健全なものとなります。それによって私たちは肉の欲を制することができます。そのイメージをしたければ、四十日四十夜断食をしたイエス·キリストを思い出してください。


私たちはなぜこのように敬虔な生活を求めなければならないのでしょうか。パウロはテトスにその動機を明確に伝えなさいと言います。

その動機とは「神のことばが悪く言われることのないようにするため(2:5)」「敵対する者が、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるため(2:8)」「あらゆる点で、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるため(2:10)」とあります。 私たちが努力するのは、自分のプライドや個人的な利益のためではなく、神の御名のためなのです。 御名が聖とされるように、私たちは敬虔な生き方をしなければなりません。

【マラキ1:11】日の昇るところから日の沈むところまで、わたしの名は国々の間で偉大であり、すべての場所で、わたしの名のためにきよいささげ物が献げられ、香がたかれる。まことに、国々の間で偉大なのは、わたしの名。──万軍の主は言われる──


私たちは、二千年前のクレタ人と同じような状況にいます。日本でクリスチャンは少数派であり、周囲から見れば珍しい存在かもしれません。私たちは未信者に囲まれています。その中で、あなたが真面目なクリスチャンであることが知られた時、周囲の人々はあなたの生き方を見ています。「あの人は真面目なクリスチャンだよね」と言われることを誇りに思ってください。人々は、あなたがどのように神の御名を掲げるのかを見ています。


だからパウロは奴隷たちには、敬虔な生き方をするときに、あらゆる点で私たちの救い主である神の教えを飾るようになると言うのです。

教えを飾るとは、私たちの生き方は宝石であると思ってください。福音というものに宝石が飾られて、みことばが魅力的なものになっていきます。

その一番美しい魅力的な宝石の一つは、クリスチャンの結婚です。キリストと教会の間にある愛の証です。

【テトス2:4~5】そうすれば、彼女たちは若い女の人に、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、善良で、自分の夫に従順であるように諭すことができます。神のことばが悪く言われることのないようにするためです。

クリスチャンの女性がみことばにしたがっているとき、キリストの光が輝きます。 逆に私たちがその光を隠すとき、神のことばは批判やあざけりを受けます。


⚫️実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。(テトス2:11)

この恵みは何を教えているのでしょうか。

【テトス2:12~13】私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス·キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。

ここにはイエス様の二つの「現れ」が出てきます。

一つは、すでに現れた神の恵み、すなわちイエスの受肉、十字架、復活です。イエス自身の現われが神の恵みの現われなのです。それが私たちが敬虔になるように訓練を与えてくれます。

もう一つの現れは、将来の望みであるイエス·キリストの栄光の現れです。これは私たちが毎週告白している「キリストは死に(過去)、キリストはよみがえり(現在)、キリストは再び来られる(未来)」ということです。 最初の現れ(十字架)ではイエス様の栄光は覆いがかかっていて隠された状態でしたが、次の現れでは光輝く栄光の状態で現れます。それを私たちは見たい。

私たちが良いわざに熱心になるように、後ろからは恵みの現れが私たちを押して、キリストの栄光の現れが前から引っ張っています。特にそれが行われているのが毎週の聖餐式です。十字架と、最後の婚礼の祝宴です。私たちは十字架の恵みを振り返りつつ、未来の栄光の祝宴を待ち望みながら、良いわざに熱心な者として歩んでいきましょう。

父と、子と、聖霊の御名によって。アーメン。



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