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「七つの大罪シリーズ:色欲」

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


色欲は扱いの難しいトピックの一つです。性や性関係の話は恥を感じるし、私たちはだいたい色欲に関してある程度の罪悪感を抱えていて、どれほど色欲に満ちた思いや行動をしているか自分ではよくわかっています。親子でこの話をするのは難しいし、子どもが親に聞くのも難しかったりします。いろいろな人がいて、それぞれの背景があって、年齢、経験、視点やリアクションも違います。でも難しいからといってこのトピックを扱わないなら怠惰の罪になってしまいます。教会がこのことについて話すのは難しいのですが、話さないのはそれ以上に危険です。世が常に性や色欲について多くを語って、それを正当化し、美化しているので、教会が色欲の罪について黙っているのは許されないのです。


聖書を読むと、神は明らかに色欲を憎んでいます。モーセの十戒の第七戒で姦淫の罪を禁じていますし、この罪は律法では死刑に値します。

モーセが十戒の板を持ってシナイ山から下りて来た時に、イスラエルの民はそこで金の子牛を礼拝し、性的な罪を犯していました。それでレビ人が神のきよさを守るために剣を持ち、その日に三千人もの偶像礼拝者を殺しました。神様はこのレビ人をご自分の祭司の民として選びました。

神様はダビデの罪に怒って、その子どもの命を取りました。何の罪もないダビデの子がダビデの罪のために死んだのです。(これは預言的です)


色欲は私たちのからだから出る罪というだけではありません。聖書を見ると、この罪は心から出てくることがわかります。じつはすべての罪が心から出て来ます。イエスの言葉です。

【マタイ15:19】悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出てくるからです。これらのものが人を汚します。

【マタイ5:28】情慾を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。

色欲はからだの罪でありながら、まずは心から出て来る罪なのです。聖書の見方はこの世の見方と全然ちがいます。

現代人は人間にたましいがあるとは考えません。唯物論によると私たちにはからだしかないのです。だから性的な関係もからだが接しているだけなのす。性欲を満たすのは食事や睡眠と同じで、どれも自然なもので正常なことです。なにしろ善と悪のちがいを教える本がないのです。人を傷つけたり暴力をふるったりしないなら、同意した成人の間なら大丈夫。あるいは自分と画面の間だけなら何でも大丈夫、という考えになります。浮気も捕まらなければだれも傷つかない。もちろん同性愛も問題ない。しかも私たちの生きている社会では、婚外関係が一番素晴らしい魅力的な関係とされています。だいたいのストーリーの中では夫婦の描写はしません。性関係は、まずは自分の快楽のために自分の欲しいものを奪い取り、自分のものにします。それで、心、からだ、たましい、自分のすべてを与えるのではなく、欲しいものを取るのです。美味しそうなら取って食べなさい。あなたは決して死にません。好ましく、食べるのに良く、目に麗しく、幸せにしてくれそうだから取って食べなさい。これが私たちが生きている文化なのです。


ところが、取って食べるとどうなるかはこの世は何も言いません。その人がどのように神と人から逃げるのか、どれほどの罪悪感や虚しさを感じるか、そのことは言わないのです。色欲は素晴らしい善を曲げたものです。神様が創造した性を曲げたものです。

【創世記1:27】神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

つまり神様は最初から人間を性をもつ者として創造されました。神の似姿として三位一体の愛なる神様を表すために性をもちました。神は主であり、命を与えるお方であるので私たちは性をもっているのです。命と愛、この二つを覚えてください。

神はすべて生きているものを愛のうちに創造されて、いのちで世界をいっぱいにしています。鳥の声も、虫の声も、恋人を探している神の被造物です。花から花へ飛んでいく蜂も神様の美しさや愛を楽しみながら性を表しています。生きているものは全て恋人を探しています。そして巣を作って、生まれてくるものを安全に養います。

