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「ペンテコステ礼拝」

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


「ペンテコステ礼拝」


今日はペンテコステ礼拝です。聖霊が教会に降りた日です。今日の聖書箇所からもそれがわかるし、ぼくが着ている赤のストールもそれを表しています。この赤というのは聖霊が火として降りて来たことを表しています。ペンテコステはキリスト教の三大祭りの一つです。一番有名なのはクリスマスかもしれません。イースターも皆さんよくご存知だと思いますが、ペンテコステは教会以外では祝う人はいません。だからもしかしたらペンテコステは一番知られていない祭りなのかもしれません。

この祭りが他とどうつながっているかを考えてみます。今日から五十日前にイエスが復活しました。そしてイエスは四十日間弟子たちと一緒にいて教えたりしていました。そしてちょうど先々週の木曜日に昇天しました。その十日後にエルサレムで集まって待っていた弟子たちにイエスはその御霊を送りました。ペンテコステは五十日目という意味です。復活祭の五十日目。ペンテコステはよく教会の誕生日と言われています。ペンテコステですでに水の洗礼を受けていた信者たちが、今度は御霊の洗礼を受けた日なのです。それが教会の始まりです。クリスマス、イースター、ペンテコステは、じつは一つのストーリーを語っています。なので、今日はそれはどういうストーリーなのか、そして特にそのストーリーの中で御霊の働きは何なのかを見てみたいと思います。

御霊の働きにはいくつかのパターンがあります。


・みことばとともに働く

もちろん天地創造から始まります。

【創世記1:1】はじめに神が天と地を創造された。

そこに神の霊が水の上を動いていたと書いてあるので、最初から御霊も創造主であります。もちろん御父、御子も創造主なのですが、御霊も創造の働きに完全に加わっています。

【創世記1:3】神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

ここだけでも御霊の働きを見ることができます。まず御父が語り、その語ったことばが御子で、そのことばを成すのが御霊です。だから御霊とみことばを対比的に考えないでください。これは反対言葉ではありません。聖霊とイエス・キリスト、聖霊とみことばは、ともに働くものなのです。必ずいつもともに働くものです。これが一つのパターンです。


・分ける働き(超越した一つを生み出すため)

【創世記1:4】神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

ここで御霊の働きは分ける働きだと気づいてほしいのです。それと同時に、その二つが一つになるのです。昼と夜で一日。このパターンは何度も出てきます。創世記1章、2章を見るとたくさん出てきますが、そのクライマックスが男と女の創造です。

【創世記1:27】神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

それで神様はまずアダムを創造しました。しかしアダムの脇腹からエバをある意味で引き抜きます。ここで人間が二つに分かれます。そして男と女となります。男と女は別の形をしていて、別の機能を持っているので、結婚して一つのからだになることができるのです。二つに分ける目的はそれを超越した一つを生み出すためなのです。神様が天と地を創造された時、二つに分かれました。歴史の初めに天と地が別々に創造されたなら、歴史の終わりにその二つが一つに結合する、結婚する、という方向に向かっているはずなのです。このアダムとエバのパターンを見るとそれが預言されています。御霊というものは分けるものであると同時に結合するものだと思ってください。


・分裂(裁き)

聖霊の聖という字は聖別の聖です。聖いというのは他の聖くないものと分けられた特別なものという意味です。

聖なる者だったアダムが罪を犯して、聖い神の居場所エデンの園から追い出され、神は人から分けられてしまいました。しかも人と人の間にもこの分裂が起きるのです。カインはアベルを殺してしまいました。そして、世界も罪と暴力と抑圧に満ちていました。それでノアの洪水が来ることになりました。全世界をリセットするのです。 それで今朝バベルの塔のストーリーを朗読したのです。

【創世記11:4】彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて名をあげよう。われわれが地の前面に散らされるといけないから。」

彼らは結合を求めていました。天と地がつながることです。そして人類がすべて一つとなっている状態を求めていました。しかし御霊を通してではなくて、偽りのエデンを作ろうとしています。エデンは山です。山というのは塔です。山は天と地をつななげるものです。そしてノアの洪水の前には人類はエデンの園の外で礼拝していました。そこがエデンの園に一番近かったからです。そしてその周りにセツの子孫が町を作りました。結局、ニムロデは偶像礼拝をしてその状態を再現したかったのです。その塔はエデンの山で天につながるものとして作られようとしていました。そしてその周りに町を作って、偶像の宗教を通して人類を一つにして、神とつながろうとしたのです。でも、これは神の命令に反していました。

