説教者:ラルフ・スミス牧師
ピリピ1:9〜14
私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉が現されますように。
さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。
ピリピ人への手紙のキーワードの一つは「喜び」である。パウロはこのことばを他の手紙よりもたくさん使っている。注解書の中には、ピリピ人への手紙に「キリストにある喜び」という題をつけているものもある。
そしてもう一つ非常に強調されているキーワードがある。逆説的に聞こえるかもしれないが、それは「苦しみ」である。ピリピの人々はパウロの苦しみをよく知っていた。
パウロは、エルサレムの会議が終わってからシラスと旅に出た。ガラテヤの教会に行ってからアジアに行こうとしたら、御霊に止められた。そしてある晩「マケドニアに来てください」と夢の中で示されたので、マケドニアに向かった。そして旅の途中でテモテに割礼を与えて一緒に行き、トロアスでルカに会い、テモテとシラスとルカとパウロの4人でマケドニアに行った。最初の町はピリピであった。そこで福音を伝えて大きな問題になり、パウロとシラスは獄に入れられた。そこから出されても二人は結局町から追い出された。ピリピの教会の人々はパウロたちの苦しみをよく知っている。パウロは逮捕されたときにムチで打たれた。それだけでも大変な苦しみである。その晩、牢の看守が救われて、その後ピリピの教会は成長する。
ピリピの町を追い出されて、次にパウロはテサロニケに行く。テサロニケの会堂で教えようとしたが、暴動が起きてまた追い出されて、今度はべレアに行った。そこで福音を伝えたが、テサロニケのユダヤ人がべレアまで追いかけてきて、パウロたちを追い出した。それでアテネへ行って有名な説教をして、コリントへ行ってそこで2年ほど過ごした。
パウロはずっと打たれたり、追い出されたりして、苦しみながら福音を伝えていた。
パウロはピリピの人たちに、あなたたちも同じようなたたかいにぶつかっていると言う。
【ピリピ1:29〜30】あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。
パウロも苦しむ。教会も苦しむ。その教会に、パウロは自分の苦しみの中の喜びという模範をはっきり示す。そしてピリピの教会に「喜びなさい」と言う。
【ピリピ4:4】いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
パウロはピリピの教会の愛がますます成長するように祈っている。以前、この箇所をマタイ24章にあるイエス様の説教を思い出して一緒に考えた。苦しみや反対や裏切りのためにたくさんの人の愛が冷たくなるとイエス様は語っておられた。
パウロがローマに投獄されたのはAD60〜62年の間で、ローマで軟禁状態だったが、裁判が近いことがこの手紙でわかるので、パウロがピリピの教会に手紙を書いたのはAD62年頃だと思われる。AD64年に神殿が完成し、ローマが大火に見舞われた。その頃からローマ帝国もユダヤ人も一緒にクリスチャンを迫害するようになった。その時代の迫害や苦しみによって、ピリピの教会の愛が冷たくならないで、逆に成長するように、愛が成長するときに知識と識別力において成長するようにとパウロは祈っている。単なる気持ちではなく、神と兄弟を愛し、義の実を結んで、神の栄光が表されるようにと祈っている。
パウロは、自分に起こったことが福音の前進に役立ったと言う。それはどういうことか。
パウロはローマ兵に見張られて、24時間軟禁状態で鎖につながれて、2年間裁判を待っていた。そのローマ兵たちが親衛隊であった。パウロは寝る時も起きる時も親衛隊に鎖でつながれていた。親衛隊はローマ兵のエリート中のエリートである。
親衛隊はローマ共和国の時代にもいたが、ローマ帝国になってからその役割は同じではなくなった。ピリピはローマ兵にとって大切な町である。ブルータスとキャシアスはBC44年の3月15日にジュリアスシーザーを暗殺した。そして逃げて、マークアントニーとオクタウィアヌスとピリピの町でたたかって負けた。そのたたかいはローマの歴史の中で大切で、この町にリタイアした兵士たちもたくさんいて、ピリピの町の人々はみなローマ帝国の国籍を持っていた。
そして親衛隊にも福音が伝えられた。皇帝アウグストゥスは皇帝になってから、BC27年から親衛隊を変えて、自分のための兵士とした。普通の倍の給料を渡して、ローマに住まわせて、アウグストゥスを24時間守る役割を与えた。ローマにはよく火事が起こり、問題だったので、親衛隊はその火事の時も出動した。
ローマに問題が起きた時にも呼ばれるし、毎日の生活の中で皇帝を守り、共に旅をした。
AD62年にパウロがピリピの教会に手紙を書いた時は皇帝ネロの時代だった。ネロはアウグストゥスとは違った。ネロの母は親衛隊のリーダーを決めたが、AD59年にネロは自分の母を殺す。親衛隊はその一部始終を見た。ネロの毎日の生活の堕落も知っている。親衛隊がネロについて文句を言う記録も残っている。AD62年にネロは義理の姉妹である妻を殺す。それも親衛隊は全部知っている。
その親衛隊が、4時間ごとに交代して、パウロにつながれている。1年間で延べ2190人の兵士たちと関わっている。もちろん全部違う人ではないと思う。何百人もの親衛隊がパウロにつながって時間を過ごす。コロサイ人への手紙を学んだときに、パウロが逮捕されたときマルコとルカも一緒にいて、イエス様について話していたことを学んだ。親衛隊はその証しを聞いている。他にピレモンの奴隷オネシモもいる。ローマの中で奴隷が他の人と一緒に座って交わりをすることはありえない。パウロはオネシモを兄弟として受け入れて「私の子」と呼ぶ。親衛隊はこの人たちが祈り、賛美を歌うのを聞く。エパフラスがコロサイからローマに来てパウロにアドバイスを求める。パウロは知恵をもって答える。親衛隊はそれも聞く。朝ネロと4時間一緒にいて、午後パウロと4時間一緒にいる。ネロとパウロの違いは明らかである。親衛隊は福音をいろいろな観点から聞いていた。それだけではなく、奴隷を我が子のように受け入れるのを見て福音の力を知る。パウロは軟禁状態で楽しくはないけれど、その中で喜びに満ちている。親衛隊は9千人ぐらいいる。何百人、何千人もの親衛隊がパウロと時間を過ごして、自分の友達にネロとパウロのことを話したと思う。
パウロはイエス様を中心にして話している。イエス様の復活について、親衛隊は聞いたことがなかった。イエス様の復活についてたくさん聞いた親衛隊員は、このパウロがキリストのゆえに逮捕されて裁判を待っていることを親衛隊全体に伝えた。ローマ帝国の中でもかなりパウロの話が広まっている。それで親衛隊に話した福音が、他の兵士たちや奴隷たちに広まっていった。
【ピリピ4:22】すべての聖徒たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています。
パウロの証しは力強く広まっている。パウロの純粋なイエス様に対する心、イエス様を愛する心によって福音が広まって行った。パウロがローマで逮捕されて軟禁状態にあったことは、結局福音の前進につながっている。ピリピの教会にも一緒に喜びなさいと言う。
新しい年が始まった。
私たちはローマ帝国のように心を開いて福音を聞く国には住んでいない。
だからパウロの熱心な模範から学び、熱心な喜びをもって多くの人々に主イエス・キリストのことを伝えるように、成長したいと思う。
ピリピの教会のように愛において成長し、知識と識別力をもって実を結ぶことができるように、パウロのピリピ人への祈りを自分の祈りとして用いましょう。
新しい年に、心をあらたにして、主イエス・キリストのことばを語る者として用いられるように祈りましょう。
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