生きているものだけではなく、ミネラルも愛を持っています。地球自体も神の愛を表しています。N極とS極が引っ張り合うことで地球が成り立っています。電気のプラスとマイナスがあってこの世界が成り立っています。同じだけど反対のものがお互いに魅力を感じることによってこの世界を結び合わせています。重力も神の愛を表しています。すべての重さのあるものがお互いを引っ張り合っています。これはただ非人格的な現象ではありません。神様がデザインした世界のあり方なのです。結び合わせようとする力によって、いのちが可能なのです。

この世界に神の愛を表す性があるように、人間の世界にもあります。それで満ちています。

神様は、縁のない二人、何のつながりもなかった男と女に家族を生み出す力を与えています。愛によって結び合わされて、新しいいのちを生み出す力を与えています。アダムとエバはお互いを愛し合って、生けるいけにえとしてからだもたましいもすべてをお互いに与え合う関係をもつべきでした。生んで増えて神の似姿をこの世に増やす使命が与えられていました。

性は炎のような、火のようなものです。神様が私たちに火を与えて、太陽も星も与えて、私たちが光や熱を得て車のエンジンや発電所を造ることができて、火があるからいけにえをささげることができます。食べ物を料理したり、町を作る力がありました。しかし罪が来たとき、その火が大火事になってしまいました。性の力によって町が燃やされてしまいました。きよい性は人を恋人として夫婦として一生結び合わせる力があります。色欲はこの関係の影でしかありません。色欲は人を結び合わせるのではなく、引き離すのです。色欲を満たす人は、相手と一生一緒にいたくないと思って、逆に距離を作ります。だから出会い系サイト、ポルノ、同棲、離婚があるのです。色欲は家族を作るのではなくて、家族を破壊します。一体ではなく孤独を生み出します。

きよい性欲は溢れ出て新しいいのちを作るものですが、色欲が一番欲しくないものは新しいいのち、つまり赤ちゃんです。何が何でも赤ちゃんが生まれて来ることを避けます。責任も自己犠牲もいらない。だから一生懸命避妊したり中絶したりします。色欲は死に至るのです。

本来なら、愛する者には自分をささげげたいと思うでしょう。しかし色欲は人を使い切って捨てますし、自分も捨てられたいのです。さきほど言ったようにいつまでも続く関係はいらないのです。それで色欲を満たす二人は人間性が下がります。お互いを物扱いするので、自分たちの方が物になっていきます。最初から悪魔は性を通して人類を攻撃していました。そして特に1960年代の性の革命以降、社会は大きく変わりました。1960年と比べて、今では結婚率が下がり、結婚する時期が遅くなって、生まれて来る子どもも減り、婚外関係が増えて、圧倒的に中絶が増えて、孤独、鬱、自殺も増えて、皮肉なことに性行為は減っています。このように色欲は、個人も家庭も社会全体も破壊します。


クリスチャンにとっても色欲は難しい敵です。私たちが自分の性を理解する前に色欲との戦いが始まります。結婚する人は、結婚する前に何年も色欲と戦います。神様はわかって、わざとこの時間のギャップを作っているのです。思春期に入るタイミングと結婚するタイミングを大きく分けています。だからすべての人間が待つことを学ばなければならないのです。場合によっては一生待たなければなりません。神様を信頼して、神様からでなければ手を出さない。神様が与えようとしている祝福を待つ訓練や自制が性欲によって与えられています。

現代の社会はこのギャップを長くする傾向があります。でもこのギャップがいくらあっても神に忠実であることは可能です。イエスの生涯はその証明です。イエスは一生貞節を守りました。


クリスチャンは色欲に関していろいろな失敗をします。一方で、この世は色欲を正当化したり美化したりします。それで教会が色欲によって混乱したり、性欲を恐れてよくない反応をしたりします。

そこで、ここで良くない反応をいくつかあげてみます。

1、性欲の抑制

性欲が恐ろしいので、それを抑えて隠して、まるでこれを消せるような思いをもちます。抑えて抑えて、結婚した時に初めて0から100になるのが可能であるかのように考えたりします。