【創世記11:7】さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。主が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。

神様は天から降りてこられました。人々は塔を建てて天と地をつなげようとしましたが、確かにある意味ではつながったのです。それはさばきを通してのつながりでした。そのさばきは分裂です。御霊は彼らを言語を通してバラバラにしてさばきました。バベルの塔はこのパターンです。



ではこのパターンを考えながら少し前に戻りましょう。最初のペンテコステはいつだったでしょうか。それを知るためには、最初の過越しの祭りがいつだったのか知らなければなりません。ペンテコステは過越しの祭りの五十日後だからです。最初の過越しの祭りは、エジプトで奴隷にされていたイスラエルが救い出されて、そこから脱出して自由になった時です。神様の力によって彼らに自由が与えられました。その五十日後、彼らはシナイ山にたどり着きます。これが初めてのヨベルでした。よくヨベルの年と言いますが、この日はまさにヨベルの日でした。ヨベルというのは贖われることです。負債がゆるされて、奴隷が自由にされることです。これがシナイ山で行われました。ペンテコステが教会の誕生日であるように、シナイ山はイスラエルの国の誕生日でした。イスラエルへの誕生日プレゼントは律法です。律法は神の愛と義そのものでした。ペンテコスの日は、ある意味でイスラエルの憲法記念日でした。

律法と御霊に何のつながりがあるのでしょう。そこがピンとこないのは、私たちが御霊のことをよく誤解するからです。御霊はとても誤解されています。私たちは御霊について非言語的なものと思ったり、場合によっては非合理的なものと思うことがあります。それで、御霊は言葉にできないものとか説明できないものと思ってしまいがちです。深い感情や、説明できない奇跡や、癒し、このようなものを連想します。もちろんこれは間違ってはいません。確かに御霊は場合によっては言語化できない働きをします。

御霊は風です。風というのは動く空気、つまり息です。これはヘブライ語でもギリシャ語でも同じように息とか風とか霊という意味です。これらはコントロールすることができません。空気を掴むことも風を止めることもできませんし、予想することもできません。これはイエスがニコデモに説明したことです。

【ヨハネ3:8】風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。

確かに御霊といえば言葉なしの働きはあります。場合によっては、私たちに言葉が出ない時に言葉を与えてコミュニケーションを助けてくださるお方です。私たちが祈れないときに代わりに祈りをささげてくださるお方でもあるし、私たちが敵に対して答える言葉がないときに、その言葉を与えてくださるのが御霊なのです。

しかしここで強調したいのは、御霊の第一の手段はみことばであるということです。神様は語る神で、息を使ってことばを発するからです。神様は息を使って語る神です。御霊はそのみことばを世界に運びます。

じつは、これがクリスマスに起きました。私たちが二ケア信条で毎週告白しているように、「主は我ら人類のため、また我らの救いのため、天より下り、聖霊によりて処女(おとめ)マリヤより肉体を受け、人となり…」これは歴史の中で一番偉大なる結合の働きです。天と地が一つになりました。天にいる御子が天から降りて、この地上にしかない地のちりをからだとして持ったのです。イエスの受肉は天と地の結合を表しています。イエスのからだが天と地を結ぶまことの神殿になったのです。

他にもイエスの洗礼や十字架やよみに下ったこと、イエスの昇天など他にも色々話したいところがあるのですが、それを全部このことばにまとめておきます。

【エペソ4:8】彼はいと高きところに上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。

イエスはまずはよみに下って行き、よみの門を破壊して、そこから主を信じる者たちを上に引き上げました。それで今では天に地があります。ちりでできた人間(からだはないのですが)が天にいるのです。まだからだがない状態なのでもちろん完成はされていませんが、天と地の結婚が近づいていることがわかります。

そこでペンテコステが起きます。バべルの塔の事件の時に、神様はさばくために降りて来て、ことばを使って人類を分裂させました。しかしここではその反対のことが起きます。今度は人類を祝福して一つとするために神様が降りて来るのです。その手段は言語です。そして語っている言葉は福音です。敬虔なユダヤ人たちがいろいろな言葉で弟子たちが語るのを聞きました。バベルの塔の時は、いろいろな言葉で語るのを聞いてもだれもお互いに意味がわからなかったのに、今度は人々が理解できるために、ランダムではない、みんなに通じる、そこに集まっている人たちの言語が聞こえて来たのです。そのメッセージははっきりしていました。すべての言語を用いて、世の果てまで行って福音を伝えなさいということでした。みことばにの力によって救いを語りなさい。そして最終的に、十字架にあるように人と人が結び合わされて、人は神と、地上は天と結び合わされます。それがペンデコステの意味なのです。

