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「幼子たちよ、神の光の中を歩みなさい」ヨハネの手紙第一1:5、2:1〜3、2:15〜17

  • 5月10日
  • 読了時間: 8分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


ヨハネの手紙第一1:5、2:1〜3、2:15〜17


私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。…


私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。


もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。…


あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。


ヨハネはイエス様と同じ年齢だと思われる。そしてAD60年頃(AD64年の迫害が始まる少し前)にこの手紙を書いたので、ヨハネは恐らく60歳前後だと思う。


そして ヨハネはこの手紙を特定のだれかに宛てたのではなく、複数の教会に向けて書いた。 AD64年から70年まで、ローマ帝国による本格的なキリスト教の迫害が始まり、それに加えてユダヤ人からの迫害も加わったので、この間はクリスチャンが非常に激しい苦しみの中にいた。この手紙はそのほんの少し前の時代に書かれている。


ヨハネはこの手紙の中で、テーマとして「神は光であり、神には闇は何一つありません」と宣言しています。 ヨハネは、光と闇、善と悪の絶対なる区別を原則として示し、光の中を歩むことはどういうことか、闇の中を歩むとはどういうことかを教えてくれている。


幼い子どもは物事を「イエスかノー」「白か黒」でしか捉えられないが、ヨハネは成長したクリスチャンなのに、なぜこのように明白に区別をしているのだろうか。


それは成熟した信仰のクリスチャンは事柄を明白に見ることができるようになるからである。 ヨハネは光のうちに成長し、原則的な光と闇の区別が明白にできるようになった。幼子にはその意味まではわからないが、ヨハネはその意味を深く理解してわかっている。そして、教会が光なる神様に従って、光のうちに生きるように教えているのである。



2章から、ヨハネは教会の中をいくつかのグループに分けて話している。


幼な子(日本語の翻訳では子ども)、五十歳以上の男性である父たち、そして若い男性たちである。



⚫️私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。(2:1)


ここで注目してほしいのは幼子たち(子どもたち)という呼び方である。


ヨハネはこの短い第一ヨハネの手紙の中で「幼子たち」という言い方(ギリシャ語で2種類の言葉)を全部で9回も使っている。これはヨハネがイエス様から学んだものである。 最後の晩餐の時に、イエス様がご自分とそれほど年齢の変わらない弟子たちを「幼子たち」と呼び「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われた。ヨハネはイエス様のその優しい心を受け継ぎ、年を重ねてから、父親や母親、あるいは愛する兄のような優しい心を持って教会の人たちを「幼子たち」と呼びかけているのである。


【ヨハネの福音書21:5】イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」


イエス様は岸辺に立っていたがそれがイエス様であることは弟子たちにはわからなかった。弟子たちは一晩中漁をしていたが、何も捕れなかった。それでイエス様がこのように聞いたのだが、ヨハネはこの長い福音書の中でこの一箇所だけ「幼子たち(子どもたち)」ということばを使っている。そのようにイエス様が自分たちのことを呼んでくださったことがヨハネの中に深く入ったのではないかと思う。ヨハネが手紙を書いたときに、教会の人たちのことを、幼子たち(子どもたち)と優しく呼んでいると思う。しかし、教えている内容は非常に明白である。光か闇しかない。ほかにはないのである。ヨハネはそこを強調している。



⚫️あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。(2:15~16)


ヨハネの手紙の中で最も有名なことばである。


ヨハネはここで「世を愛するのか、父を愛するのか」と、どっちつかずの曖昧さを許さず、明白に神に従って生きるべきだと語っている。この世を愛する者と、神はともに歩まない。



ヨハネは創世記3章のエバの誘惑の箇所を指してこれを書いている。 


【創世記3:6】そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。


エバが善悪の知識の木を見て「食べるのに良く(肉の欲)」「目に慕わしく(目の欲)」「賢くしてくれそう(暮らし向きの自慢)」だと思った。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢と同じ順番である。 


つまり、私たちが罪の誘惑を受けるとき、アダムとエバの最初のところに戻る。アダムとエバはサタンの言葉を信じるか神の言葉を信じるか、暗闇か光か、そのどちらかしかない。



同時に、ヨハネはイエス様の山上の説教も指していると思う。


【マタイ6:24】だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。


人は神とこの世の富とに仕えることはできない。この世の富を求めるのか、イエス様に従って御国を第一に求めるのか、どちらかしかない。


【マタイ6:31〜34】ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。


まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。


ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。


イエス様は、神を愛して光の道を歩むように教えて下さったと思う。ヨハネもこの世を愛するか、本当の神を愛するか、どちらかにしなければならないと言う。


私たちの時代には、この世を愛する誘惑は非常に強い。暮らし向きの自慢はいくらでもあるし、神様よりも富を愛するような誘惑が周りにある。 


現代のエンターテインメントやメディアなども、神様から心が離れるように影響を与えている。アメリカのハリウッドはクリスチャンを誘惑するものをわざと作って、キリスト教を嫌ってキリスト教を攻撃している。


私たちは自分が本当に神を愛しているのか、あるいはこの世を愛しているのかを認識し、はっきりと神を愛し、神に従って歩まなければならない。



イエス様はパリサイ人の偽善を批判した。長い衣を着て長い祈りをして人々からほめられるようにしていたからだ。ヨハネも私たちがパリサイ人のようにこの世の誉れや富を第一にするのではなく、光なる神を愛し、その命令を守って生きるように励ましている。


【ヨハネの福音書14:15】もし、わたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。


ヨハネは手紙の中でも同じことを言う。


【第一ヨハネ2:3】もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。



ヨハネはこの手紙を反キリストがたくさん現れているときに書いた。


【第一ヨハネ2:18】幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。


ヨハネは「今が終わりの時」であると言う。これは古い契約の時代の終わりを指している。 AD70年にローマ帝国によって、古い契約の象徴であったエルサレムの神殿が破壊され、古い契約の時代は完全に終わった。神殿をもう一度造り直すことはない。いけにえをささげることもなく、祭司制度も終わってしまった。祭司たちの系図の記録も破壊されたので、だれが祭司かわからなくなってしまった。ローマ帝国は建物を破壊して、ユダヤ人をたくさん殺して、イエス様のオリーブ山の説教の預言の通り、大きな迫害はユダヤ人に対してもクリスチャンに対してもAD70年に終わった。


クリスチャンへの迫害はその後も続いたが、それは古い契約とは全く関係ないものである。


クリスチャンは今、新しい契約の時代にあり、光なる神様の啓示に従って歩むようにされている。それは神を愛する道であり、神様の愛が私たちのうちにあることを表すことである。神様の愛が私たちのうちにあるなら、お互いに愛し合い、神の命令を守って生活を送る。私たちが成長したクリスチャンになればなるほど、光と闇の区別は明白になる。 私たちはもっと光を求めるようになり、光と闇の区別はもっと深くなる。ヨハネ自身が成熟したクリスチャンであるから、このように教えることができるのである。


ヨハネやパウロのようなクリスチャンが私たちに神の啓示のみことばを残して、教えて下さって、そのみことばを心から求めることによって、イエス様への愛を表している。


イエス様を愛してみことばを真剣に求めて、光の中を歩むように、ヨハネは私たちに励ましていると思う。


毎週の聖餐式は、光なる神に従って歩む誓いをあらたにする時である。


聖餐式の最後に自分自身を神様にささげる祈りをする。自分を神にささげて、御国を第一に求める心をあらたにして、光の中を歩んでいくように励まされる。



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