しかし、重力を消すことができないように性欲も消せません。抑えて消そうとするのは良いことでもないのです。正しい性欲の持ち方は正しい結婚への道なのです。雅歌を是非読んでください。正しい性欲の持って行き方を表しています。性欲を消さずに、きよく制することがきよさの道なのです。そして0を維持することが不可能なように、結婚したら急に100にするというわけにはいきません。つまり結婚したあとも色欲とのたたかいがある意味でもっと大切になります。待つ訓練は続きます。自分を自己犠牲的にささげる訓練も続きます。結婚した相手を続けて求める訓練も続きます。

2、過剰反応

教会の中にたくさんの罪があります。これまでも私たちは、傲慢、怒り、怠惰、妬み、貪欲などについて学びました。このような罪に関して、私たちは静かに耐えたり、その存在を許したりします。

【第一コリント5:11】兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない。一緒に食事をしてもいけない、ということです。

このように書いてあるのに、私たちは貪欲な者をさばくことはあまりしません。特に貪欲に成功していればあまり触りたくないと思います。人をそしる者に対してもわりと寛大にしていられると思います。

でも、例えば結婚していない女の子が妊娠したら、山火事のようなスキャンダルになります。そして悲しいことにじつはクリスチャンの間にも中絶はたくさんあります。その理由の一つは、その女性の親や教会のコミュニティーが彼女を赦して受け入れてサポートしてくれることが信じられないからです。これに対してマタイの福音書はイエスの系図を私たちに教えています。

イエスの系図は代々父親を通してのものですが、5人だけ女性が出て来ます。

・タマル 遊女の姿で義理の父と寝て子どもを生みました。

・ラハブ 実際に遊女でした。

・ルツ 外国のバツイチの女でした。

・バテシェバ ウリヤの妻と書かれていますが、ダビデの浮気相手でした。

・マリア シングルマザーです。

5人ともこの世から見て倫理的な問題のある人たちでしたし、先祖にこのような人がいるのは好ましくないものです。預言者であれ、王様であれ、一緒にされたくないような女性たちでした。この世は彼らを受け入れませんでしたが、イエス様は彼らと一緒にされることを拒みませんでした。恥と思わず、むしろあまりにも一緒で彼らと一つであるから、彼らの罪を負って十字架に上りました。(もちろんマリアに罪があると言っているわけではありません)

つまり神様は遊女を愛する神なのです。これが私たちの救いです。私たちがみんな遊女だからです。

3、間違ったところに線を引く

まだ罪でない者を罪としてしまうことです。だれかが危険なことやリスクがあることをしている時、炎に近づきすぎていると思ったとき、自分の個人的な線や自分の文化が引いている線を越えていると思うかもしれません。しかし罪を犯していない人を、罪を犯しているというレッテルを貼ってはいけないのです。これがパリサイ人のしていたことです。これが彼らの間違いだったのです。

私たちは性欲を制したいと思いますが、消化してはいけないのです。

4、独善的

色欲の罪を独善的にさばくのはやりやすいと思います。なぜならあまりにもたくさんのカテゴリがあるからです。いろいろな色欲、いろいろな罪の犯し方があるからです。私たちが罪に陥る状況も様々です。みんなが同じ状況にいて、同じ誘惑にぶつかっているとは限りません。だれかの罪が罪が明らかになった時「それはとんでもない罪だ。私もいろいろやったがそれはとんでもないことだ」とか「これが誘惑になるなんて信じられない」とか「クリスチャンがそんなことをするなんて信じられない」という反応が先に来たりします。でももし私たちが神に赦されたいのなら、私たちの最初のことばは「主イエス・キリストよ、罪人の私をあわれんでください」でなければらなないのです。

教会は罪人のための場所であり病院です。ここで私たちは罪を悔い改めて、お互いを助け合って、罪と戦います。罪人はここで赦されて、助けられて、また良い状態態に戻されて、忠実に生きることができるようにセカンドチャンスやサードチャンスを与える場所なのです。