天に上ったイエスは、自分の御霊を送ります。これが一番の賜物です。御霊が私たちに賜物を与えます。その賜物は一人一人みんな様々で、これも私たちを分けるもので、私たちに違う形、違う賜物、違う機能をそれぞれ与えます。しかしこのいろいろある中でこそ、私たちは一つのからだとして機能することができるのです。一つの御霊、一つの洗礼、一つの信仰を通して、神様は私たちを結び合わせます。教会に御霊が与えられているのは、この歴史を通して、私たちの一致を妨げるものを一つ一つ取り除いて教会が働くためなのです。私たちの罪や私たちの未熟さを取り除き、私たちの聖さを大人の状態まで引っ張って行くのが御霊の働きなのです。お互いの御霊の賜物がそのために用いられます。それで遂に私たちはイエスと結婚することができるのです。だから私たちには律法が必要です。律法というのはイエスの教えのすべてを指しています。それでペンテコステは私たちのシナイ山です。

【ヨハネ14:15~17】もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。

戒め、つまりここに律法があります。そして愛はその律法の成就なのです。

ヨハネは真理の御霊と言いますが、カオスの御霊とは言っていません。混沌とした感情の御霊とも書かれていません。これは秩序、平和、いのちの御霊です。御霊はいのちのことばを私たちに与えることによって、いのちを造る、つまり再創造を行います。

【ヨハネ14:25~26】これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

イエスが「あなたがたと一緒にいる間に話しました」というのは、イエスのみことば、教え、律法を指しています。

御霊はイエスのことばを私たちが忘れないように教えるお方です。さらに私たちがそれを理解できるように、また適用できるように、それに従って生きることができるように教えるのが御霊の働きなのです。

御霊はまず私たちを新しく造って、そして私たちを通して地上の世界を新しく創造します。


御霊は分裂と結合をもたらすお方です。でもそれは決して痛みのない分裂ではありません。人と人が分けられるのは悲しいことです。エバがアダムから引き抜いて創造された時にアダムは血を流しました。教会がイエスから生まれた時にイエスは苦しんで血を流しました。母親が子どもを産む時も血を流します。そしていつかその母親は亡くなります。多分子どもより先に死にます。このように、分かれることには痛みがあります。御霊の働きは、息を与えることでもあればその息を取り去ることでもあります。(息というとき御霊を連想してください)

【詩篇104:29】あなたが御顔を隠されると、私はおじ惑い 彼らの息を取り去られると 彼らは息絶えて 自分のちりに帰ります。

しかし、このストーリーはここで終わりません。つまり分れたままでは終わりません。結合、再会、そして永遠の結婚に向かっています。エバはアダムから引き抜かれて二人になったから一心同体になることができます。教会もこの世から聖別されたから、私たちも聖くなって神の子羊と結婚するのに相応しいものにないます。私たちの息、私たちの霊がこのからだから取り去られて死ぬから私たちは天に上ることができます。そしてそこで新しい永遠の霊のからだを受けることを待つのです。それは私たちがいつか神の家で、永遠にともに住むためです。

【詩篇104:30】あなたが御霊を送られると 彼らは創造されます。あなたは地の面を新しくされます。

これが私たちが向かっている未来です。


じつは、私たちはその未来をここで味わうことができます。御霊はこのパンとぶどう酒を通して、私たちがイエスともに居ることができるようにしてくださいます。さらに御霊は私たちを天にまで引き上げます。だから、私たちは「聖なる、聖なる、聖なる、」と神の御前で歌います。というのは、先にいなくなったお父さんたち、お母さんたちとともに礼拝しているからです。先に天に上ったおじいさん、おばあさん、あるいは妻、夫、兄弟。私たちはすでに彼らとともにここで今、神を礼拝しています。ちりでできている私たちがこの天からのパンをいただきます。それはいずれ私たちも彼らと同じように天に上って、そこで御霊の力を通して私たちがイエスと永遠に一つになるためです。だからペンテコステは素晴らしい日で、私たちはこの日を祝うのです。



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