5、罪を罪として認めない。

つまり罪を犯している人に、悔い改めるように声をかけないことです。罪を扱うことを避けるなら、教会の使命を果たしてはいません。私たちはみんな、神のきよさを守るための祭司です。私たちのからだは神の神殿でありますし、教会は神の家なのです。【ガラテヤ6:1a】兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。

パウロは「御霊の人であるあなたがた」と言っています。これを聞くと、自分にはふさわしくないと思ってしまうかもしれませんが、自分がふさわしい人間になるために、御霊の人になるために努力する必要があります。そして柔和な心でその人を正す必要があります。

【ガラテヤ6:1b】また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

自分もへりくだっていなければなりません。偽善的で独善的な心でやってはいけないのです。


さて、神様が求めているのは、私たちが神のように愛することです。純潔で情熱をもって愛することができるように戦うことです。色欲と戦うのは、この戦いの半分にもなりません。

【箴言5:18】あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若いときからの妻と喜び楽しめ。愛らしい雌鹿、麗しいかもしか。彼女の乳房がいつもあなたを潤すように。あなたはいつも彼女の愛に酔うがよい。

「いつも」というのは「頻繁に」という意味もあれば、「末永く」という意味もあります。アブラハムとサラを思い出してください。90歳と100歳でした。神様はこのきよい情熱的な夫婦生活を楽しむように望んでいます。(これも雅歌を読んでください。)

【第一コリント7:3、5】夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。

互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これはあなたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。

夫や妻の互いへの義務とは夫婦生活のことです。

そしてサタンの誘惑とは、浮気の誘惑だけだと思わないでください。誘惑はいろいろあります。夫婦愛が冷たくなって距離ができて、夫婦にふさわしくない形になることも誘惑です。夫婦の関係性はいつまでも結婚したばかりのときのように初々しいものが続いてほしいと思っていますが、夫婦関係を保つのは人生で一番難しく、努力を必要とするものなのです。夫婦が一生のルームメイトでいることはそんなに難しいことではありません。一緒に生活できて、お互いを殺さない程度の目標ならそれほど高くないと思います。ある程度の距離を保って、相手が不機嫌でも成り立つし、大きなベッドの反対の角で寝ていれば大丈夫かもしれません。統計によると日本の夫婦の半分はこのような状態のようです。

しかし本当の意味で一緒に寝て、一緒に生活しようとするなら、ぐっと基準が上がります。自分が愛情深くなって、毎日気を配る必要があります。お互いのことばを聞いたり、精神的に支え合ったり、清潔で健康状態を維持して、自分が愛されやすい人間の状態を保たなければいけません。


結婚式が洗礼式のようなものであれば、聖餐式が夫婦生活のようなものなのです。

からだと霊が一緒に働く場なのです。

最初の楽なステージはすぐに過ぎます。そのあと、からだの親しさを保つためには、霊的な親しさを維持しなければなりません。一生親密に過ごす相手が自分に魅力を感じるためには、自分も常に霊的な成長を求め続けなければならないのです。

【エペソ5:33】あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。

これが夫婦の正しいあり方、そしてキリストと教会の姿なのです。

夫は常に妻に尊敬される人間であるように頑張り続けなければならないのです。

妻も夫に愛されやすい人間であるように努力しなければならないのです。

そうすれば、子どもが大きくなって家を出て、自分も仕事から引退して、夫妻二人だけの生活になったときにまだ楽しい。

そして自分の結婚は、最初から最後の日まで神の愛を反映するものになります。

もちろん結婚していない人もいるし、一生結婚しない人もいます。その人たちは性から出て来るエネルギーを生産性のために使って、友情に変えて、そしてイエスがこの地上に送った人生を真似して送ることができます。

そうすれば神様の愛、そのいのちが自分からあふれ出て、地上のいのちにおいても次の世においても神の祝福を大いに受けます。




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